HOME > 展示目録 > 第1部. 日本論としてのキリスト教布教報告書類 > 2.ポルトガル人が著してポルトガル国外で刊行された書物



PASIO, Francesco(ed.)

Tre lettere annve del Ciappone de gli anni
1603, 1604, 1605 e parte del 1606

Roma, 1608.


パシェコ編『1603-1606年イエズス会日本通信』(イタリア語)

 本書は後に日本管区長となるポルトガル人宣教師フランシスコ・パシェコ(Francisco Pacheco, 1565?-1626)が、日本で布教に従事していた宣教師たちの1603(慶長8)年から1605(慶長10)年までの書簡と1606年の書簡の一部を纏めて、イエズス会総長に送った報告書である。パシェコは1604(慶長9)年に来日し、大坂や堺での布教活動を経てマカオに戻り、同地で学院長を務めた。1612(慶長17)年には再来日したが、1614(慶長19)年の宣教師追放令でマカオへ退いた。さらに、翌年に三度(みたび)日本に入り、京都で活動して1621(元和7)年に日本管区長となったが、1625(寛永2)年に長崎の口之津で捕縛されて火刑に処せられた。
 1603(慶長8)年の書簡を書いたマテウス・デ・コウロス(Matheus de Couros, 1567?-1632)はポルトガルの出身で、1590(天正18)年の天正遣欧使節の帰国と共に来日した。1596(慶長2)年マカオに戻り司祭に叙階され、同年に再び来日した。広島、有馬、長崎での布教を経て、1614(慶長19)年に再びマカオへ渡り、翌年日本へ戻って1621(元和7)年まで日本管区長を務めている。後任管区長フランシスコ・パシェコが捕らわれると管区長に復職、在職のまま大村で死去した。
 また、1604年の書簡を書いたジョアン・ロドリゲス=ジラーン(João Rodriguez-Giram, 1558-1633)はポルトガル出身のイエズス会士である。1586(天正14)年に来日し、九州での布教を経て1600(慶長5)年に京都へ入り、上京で教会の仕事に従事した。その後長崎へ戻り、1614(慶長19)年にマカオへ追放されて同地で死去した。
 本書の書簡は、1603(慶長8)年の徳川幕府開闢の年から1606(慶長11)年にかけて国内が安定していく様子を伝えている。当初、幕府はキリスト教を弾圧することはなく、むしろポルトガルや東南アジアの国々と積極的に交易を展開し、熊本領内でキリシタンの処刑事件があったものの、比較的平穏に布教が進んでいた。しかし、1605(慶長10)年になると、誤解や思い込みを原因として迫害が生じていったことが記されている。
 なお、1605年と1606年の書簡の作者については、「日本の司教」としか記されておらず不明である。


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