HOME > 展示目録 > 第1部. 日本論としてのキリスト教布教報告書類 > 2.ポルトガル人が著してポルトガル国外で刊行された書物



MATOS, Gabriel de

Lettera annva di Giappone del M.LDCIII
Milano, 1606.


マトス『1603年度日本年報』(イタリア語)

 ガプリエル・デ・マトス(Gabriel de Matos, 1572頃-1634)は、ポルトガルのヴィディゲイラ(Vidigueira)で生まれ、1588年にイエズス会に入会した。インドで司祭に叙階された後、1600(慶長5)年に来日し、九州での布教活動を経て1613(慶長18)年から京都の修道院長を務めた。
 豊臣秀吉のキリスト教に対する大弾圧後、キリスト教をある程度黙認していた徳川家康も1612(慶長17)年の有馬晴信が連座した所謂「岡本大八事件」が起こると、キリスト教を取り締まる方向に動き、1614(慶長19)年に「キリシタン禁教令」と「伴天連追放令」(排吉利支丹文)を発布した。同時に、徳川幕府が全ての宣教師に対し長崎に集まるように命じた際に、マトスは家康に会見を申し入れたが実現しなかった。また、1614年(旧暦慶長19年正月)に大坂に集められた時には家康への弁明書も書いている。彼は同年11月に長崎を出発して一旦ヨーロッパに戻るが、1620年からマカオのコレジオ院長を務め、翌年には日本および中国の巡察師に任命された。晩年はコーチンシナ(ベトナム)にも滞在したが、マカオに戻って死去した。
 本書は、マトスが来日して3年後の1603(慶長8)年3月1日にイエズス会のクラウディウス・アクアヴィーヴァ(Claudius Acquaviva, 1543-1615)総長に宛てて長崎から発信した書簡である。内容は、九州の長崎、大村、有馬、肥後、豊前、豊後、博多や、山口、大坂、京都、伏見における布教活動が書かれている。また、各地の教会、修道院、司祭館等の施設とそれらに所属しているイエズス会員の人数、洗礼を受けた人の人数(例えば、京都では960人以上、大坂では400人以上)の他に、仏教関係者との議論や対立の様子と人々の入信過程などが述べられている。
 本書の最後の部分に、他の宣教師たちによる1603年発信の書簡3通が含まれているが、その内容はマルク諸島やマカオにおける布教活動及びキリスト教施設についての報告である。


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