アントニオ・フランシスコ・カルディン(Antonio Francisco Cardim, 1596-1659)はポルトガルのエヴォラの近くで生まれたイエズス会宣教師である。15歳で修練所に入り1618年からインドに派遣され、アジア各地で布教に携わった。中国には長く滞在してマカオ修練所の教師や所長も務めている。また、1625年にはフィリピン総督の要望でペドロ・モレホン(Pedro Morejon, 1562-1637)神父と共にシャムに赴き、同国で捕らえられていた数名のスペイン人の釈放に尽力し、その後はコーチンシナやトンキン(いずれもベトナム)に渡った。さらに、1638年から1649年までヨーロッパに戻っており、この時期にラテン語で三冊の日本イエズス会関係の著作を書き残した。本書はそのうちの一つで、1643年にポルトガル語で初めて出版されたものである。その後、カルディンは再びマカオに帰って1659年に同地で没した。
1637(寛永14)年に勃発した島原の乱はその翌年に鎮圧され、徳川幕府はその後、極めて厳しいキリスト教禁令を発布し、1639(寛永16)年にはポルトガル船の来航を禁じる措置に出た。それにも拘わらず、翌1640(寛永17)年にポルトガル使節が来航して貿易の再開を求め、幕府はこれを退去させたが、さらにその一ヵ月後にはマカオから使節が訪れたため、幕府は8月3日(旧暦6月16日)、長崎に停泊していた船舶を焼き払い、マカオ出身のポルトガル使節4名と乗組員57名を斬首の刑に処し、この処置を知らせるため数人をマカオに送り返した。本書は難を逃れた人からの証言をもとにカルディンが記録し、この出来事から3年後にリスボンで刊行されたものである。
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