『東方見聞録』の流布を通して知られた日本
日本とフランスの間に修好通商条約が結ばれたのは1858(安政五)年ですが、ヨーロッパからは、この年より約六百年近くを遡る1271年から1295年にかけて、ヴェネツィアの商人であるマルコ・ポーロ(1254-1324)が中央アジアから中国を訪れて、その時に体験したことを『東方見聞録』として著していました。ポーロは日本の土を踏むことはなかったのですが、マニュスクリプト(写本)で流通しはじめたこの書物には、我が国が「黄金の国ジパング」として紹介されていました。その後、同書は多くの言語に翻訳され、印刷術の進展と相俟って、フランスの人たちの間で日本が知られるようになりました。
ザビエルがヨーロッパに伝えた日本の様子
1540年になると、パリ大学のバルバラ(Sainte Barbe, もしくはBarbara)学院で神学を学んだスペイン人のイグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)を中心とする六人がキリスト教の布教団体であるイエズス会を創りました。発足して間もない同会はポルトガル国王からの依頼を受け、フランシスコ・ザビエル(1506-1552)をインドのゴアへ派遣しました。やがてザビエルは布教の拡大を求めて日本を目指し、1549(天文十八)年に薩摩(鹿児島)へ上陸したのでした。彼は薩摩の人々の様子を手紙にしたためて、自分を薩摩へ送ってきた船がマラッカへ戻る際にこれを託し、その後に訪れた都(京都)や山口でも室町時代末期の社会の有様を手紙に記していました。これらの書簡がヨーロッパに届くと『ザビエル書簡集』として、また彼が帰天した後は『ザビエルの生涯』などとして、フランス語など多くの言語で版を重ねながら、長い間にわたって日本が紹介され続けました。一方、ザビエル以降に来日した宣教師たちは戦国乱世の時代を経て安土桃山時代の社会の様子を布教報告としてヨーロッパへ書き送り、それらは『年報』や『日本通信』として刊行されるなど、宗教関係の著作によって日本の様子がフランスの人たちの間で強く認識されるようになりました。
はじめてフランスを訪れた日本人、来日したフランス人
1603(慶長八)年に江戸幕府が開かれると、当初はスペインやポルトガルはもとより、イギリス、オランダなど西洋の国々をはじめ、ルソン(現在のフィリピン)やアンナン(現在のベトナム)など東南アジアの国々との交易に寛大であった徳川家康も、キリスト教の布教が既成権益と対立することから、宗教面では次第に警戒心を強めるようになります。二代将軍徳川秀忠の治世になり、キリスト教政策が厳しくなる中で仙台藩の伊達政宗が遣欧使節として支倉常長を1613(慶長十八)年にヨーロッパに差し向けます。この時、一行がスペインから海路ローマに向かう途中、暴風雨を避けて南フランスのサン・トロペに寄港した記録が残されており、日本人が初めてフランスの地を踏んだ歴史として語られています。しかし、彼らが帰国した1620(元和六)年には、仙台においてもキリシタン政策は厳しさを増しており、支倉らヨーロッパに赴いた人たちが二度と世に出ることはなかったようです。
その後、三代将軍徳川家光の時代になると度重なる禁教令が出されましたが、それにも拘わらず密かに キリスト教の布教や信仰は続けられました。1637(寛永十四)年には、フランス人で初めて来日した人物と伝えられているドミニコ会宣教師ギヨーム・クールテ(1590-1637)が琉球の石垣島へ上陸しますが、間もなく捕えられて長崎に送られ、この地で殉教したことが彼の伝記に残されています。このように、当時の日本国内の様子はヨーロッパに布教報告として伝えられ、幾種かの書物に纏められています。フランス出身のイエズス会士ニコラ・トリゴー(1577-1628)によって、『日本布教史』や『日本におけるキリスト教の勝利』などとしてラテン語で刊行されたものもその内の代表的なものです。この間、イギリスが対日貿易から撤退し、次いで幕府はスペインやポルトガルと断交するなど、1641(寛永十八)年にはヨーロッパの国ではオランダ一国を残し、全ての国と交渉を絶つとする所謂、鎖国体制が完成します。
