| HOME > 展示目録 > II. 日仏修好通商条約の締結後に刊行されたフランス人による書物(1900年まで) |
| レガメーの主な日本関係著作 |
| フェリックス・レガメー(1844-1907)はエミール・ギメと共に刊行した『日本散策』で挿絵画家としての名声を確立したが、その後もギメの文化活動を手伝いながら独自に日本研究を続けた。また、日本や東洋から持ち帰ったスケッチを仕上げ、1878(明治十一)年にパリで開かれた万国博覧会に出展している。『日本散策』以降の出版活動は、「ル・モンド・イリュストレ」誌に翻案し連載していた滝沢馬琴の作品に、あらたに彩色を施して単行本『お駒』として刊行、さらに日本の美術工芸の技法をまとめた『実用の日本』を書きあげてジャポニスムの高揚に大きく貢献している。しかし、日本についての知識をさらに高める必要性を感じ、1899(明治三十二)年に美術教育視察のため再び来日した。その成果は『東京の学校の図画と図画教育』として著し、さらに『日本』を記すことになる。また、日本の美術教育視察旅行から帰国した1900(明治三十三)年にはパリ日仏協会が設立され、レガメーが事務局長に就任するなど、彼の親日的な姿勢は生涯変わることがなかった。 |
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| 本書はエミール・ギメ(1836-1918)が文章を記し、フェリックス・レガメー(1844-1907)が挿絵を描いたものである。ギメはリヨンに実業家の子として生まれ、父から受け継いだ事業経営に手腕を振るう傍ら、学校や共済組合を作るなど労働者の福利厚生に力を注いだ。また、外国に赴いて美術工芸品を収集してリヨンに博物館を創設し、展示物をパリに移して国立ギメ東洋美術館とするなど、文化面の知識にも長けた人物であった。一方、挿絵を描いたレガメーはパリで画家の子に生まれ、美術学校を卒業してデッサン学校や建築学校の教員を務めていた。また、イギリスやアメリカにも滞在して、有名雑誌へ頻繁に挿絵を投稿している。 二人は1876(明治九)年に、万国博覧会が開かれていたアメリカのフィラデルフィアで合流し、フランスの文部大臣が委嘱した宗教調査のためにアジア旅行に出立した。彼らは同年の八月に来日し、新橋との間に鉄道が開通していた横浜を起点にして関東を旅し、さらに東海道を馬と人力車で伊勢に入り、その後京都に滞在して神戸から日本を離れた。 本書は出版年を異にした二巻からなり、1878年に刊行された第一巻では横浜や鎌倉、江ノ島について記し、1880年刊行(本学所蔵は1883年版)の第二巻は東京と日光を取り上げている。文章を担当したギメは、日本について好印象を持っていたと思われ、明治初期の関東圏の文化を素直な筆致で紹介している。また、レガメーは、風物や生活する人々の姿を見事に描いた。 なお、レガメーはその後もギメの文化活動を支援しながら日本研究を続け、1899(明治三十二)年に再来日している。また、翌1900(明治三十三)年にはルイ・エミール・ベルタンを会長にしたパリ日仏協会ができ、ギメが副会長を、レガメーが事務局長を務めた。 |
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