HOME > 展示目録 > I. ヨーロッパに流布していた日本関係書物のフランス語版と来日経験がなかったフランス人による書物(1857年まで)



[LESSEPS, Jean Baptiste Barthelemy M. de]
Journal historique du voyage de M. de Lesseps
2 vols. Paris, 1790.


レセップス 『旅行日記』 全2巻

 著者であるジャン・レセップス(1766-1834)はフランスの侯爵家に生まれ、早くから多くの言語に才能を示し、十七歳にしてドイツのクロンスタットのフランス領事館で副領事を務めた。その後、ルイ十六世の命を受けた海軍提督ラ・ペルーズの北西航路発見の航海に通訳と史料編纂官を兼ねて随行することになる。二隻からなるラ・ペルーズの艦隊は、ブレスト港を出港後、南アメリカのホーン岬沖から太平洋へ入り、チリ沖を北上してアラスカに達し、反転して北カリフォルニアへと南下し、太平洋を横断しマカオへ入港している。その後、東シナ海から日本海へ入り、鎖国政策が進行中の日本を東にして北上し、間宮海峡の最狭部で南下して宗谷海峡から太平洋へ出たが、これによって、宗谷海峡はその後のヨーロッパで「ラ・ペルーズ海峡」と呼ばれるようになった。その後も艦隊は千島列島沿いに北上を続け、遂にカムチャッカ半島へと達した。
 レセップスは日記形式で本書を書いており、第一巻の203頁から211頁にかけて、1788年の2月11日にカムチャッカのニージェニェ・カムチャッカの街で、日本人漂流民の大黒屋光太夫一行と偶然に出会ったことを記している。この時期が日本の江戸時代の中期にあたり、レセップスにとっては初めて会う日本人であったと思われるが、光太夫が伊勢の白子を出港してから十六人の水夫のうち半数を失い、八人の仲間を引き連れていたことや、光太夫がロシア語を話し、賢明な人物で意志が強かった印象を述べている。
 なお、レセップスはこの地でラ・ペルーズ艦隊と別れ、調査資料を携えてシベリアを横断してフランスへ戻った。一方、艦隊は南下してオーストラリアに至ったが、その後の消息は不明となった。


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