鎖国時代の日本からの情報と日本研究書
このようにして出来上がった鎖国体制のもとで交渉を許されたオランダは、幕命によって平戸から出島へ商館を移されていました。この出島には幕末までの間に多くのオランダ人が滞在しましたが、中でも研究心と文才を持っていた歴代の商館長や商館医師、さらに商館員などは、ヨーロッパに戻ると日本についての書物を著しました。これらの人たちの多くはオランダ人でしたが、中にはフランス人の子としてブリュッセルで生まれ、商館長を務めたフランソワ・カロン(1600-1673)をはじめ、ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)やスウェーデン人のカール・トゥーンベリー(1743-1828)、ドイツ人のフィリップ・シーボルト(1796-1866)など、オランダ人以外の人たちも医師としてオランダ東インド会社に所属していました。この人たちが著した書物の多くはフランス語にも翻訳されて、フランスの人たちに日本を知らしめる要因となりました。
また、江戸時代前期や中期には前述のドミニコ会宣教師ギヨーム・クールテを除きフランス人が日本に来ることはありませんでしたが、1700年前後になるとフランス人のジャン・クラッセ(1618-1692)の『日本教会史』やピエール・シャルルヴォア(1682-1761)の『日本切支丹史』のように、日本に関心を持っていた人たちが、鎖国以前に書かれた書物や鎖国体制の完成後に来日したオランダ人たちを通じて知った知識や情報をもとに、文献に纏めて刊行しています。この内容はキリスト教の布教史に関わるものが多いことが特徴になっています。
1785(天明五)年になるとフランスの海軍提督ラ・ペルーズ(1741-1788)が国策のもとに、太平洋からアジア大陸東北岸の大調査を行いました。彼の率いる二隻の艦隊は鎖国体制下のわが国を東に見ながら、日本海を北上して間宮海峡最狭部まで進んだ後、反転南下して宗谷海峡を通って千島列島沿いに北進し、ロシアのカムチャッカに達しました。この時、通訳官のジャン・レセップス(1766-1834)は、ニージェニェ・カムチャッカの地で日本人漂流民の大黒屋光太夫一行と遭遇しました。レセップスが帰国後に著した『旅行日記』には、この時の大黒屋の様子が書かれています。このような、フランス人が直接日本人に会って書き残した文書としては、この時点から約百七十年以上前の支倉常長一行の南フランスでの記録、ドミニコ会宣教師ギヨーム・クルーテの記録、またラ・ペルーズがこの航海で琉球の与那国島で島民と接触を持った記録はありますが、両国の人たちが直接出会うことは少なかったと思われます。こうしたことから、このレセップスによる日本人についての記述は大変に珍しいものと言えます。
さらに、江戸時代の後期にあたる時期のフランス国内での日本研究は、鎖国体制を堅持しようとする徳川幕府の幕閣たちも想像しえない範囲で進められていました。これは、前述の長崎出島に来ていたシーボルトが日本人の書き記した書物をオランダへ持ち帰っていたとも言われ、それがフランスに渡り、フランス語に翻訳されて流通していたことです。この中には、幕府の国防体制を批判したことから禁書とされた林子平の『三国通覧図説』があり、この頃の日本の主要産業であった養蚕業の方法を著した上垣守国の『養蠶祕録』も見られます。
日仏修好通商条約の締結後の日本研究書
1853(嘉永六)年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー(1794-1858)提督が浦賀へ来航し、翌年再び来航して徳川幕府との間に日米和親条約を結びます。その五年後の1858(安政五)年に日米修好通商条約が締結され、この年、オランダ、ロシア、イギリス、フランスともほぼ同様の条約が結ばれています。特に、フランスとは来日した使節団のジャン・バティスト・ルイ・グロ(1793-1870)男爵との間に日仏修好通商条約が締結されました。この時、随行した人たちによって条約締結の回想録も記され、いよいよフランス人による本格的な日本論と日本人論が書かれ始めました。
