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 マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督は、1794年にロードアイランド州ニューポートで海軍軍人の三男 に生まれた。父は大佐に、長兄も中佐に昇進するほどの海軍一家であった。こうした家庭環境の中で、ペリーは14歳で士官候補 生として海軍に入った。

―海軍での栄達―
 英米戦争での活躍をはじめ、海賊鎮圧や護衛任務などで頭角を現したペリーは、技術畑にも精通し武器類の改良やアメリカで 初めての蒸気推進艦建造にも携わった。1837年の大佐昇進後も士官教育の改善など海軍の近代化に取り組み、アフリカ艦隊司 令官を経て就任したメキシコ湾艦隊司令官時代には、1846年から始まった米墨戦争を戦い勝利に貢献した。1852年には東インド 艦隊司令官に任ぜられ、議会の決議に基づきミラード・フィルモア第13代大統領から日本遠征の命が下された。(なお、1775年から 1857年までアメリカ海軍の最高位は大佐であり、艦隊指揮権を持つ艦長や司令官は提督の称号で呼ばれていた。)

―東アジア情勢と江戸幕府―
 その頃、東アジアでは中国がイギリスと戦ったアヘン戦争に敗れたことから、1842年の南京条約によって5港を開港し、香港も イギリスに割譲していた。以後、中国にはフランスなどヨーロッパの勢力が進出し、アメリカも権益を得るようになっていた。
 わが国の徳川幕府は、鎖国体制をとりながらも毎年オランダから来航する出島商館長が、海外情報を記述して提出する『風説 書』や、1842(天保13)年以降はより詳しい内容を求めた『別段風説書』、さらには中国船による『唐船風説書』を通じて、東ア ジアの動向を把握していた。また、1844(弘化元)年には、オランダ国王の親書を携えた使節が来日し、世界の動向を踏まえ開国 することを勧められていた。

―ペリー以前のアメリカ船来航―
 この時代になると、わが国近海に外国船が数多く出没し、アメリカ船籍では1837(天保8)年に江戸湾に入ろうとしたモリソン号 が、異国船打ち払い令によって撃退され、また1846(弘化3)年には、東インド艦隊司令官のジェームズ・ビッドル提督がヴィンセンス 号とコロンビア号で開国を求めて浦賀に現れ、退去させられていた。さらに、この他にも難破船の漂着や他国からの来航があった が、幕府は同様の措置をとっていたのである。

―遠征の目的―
 アメリカからの使節はビッドルに続いて2度目であったが、カリフォルニアから日本まで18日、中国へは20日程度で到達できるなど、 ビッドルが来航した頃と比べて蒸気船の発達が東アジアへの時間を短縮していた。また、中国貿易の進展や捕鯨漁の増加もあって 太平洋航路を航行する艦船が増え、日本の港湾を燃料や食料補給のために使いたいとする声が産業界にも高まっていた。こうし た背景をもとに、アメリカは産軍一体となって和親・通商に関する条約の締結を目指していたのである。

―浦賀来航―
 ペリーは日本遠征の任務を遂行するため、ヨーロッパで刊行されていた日本論に関する図書から豊富な情報を収集するなど周到 な計画のもと、1852年11月にミシシッピー号単独でバージニア州ノフォーク港から、アフリカ最南端のケープタウン経由で日本を目指し 出航した。途中で僚艦と合流しながら、1853(嘉永6)年7月8日(太陰暦6月3日)に、旗艦で蒸気推進艦であるサスケハナ号とミシ シッピー号をはじめ、帆船のサラトガ号、プリマス号の4隻からなるいわゆる「黒船」の艦隊を編成して、江戸湾の入り口で日本の 喉元にあたる浦賀沖に姿を現した。

―幕府の対応―
 幕府は、會津や彦根、川越勢らの精鋭部隊で固めていた江戸湾防衛の軍事力を背景に、わが国が長崎を外国との交渉地と 定めていることから、同地への回航を求めた。しかし、フィルモア大統領からの親書をあくまでも江戸近郊で渡そうとするペリー幕 僚の強硬姿勢に抗しきれなかった。結局、老中首座の阿部伊勢守の決断で、親書の受け取りを決定して浦賀近くの久里浜に 応接所を作り、7月14日(太陰暦6月9日)に戸田伊豆守と井戸石見守が、オランダ語と中国語の翻訳が添えられた親書等書簡類 を受理した。

