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フランス皇帝ナポレオン一世の生涯
フランス皇帝であったナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769-1821)は1769年にコルシカ島で生まれましました。父が王政を支持し貴族に叙せられたことで陸軍幼年学校に入学して陸軍士官大学へと進み、1785年には砲兵少尉に任官しました。さらに、フランス革命の勃発で多くの将官が亡命して減少する中、トゥーロン攻防戦などで戦功をたて24歳で准将に昇進しました。その後、クーデタ一派との交際を問われて獄中生活も経験しましたが、やがて総裁政府の信認を得て、折から起こった反乱を鎮圧しました。
ジョゼフィーヌと結婚後の1796年、第一次イタリア戦役を指揮し、オーストリア軍とピエモンテ軍を破って凱旋しました。1798年からはイギリスのインド経営に打撃を与えるためエジプトへ遠征するが、1799年に敗北を認めずに帰国。なお、この遠征の成果として10年後の1809年から『エジプト誌』の刊行を始めました。エジプトからの帰国直後、ブリュメールのクーデタを敢行して統領政府を樹立し第一統領となりました。続いて1800年からの第二次イタリア戦役で勝利してオーストリアとの間でリュネヴィル条約を、また、イギリスとはアミアン条約を締結して一旦、戦いを収めました。
国内政治では革命期の亡命貴族や教会の資産の公売を認めた整理を行い、教会とはカトリック王党派を押さえて政教条約を締結。財政と経済面では1800年に新たにフランス銀行を創設し、対外戦争で得た賠償金で債務償還を行いました。また、法的には1804年に民法典を整備するなどして、個人の自由と法の下での平等を基本的に保障しました。さらに、教育面では中等教育機関と高等教育機関の再整備を行い、広い角度から民心の安定と母国の発展のための施策を打ち出しました。
こうしてナポレオンは政治基盤を安定させ、終身統領を経て1804年に皇帝の地位に就きました。市場の拡大を巡るイギリスとの戦いでは、アミアン条約の破棄以後イギリス本土上陸計画で失敗し、トラファルガー海戦での敗北など大きな痛手を被りました。しかし、中央ヨーロッパではオーストリアとロシア軍、さらにはプロシア軍に圧勝して東欧までも支配する勢いでした。この勢力拡大の中でイギリス産品を駆逐してフランス製品の浸透化を図り、自国産業の発展を目指しました。
こうしてナポレオンの権勢は絶頂期に達し、1809年にはジョゼフィーヌと離婚して翌年オーストリア皇女マリー・ルイーズと結婚しました。しかし、この繁栄も長くは続かず、1807年から始めていたスペイン遠征が混迷を極めていたことに加えて、ロシア遠征でも1812年に大敗を喫したことによって対仏大同盟の国々が勢いを盛り返し、1814年にナポレオンは遂に退位を宣言しました。
地中海のエルバ島へ退いたナポレオンはイギリス軍の監視下に置かれましたが、対仏大同盟諸国の利害が対立したことを知るとこの島を脱出し、ルイ十八世の統治力が低迷している間に再び帝位に復帰しました。しかし、1815年ワーテルローでイギリスとプロイセンに敗れたことが決定的要因となって、この復帰は所謂「百日天下」で終わりました。退位後はイギリス領のセント・ヘレナ島に幽閉され、1821年、側近に見守られながら51歳の生涯をとじました。