第2部
ポルトガルの偉大な日本研究者、モラエスの作品(図書以外の資料の含む。)


ヴェンセスラウ・デ・モラエスと日本

 ポルトガルのリスボンの生まれの海軍士官ヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854−1929)が初めて日本の土を踏んだのは1889(明治22)年の8月です。その後、1893(明治26)年にはポルトガルのマカオ港務副司令として、武器購入のために長崎、神戸、横浜などを訪れています。以後、1897(明治30)年までこの任務のため毎年来日するようになり、やがて開設が予想される神戸領事館における領事の席を希望するようになりました。しかし、1898(明治31)年の日本滞在中にマカオ港務副司令を解任されると共に本国への帰国命令が出され、モラエスはマカオから一旦、帰国の途に就いています。こうした中で、祖国の友人たちの努力が実り、神戸・大阪副領事館の初代領事代理として神戸に赴任しました。この副領事館が1899(明治32)年に領事館へ昇格したことにより、モラエスは正式な初代領事となりました。

 彼は神戸で生活する中で、神社や仏閣に関心を示し、頻繁にこれらの宗教の地を訪れています。1900(明治33)年からは福本ヨネと同棲を始め、翌年には二人で初めて、ヨネの故郷でありモラエスが生涯を終えることになる徳島の地を踏んでいます。 領事としては、1903(明治36)年に開かれた第5回内国産業博覧会でポルトガル館を作り、母国企業の協力のもと、葡萄酒やオリーブ油などを出展して宣伝に努めています。

 1910(明治43)年にはポルトガル本国が政変で王国から共和国となり、本国からの送金も途絶えましたが、領事館の維持に私財を投入しながら急場を凌いでいます。

 1912(大正元)年にはヨネが逝去、同年総領事に任ぜられましたが、翌年には総領事を辞して徳島に移り住みました。ここで斉藤コハルと共に生活を営み、著述家としての本格的な活動をはじめています。1915(大正4)年には、コハルとの間に麻一が生まれますが、コハルが翌年に逝去してしまいます。また、麻一も1918(大正7)年に亡くなり、モラエスは孤独な生活を強いられるようになります。しかし、彼の文才は衰えることなく、多くの原稿をポルトガルに送り数々の書物が出版され、日本文化研究家としての地位を築きました。

 そして、1929(昭和4)年の6月31日夜、過度の飲酒により土間に転落して打ち所が悪く、遂に死亡しました。