HOME > 展示目録 > 第1部. 日本論としてのキリスト教布教報告書類 > 2.ポルトガル人が著してポルトガル国外で刊行された書物



FROIS, Ludouicura

Zwey newe Jahrschreiben auβ Japonia
Meyntz, 1598.


フロイス『日本からの二つの新たな年報』(ドイツ語)

 本書はポルトガル人宣教師ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532-1597)が、日本からイエズス会のクラウディウス・アクアヴィーヴァ(Claudius Acquaviva, 1543-1615)総長に宛てて発信した2部からなる1595(文禄4)年の年報である。標題紙にはイタリア語からのドイツ語訳版であることが記されているが、翻訳者の氏名は記載されていない。
 第1部は1595年の全体的な年報で、太閤秀吉や各地の国主と、主に九州北部での教会、信徒との関係について、及びそこでの布教の実情が報告されている。1587(天正15)年7月24日の「伴天連追放令」発布後という社会状況下での長崎、大村、有馬、天草での布教を「主のぶどう園の耕作」と喩えて実りが多かったこと、とりわけこの年に改宗しキリシタンになった寺沢殿(長崎代官寺沢志摩守広高〔てらざわしまのかみひろたか〕)により今後の長崎での布教活動に期待が持たれることなどが詳細に述べられている。
 第2部では関白殿、すなわち秀吉の後継者として関白の地位に就いていた甥の豊臣秀次が秀吉に疎んじられるようになり、1595(文禄4)年に多くの罪をきせられ切腹させられたこと、さらにその罪は妻子にまで及び、子女、妾など30余名の関係者が処刑されたことなどが「関白殿の恐ろしい最期」として記述されている。
 この年報を書いたフロイスは、1592(文禄元)年の日本巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606)が離日する際にマカオへ同行し、3年後の1595(文禄4)年に日本へ戻った。したがって、この年報は彼が日本に戻るとすぐに同僚より留守中の報告を受けながら執筆したものと考えられる。なお、この後フロイスはマカオ滞在前から着手していた大著"Historia de Japam"(「日本史」)の編纂に没頭したが、2年後の1597(慶長2)年に長崎において死去した。


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