また、翌1859(安政六)年になると、フランス国内ではレオン・パジェス(1814-1886)によって、ヨーロッパ各地で刊行されていた文献が調査されて『日本図書目録』が編纂され、日本関係書誌学の基盤をなす研究業績が打ち立てられました。
このパジェスと同様に、一度も来日した経験がなかったものの独学で日本語を身につけていたレオン・ド・ロニー(1837-1914)は、東洋語学校の教授としてフランス人に日本語を教える傍ら、歴史、文化にも精通して『日本文集』をはじめとする膨大な日本研究書を刊行します。また、フランスを訪れるようになった日本人とも交流を持ち、日本の文献や情報を数多く集めたようです。
このころ、フランスは徳川幕府に協力して武器の売却を行いや軍事顧問団を派遣しています。また、横須賀に造船所を作り、横浜では製鉄所を建設するための指導も行っています。さらに、フランス語学校の開校など強力に幕府を支援し、多くのフランス人が来日するようになりました。これに伴って、彼らの信仰のためのキリスト教宣教師の数も増えますが、中でも日本語に堪能なメルメ・カション(1828-1871?)は、布教面だけでなく日本人への語学教育に尽力して『仏英和辞典』など多くの著作を残し、またレオン・ロッシュ(1809-1901)公使の有能な秘書として日仏外交に影響を与えるまでになりました。
このような中で1867 (慶応三)年には、パリで開かれた万国博覧会に日本から徳川幕府とは別に佐賀藩と薩摩藩の九州二藩も参加して日本の伝統的な美術工芸品を出展したことから、フランスに「ジャポニスム」が流行し始めました。
明治時代中期までの日仏交流における日本研究書
やがて、徳川幕府は崩壊しますが、フランスが幕府に協力した技術や制度は明治政府によって引き継がれていきます。また、ヨーロッパの最新知識や先進技術の導入を求めて明治政府や各府県が招聘した「お雇い外国人」として、多くのフランス人が来日しています。近代国家としての法制度の充実のために招いた多くの法律家の中で、ギュスターヴ・ボアソナード(1825-1910)は民法や刑法典の原案を作り、日本をヨーロッパ式の法治国家にするために貢献しました。このように、幕末にもましてフランスは社会制度や科学技術を幅広く移転し、日本の近代化に力を尽くしました。
この頃、日本からフランスへの重要な輸出品であった養蚕業の繭をはじめとする関係技術は、フランス国内のこの種の産業の発展に大きく貢献しました。前述の上垣守国の『養蠶祕録』やレオン・ド・ロニーが日本の文献を翻訳した『養蠶新説』、さらにはメルメ・カションの養蚕関係の書物はリヨンを中心にして多くの紡績産業の関係者に読まれました。
また、日本の伝統的な浮世絵や絵画、古美術は、『日本散策』で有名なフェリックス・レガメー(1844-1907)やエミール・ギメ(1836-1918)などの美術研究家によって持ち帰られてフランスの美術界に大きな影響を与え、前述の「ジャポニスム」の興隆と相まって「アール・ヌーヴォー」運動の原動力ともなりました。
交流の発展と学問の進展を願って
やがて、時代は科学・技術や文化の面で幅広く積極的な交流が進められた20世紀を迎えます。その百年の間に、東洋と西洋との文化の違いを基にした異文化研究を前提にしながらも日本人とフランス人の共通の価値観に立脚した「ジャポノロジー」の成果が挙がるようになり、日本人のフランス研究の成果と相俟って、二国間の相互理解が深まりました。
さらに、世紀を重ねたこの2008年の「日仏交流150周年」を機にして、両国の人々の更なる相互理解に寄与する学問が進展し、その結果として多くの日本研究書が著されるものと確信しています。
この展示会は以上のような時代の流れから、第一部を「ヨーロッパに流布していた日本関係書物のフランス語版と来日経験がなかったフランス人による書物(1857年まで)」とし、第二部を「日仏修好通商条約の締結後に刊行されたフランス人による書物(1900年まで)」として開催いたします。多くの皆様にお楽しみ頂ければ有り難く存じます。
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