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PAX MUNDI PER LINGUAS
—言語を通して世界の平和を—

本学が京都外国語学校として創立された1947年(昭和22年)5月、終戦後間もないこの当時に何よりも求められたものは世界の平和であり、その基盤としての国際的理解でした。そして、この国際的理解を図るための外国語をマスターし、その文化・経済・社会に熟知した人材の育成は急務でした。

しかし、我々日本人が外国語を身につけることは、日本語の独特な構造が一種の妨げとなり、更には我が国特有の歴史に由来する伝統と習慣とがいよいよ外国語の修得を容易でないものにしています。つまり、島国に住む我々が一つの外国語をマスターするには、国境を接する国と国との間における外国語修得とは比較にならない困難さを伴うわけで、これに必要なものは、才能にもまして強固な意志と不断の努力であると言えます。

本学の建学の精神である“PAX MUNDI PER LINGUAS”(言語を通して世界の平和を)とは、世界平和達成への創立者の強い願いが込められており、創立以来、「不撓不屈」を教育・研究の基本精神としているのは、外国語を専攻する者にとって不断の努力が何よりも重要だからです。



創立者 森田一郎・倭文子「道を切り開く意志と行動力」

会津に生まれ、中国人留学生のための東亜高等予備学校や芝浦工業専門学校などで数学を教えていた森田一郎。会津藩家老佐川官兵衛の妻を大伯母に持ち、小学校教師をしていた伴侶の倭文子。二人は、終戦後の日本の荒廃した風土を目の前にして、その痛みと苦しみの中で、「日本の再建には教育の確立、外国語教育の復活が何よりも必要」と考えていました。軍事力だけでは外国とのトラブルは解決できず、敗戦という結末になりました。世界の平和を願うなら、平和に外国との交流を望むなら、相互に意志を伝え合うコミュニケーションが鍵を握ります。そのための語学力は必須です。「新しい日本」を支える人材の育成という志から、二人は外国語教育の学校を選んだのであります。このとき、二人は「言語を通して世界の平和を」の基となる理念を見いだしていたのです。

ではなぜ、東京で数学を教えていた一郎が、妻の倭文子と一緒に、京都で外国語の教育を手がけようとしたのか。会津武士の末裔として京都への思いがいくらか影響したかもしれません。後に一郎は学校創設の経緯を述べたとき、「さかのぼれば現京都府庁守護職邸跡に曾祖父も会津藩主松平容保公の師としてあったことを思う時、まことに父祖の業世襲ともいうべき奇しき因縁である」と述べています。

いずれにしても、場所が東京ではなくて京都であったのは、学校設立に必要な人材、すなわち一郎・倭文子は有能な知己・友人を京都に持ち、学校設立に力を貸してくれたからです。開成中学の同窓生だった京都大学の田中美知太郎をはじめ、旧制水戸高の恩師小牧健夫ら、一郎には京都の教育界での有力な知人の存在があったのです。そのかけがえのない人脈は、学校設立時だけではなく、その後の教授陣の充実にも生かされました。まさに、一郎・倭文子にとって人脈は宝であり、人との出会いこそ、人生を形づくるものであったのであります。

こうして森田一郎・倭文子は、1947年(昭和22年)、京都外国語大学の前身となる外国語学校をスタートさせました。二人にとっては、世界平和達成への強い願いが込められた学校だったのです。

一郎はどのような時でも泰然としていました。学者という風格でした。声を荒げたのを聞いたことがないといわれるほど温和な一郎は、平和の「和」を信条としていました。「ならぬものはならぬ」という会津藩の教えに象徴される厳しさを秘めた倭文子は、「不撓不屈」を信条としていました。まるで対照的な夫婦でしたが、相互に認め合っていました。そして共通して流れていたのは会津の精神だったように思われます。困難な時代にあっても、ためらわずに道を切り開いていこうとする意志と行動力。この精神こそ、創立者精神として私たちは引き継いでいかなければならないと思います。

当初、本学園は、森田一郎・倭文子により京都市左京区の一隅で「京都外国語学校」として出発しました。その後学園は、創立者を中心に教職員・学生・生徒一体となっての求心力、それに社会的要請も加わり、その規模は拡大していきました。かくして今日、大学、大学院、短期大学、高等学校、外国語専門学校、その他外国語教育にかかわる研究所等を含むユニークな学園に成長し、着実にその地歩を固めるに至っています。

創立者・森田一郎、倭文子

昭和24年、京都外国語学校教職員とともに

昭和47年5月18日、創立25周年での創立者

「未来へとつなぐ建学の想い」

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