HOME > 展示目録 > 第1部. 日本論としてのキリスト教布教報告書類 > 2.ポルトガル人が著してポルトガル国外で刊行された書物



〔COEGLIO, Gasparo〕

Lettera annale portata di novo dal Giapone
da i signori ambasciatori delle cose iui succsse l’anno MDLXXXII

Venetia, 1585.


〔コエリュ〕『1582年 イエズス会日本通信』(イタリア語)

 この書簡を書いたガスパール・コエリュ(Gaspar Coelho, 1531?-1590)はポルトガルのオポルト(Oport)の生まれの宣教師である。ゴアに渡り1556年にこの地でイエズス会に入会した。司祭に叙階された後、インド勤務を経てマカオへ渡り、1572(元亀3)年には来日して九州の大村で多くの日本人を改宗させている。1579年に来日した東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606)によって日本のイエズス会が準管区に昇格すると、初代の準管区長となり南長崎の加津佐を中心にしてその任務を果たし、同地で死去した。
 この書簡が書かれた1582(天正10)年は、旧暦1月28日に巡察を終えたヴァリニャーノに同行して天正遣欧使節がローマへ旅立つなど、イエズス会の活動や布教は順調に進んでいた。この書簡も少年使節4人の紹介から始まり、日本のキリシタンの数が15万人前後になったことが書かれている。その他、有馬、大村、平戸、長崎など九州各地やミヤコ(京都)、さらには安土などの布教報告がなされている。
 特に、安土については城の豪壮なことや城下の賑わいを紹介して、イエズス会が修道院を建築するにあたり織田信長から安土城近くに土地を提供され、立派な家屋が短期間で建ったことなどが記されている。また、この工事の完成が信長を喜ばせ、信長が修道院の土地がまだ狭いと考えてさらに土地を広げる命令を発してくれたことなど、信長のキリスト教に対する理解が述べられている。なお、このようにキリスト教を擁護した織田信長は、この書簡が書かれた約4ヵ月後の旧暦6月2日に明智光秀の急襲を受け本能寺で自害したのである。


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