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ラフカディオ・ハーン

 ハーンが、約20年にわたるアメリカでの生活に終止符を打ち、「夢の国」と憧れつづけた日本の玄関、横浜へ到着したの は1890(明治23)年の4月4日のことです。ニューオリンズで知り合った文部省の服部一三普通学務局長の尽力で、島根県の 師範学校と中学校の英語教師の職が決まり、同年の8月30日に松江に到着しました。ハーンは生徒から慕われる教員生活の中 で、士族の娘小泉セツとの結婚、長男の誕生など充実した1年2ヶ月を過ごしたようです。
 松江の寒い冬がハーンの健康状態に適さないことから、1891(明治24)年に友人である東京帝国大学教師のバジル・ホール・ チェンバレンの世話で熊本に移り、第五高等学校の教員となりました。こうして熊本に居を移すと、翌1892(明治25)年から 1894(明治27)年にかけて、博多、太宰府、長崎などの九州を始めとして、神戸、京都、奈良、隠岐、香川、東京など広 く国内を旅行して、我が国の風土や伝統を確かめようとしています。しかし、熊本での生活は対人関係で悩むことが多く、長 い滞在にはなりませんでした。
 1894(明治27)年には、第五高等学校との3年間の契約を終え、神戸に移りました。この地では、英字新聞である神戸 クロニクル社主のロバート・ヤングに雇われて社説を書き、アメリカ滞在時代に養ったジャーナリストとしての才能を発揮しまし たが、少年時代に左眼の視力を失っていたことから、右目にかかる過労のため退職しました。
 1896(明治29)年の1月には、正式に日本に帰化し、小泉八雲と名乗りました。この年の8月から、東京帝国大学の英文学 教師となり、多くの学生から尊敬の念を集めましたが1903(明治36)年に契約が終了し、大学側の雇用方針に馴染めないこと から再契約を行わず退職しました。その翌年の1904(明治37)年4月には、早稲田大学の創立者大隈重信に招かれ教授に就 任しましたが、同年9月26日に狭心症の発作により死去しました。

 
 
ヴェンセスラウ・デ・モラエス

 モラエスが初めて日本に来たのは、1889(明治22)年の8月です。その後、1893(明治26)年にはポルトガルのマカオ港務副 指令として、武器購入のために長崎、神戸、横浜などを訪れています。以後、1897(明治30)年までこの任務のため毎年来日 し、やがて開設が予想される神戸領事館における領事の席を希望するようになりました。しかし、1898(明治31)年の日本滞 在中にマカオ港務副指令を解任されると共に本国への帰国命令が出され、モラエスはマカオから一端、帰国の途についてい ます。こうした中で、祖国の友人たちの努力が実り、神戸・大阪副領事館の初代領事代理として神戸に赴任しました。この 副領事館が1899(明治32)年に領事館へ昇格したことにより、モラエスは正式な初代領事となりました。
 彼は神戸の生活の中で、神社と仏閣に関心を示し、頻繁に宗教の地を訪れています。1900(明治33)年からは福本ヨネと 同棲をはじめ、翌年には二人で初めて、ヨネの故郷でありモラエスが生涯を終えることになる徳島の地を踏んでいます。
 領事としては、1903(明治36)年に開かれた第5回内國産業博覧会でポルトガル館を作り、母国企業の協力の下、葡萄酒 やオリーブ油などを出展して宣伝に努めています。
 1910(明治43)年にはポルトガル本国が政変で王国から共和国となり、本国からの送金も途絶えましたが、領事館の維持に 私財を投入しながら急場を凌いでいます。1912(大正1)年にはヨネが逝去、同年総領事に任ぜられましたが、翌年には総 領事を辞して徳島に移り住みました。ここで斉藤コハルと共に生活を営み、著述家として本格的な活動をはじめています。 1915(大正4)年には、コハルとの間に麻一が生まれますが、コハルは翌年に逝去してしまいます。また、麻一も1918(大正7) 年に亡くなり、モラエスは孤独な生活を強いられるようになります。しかし、彼の文才は衰えることなく、多くの原稿をポルトガル に送り数々の書物が出版されました。
 そして、遂に1929(昭和4)年の6月30日夜、過度の飲酒により土間に転落して打ち所が悪く、死亡しました。

 
 
京都におけるハーンとモラエスの「接触」

 本学の梶谷泰之元学長はハーンとモラエスの「接触」について研究し、その成果を『京都外国語大学研究論叢』の第 10号(1968-昭和43-年)と第11号(1970-昭和45-年)の2回にわたって発表しています。
 この研究は、1891(明治24)年5月11日に起きた大津事件に絡むもので、大津市を訪れていたロシア皇太子に警備中の巡査 が切りつけ、傷害を負わせた行為を同じ日本人として詫びながら自決した一女性を巡る話です。この女性は畠山勇子といい、 梶谷元学長によれば「明治天皇は御見舞いのため、5月21日まで京都にご滞在になっていたが、5月20日の夜、若い女性が 京都府庁の門前に白布を敷き、細帯で膝を縛り、露国官吏、日本政府、母親等にあてた遺書10通を置いて鋭利な剃刀をも って頚動脈を斬り、壮烈な自害を遂げていた」と述べています。亡骸は京都市下京区にある末慶寺の当時の住職和田準然 師の配慮でこの寺に引き取られ、丁重に葬られました。
 ハーンは、大津事件が起きた頃は島根県に滞在しており、事件後同県から託されロシア皇帝宛ての見舞い電文を起草した ようです。畠山勇子については深く心をうたれ、1895(明治28)年には末慶寺を訪れ墓前で哀悼の意を手向けると共に、自著 である『東の国から』(目録P.11)や『仏の畠の落穂集』(目録P.13)で勇子を紹介しています。
 モラエスはハーンの死後3年を経た1907(明治40)年にこの寺を訪れて勇子の墓に参り、和田住職からハーンが勇子に抱い ていた気持ちを聞き、その後たびたび同住職と文を交わすようになりました。また、リスボンで発行されていた『セロンイス』と いう雑誌に勇子のことを寄稿すると共に、後にこの雑誌の原稿を一冊の本に纏めた『日本夜話』(目録P.35)でこの経緯を 紹介しています。
 本学でモラエスを研究したジョルヂェ・デイヤス元教授は、自ら記したモラエスの伝記『東方への夢』(1984-昭和59-年)で「ハ ーンは彼の最も敬愛せる作家であった」と述べ、モラエスが同じ時期に日本研究を進めた西欧人としての共通の立場からハー ンを慕い続けながら、彼の没後25年を経てその生涯を終えたことを伝えています。
 このように、ハーンとモラエスは大津事件を自らの死をもって詫びようとした勇子にみられる日本人の心理について共通認識を 持ち、物理的な「接触」は無かったものの、同じ視点から西洋とは異なる日本の文化と当時の日本人の考え方を認識してい たのではないでしょうか。

 
 
ハーンとモラエスの表記について

 我が国ではハーンについて「ヘルン」や、日本名である「小泉八雲」という呼び方がありますが、この展示会では特にこれ らの呼び方を解説等で明示する必要のない限り、日本語表記は「ラフカディオ・ハーン」もしくは「ハーン」で統一いたします。 また、モラエスについても「ヴェンセズラウ」などの片仮名表記もありますが、「ヴェンセスラウ・デ・モラエス」並びに「モラエス」 で統一いたします。
 なお、この展示目録に使っている資料の解説は、本学図書館が両者に関する資料を収集して以来、作られてきたものに 加筆し、新たに英文翻訳を添えています。



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