―再来航の予告と幕府の苦慮―
 ペリーが帰国後監修にあたった『日本遠征記』によれば、彼は親書受け渡しの場で、「今回は、2、3日中に艦隊を率いて琉球、 広東方面に立ち去るが、来春の4月か5月に寄港する予定である」と述べた。また「今回の来航した艦艇の数は艦隊の一部に過 ぎず、次回はさらに大規模な艦隊を率いて来る」ことを予告し、7月17日(太陰暦6月12日)に浦賀沖を退去した。
 その後、幕府は老中阿部伊勢守が攘夷派とされた水戸藩の徳川斉昭公を海防参与に加えて幕閣を強化し、国論の統一を図ろう としている。また、諸侯に対応についての意見を求めたが現実的な具体策は打ち出せず、ペリー再来航時まで苦慮することになった。

―大艦隊を率いた再来航―
 ペリーは予告していた時期よりも早く、翌1854(嘉永7)年2月13日(太陰暦1月16日)に旗艦で蒸気推進艦であるポーハタン号をは じめ、同サスケハナ号、ミシシッピー号、帆船のマセドニアン号、ヴァンダリアン号、レキシントン号、サザンプトン号の7隻で再び来航 し、浦賀を経て武蔵小柴沖に投錨した。さらに後日には、帆船のサプライ号とサラトガ号が合流する大艦隊を編成したのであった。
 幕府はこれに対応するため、全国の大名に命じて準備していた約47万にのぼる兵力を動員して、伊豆(現在の静岡県)から 安房(現在の千葉県)にかけての江戸湾岸一帯に防衛ラインを展開したようである。

―和親条約の締結―
 江戸を交渉場所に主張するペリーと鎌倉・浦賀付近を提案する幕府との折衝で、最終的に双方が譲歩して応接所を横浜と決定 した。3月8日(太陰暦2月10日)から始まった交渉で、ペリーは幕府による難破船の処置が非人道的であったことなどを取り上げて、 林大学頭らとの間で議論を繰り返したが、結局下田、函館の2港の開港を含む日米和親条約を3月31日(太陰暦3月3日)に締結し、 これによって約215年にわたる鎖国時代に終止符が打たれた。ペリーはこの交渉過程で得た感触から、通商条約の締結交渉を後 年にするべきであるとの決断を下した。
 この年、幕府はペリーの動向を窺っていたイギリスやロシアとも和親条約を調印し、鎖国の扉はさらに大きく開かれたのであった。

―帰国と報告書の作成―
 日米和親条約締結後、下田で日米和親条約付則13ヶ条を締結したペリーは函館に赴き測量と視察を終えた。その後、琉球に回航 して那覇条約を結び、香港からは艦隊と別れ陸路インド経由でヨーロッパに赴き、1855(安政2)年の1月11日にイギリス船で帰国した。
 その頃のアメリカは、大統領がフィルモアからフランクリン・ピアス第14代大統領に代わり、世論は対外問題よりも南北戦争に向 けた国内問題が重視されるようになっていた。こうした中で、議会からの要請を受けたフランシス・ホークス牧師が、公式報告書 『ペリー日本遠征記』(正式には、『シナ近海および日本遠征記』)の編纂を行い、ペリーはこの監修にあたった。そして、別途に ロバート・トゥムズが編集した報告書の刊行を見て、1858(安政5)年3月4日ペリーは心臓発作のため63歳で帰らぬ人となった。

―ペリーの日本感の一端―
 ペリーは『日本遠征記』において、函館で見た日本人の風俗、習慣、職業について触れながら、「日本人が一度文明世界の 過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう。」と述べ、 日本と日本人の将来の姿を見事に予測している。

―ペリー後の日米関係―
 ペリーが亡くなった年、あたかも1858(安政5)年はタウンゼント・ハリス初代アメリカ合衆国総領事が幕府と交渉し、日米通商条約 が締結された年でもあった。この後、わが国の情勢は安政の大獄や桜田門外の変へと向かうが、1860(万延元)年には、咸臨丸 を随伴艦とする新見豊前守ら日米通商条約批准のための遣米使節団がペリー所縁のポーハタン号で訪米して、ジェームズ・ブキャ ナン第15代大統領やアメリカ国民から大歓迎を受けた。これによって、ペリーの業績はアメリカ国内で高く評価され、彼の名前は日 米関係の象徴的な存在になっていくのである。



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