図書館長のおもちゃ箱付属図書館長 樋口 穣   

四条通今昔散歩 (第6回)
「最終回」




烏丸松原景観の100年
 BIBLIOTHECAと並行してWeb掲載をしてきた本コラムも、今回をもって最終回となります。BIBLIOTHECAでの四条通仮想散策はすでに四条通を京都外国語大学に到着して終わりました。今回このコラムでご紹介するお話は、ちょっと四条通から外れた場所が舞台です。

 上は、「京都市道路擴築后ノ烏丸通松原北向光景」(右横書き)と題された絵葉書です。
 道路拡幅というのは、京都三大事業の一つとして推進された事業でした。烏丸通の京都駅-丸太町間が拡幅されたのは明治45年(1912)のことで、市電路線の敷設を伴いました。「道路擴築后」というのですから、もちろん竣工後さほど遠くない時期の写真だと思われます。
 写真左の白っぽい建物の向こうに見える黒壁の三階建ては同年6月に新築されたばかりの高島屋です。商業施設としては初の鉄筋コンクリート造りの建築で、一部には地階まで備えたものでした。高島屋が現在の店舗に完全移転後、この建物はそのまま京都銀行本店として引き継がれました。その後、京都銀行本店は建て替えられましたが、その位置には当時の歴史を伝えるプレートが設置されています。
 次の写真はその一部ですが、建築の全体像をとらえています。
 烏丸通に面した一階正面にはショーウインドーを設け、地上目線では近代的工法によるモダンな建物でしたが、全体的には和風建築の風合いも遺したデザインだったことがわかります。


絵葉書と同じ写点で同じ場所を撮影してみたのが次の写真です(令和6年6月撮影)。



画面左の奥に京都銀行の現在の建物が見えています。二つの写真を重ねると・・・。



 同じ場所なのに、昔の写真のほうが広く感じますね。建物が低かった分、空が広く見え、自動車の通行もなかったためか、通り全体もいまよりずっと大きく感じるのです。逆に、現在の風景は、なんとなく中途半端な印象を与えます。
 京都市内の景観への意識は明治時代から住民にとっては大事な問題とされてきました。古くは仁丹の大看板や東山山麓の也阿弥ホテルの建築、路面電車木屋町線敷設などの折々に撤去や敷設の中止を求める運動が繰り返されてきました。最近でも京都ホテル(現・京都ホテルオークラ)や、JR京都駅ビルの建て替えなどの際に同様の運動が起きました。
 京都市内には、景観を配慮して建築物の高さ規制がありますが、上の写真を見る限り、現行規制の範囲内であっても、地上を歩く人間の目線にとってはもはや関係のないことになっているのかもしれません。都市の発展という点からは土地利用の高密度化は避けられません。一方で生活の場としての環境を考えると、息苦しくなるほどの高層建築の林立は避けたいところです。しかも、京都市には観光都市としての要素が加わりますから、そのバランスの塩梅を探るのはむつかしいのでしょう。南北に走る大通りからは西山も東山も望めませんし、東西の大通りに出て東山を見ようとしても、見えるには見えますが、交通信号機や電線などが思いのほか多く、視界を邪魔します。自動車の路上駐車が多いのも、安全面だけではなく景観上の問題ともなります。環境と観光、都市の発展とはそれぞれに相容れない要素が絡む難しいパズルですが、こういう問題をどのように解決したらよいのか、京都市も大変だと思います。それぞれの中間線をとって進もうとすると、中途半端な街の空間、環境が出来上がってしまいます。
 明治期の京都三大事業実施に当たっても、住民からは様々な反対意見や運動が巻きおこりました。行政側は百年の大計のため、ある面では市民の声を押し切ってまで事業を実行したのです。そのおかげで、その後100年にわたり、都市機能を発展できたのだと言えるでしょう。
 塩梅、という言葉を先ほど使いましたが、塩梅がいい、というばあい、しょっぱくもなく酸っぱくもない、という意味ではないですよね。調味の必要に応じていずれかに重心を傾ける。それが塩梅をとるということです。どちらに重心を置くかによって、市の未来は変わってゆきます。100年後の京都は酸味と塩味、どっちになっているでしょうか。どちらに塩梅するか、市民、行政双方の、思い切りのよい決断が期待されます。


100年前のストリート・ビュー
 インターネット上には時折、Google Earthのストリートビューに、意図せざるものが偶然写り込んだ画像などをアップしているページを見かけます。写真というのは時に非常なもので、自宅前の石段を踏み外して転げ落ちている姿や、自転車で立ち木に衝突する瞬間などが、連続写真となって世界中に公開されてしまっているとは、ご当人はご存じなかったことでしょう---もちろん、本人が気付いてGoogleに申請すれば当該部分にぼかしを入れて修正をしてくれますが。
 実は、写真絵葉書の場合にも同じことが起きうるのです。
 写真機が大型で非常に高価だった初期の写真絵葉書では、撮影する場所の通行人の配置にまで気を配って、じっくりと構図を練ったと思われるものがいくつもあります。その頃は町中の道路も比較的閑散としていて、道の中央にカメラを設置して撮影する余裕もありました。世の中がだんだんと忙しくなり、道路の往来が増えてくるころにはカメラも次第に普及してきて、寺社名勝だけではなく、都市部の写真も絵葉書になってゆきます。ゆったりとカメラの台座(または重い三脚)を据え付けて悠長に構図を決めるいとまもなくなってくると、あるがままの光景が乾板やネガに写し込まれてしまいます。今回冒頭の絵葉書を選んだのは、実は都市景観を論じるためではありません。最終回ということでつい、個人の思いがあふれ出てしまいましたが、その点は大目に見てくださいますよう。
 冒頭の絵葉書には、撮影者が全く意図していなかったものが偶然に写り込んでしまっています。私自身、絵葉書を購入後、パソコンに読み込んで拡大した画像を隅から隅まで見ていて気付いたくらいです。
 まずは、冒頭の絵葉書をもう一度、よーくご覧ください。拡大に耐える画質で読み込んでいますから、拡大してご覧になるのもよいと思います。
 本人にとっては不運でも、見ているほうにとっては滑稽な一場面が見事に切り取られているのです。画面の右側のほうにご注目ください。
 気づかれましたでしょうか?

 では、上の写真の赤丸で囲んだ個所にご注目を。このあたりに多かった材木商の店先ですが・・・。
 次にその部分を拡大した写真をあげてみます。

 店先には店員または店の主人と思われる人物が腰かけています。南から白い夏服(ステテコ姿)ので歩いてくるのは、鍋のような大きな荷物を左手に下げ、背に子供(?)を背負った男、しかも歩道ではなく車道に降りて歩いています。その理由は...
 犬が見えるでしょうか?
 店からはおそらく2頭の犬が飛び出してきています。先頭は黒犬。ステテコ男のもつ鍋の中に今まさに頭を突っ込んだところです。白犬がそれに続きます。2頭の犬に吠えかけられて思わず車道に降りた瞬間です。店先に座る主人のひざ元には、座る子供らしき姿も見えます。犬の行為を制止するでもなく、父子そろってなんとなく面白がって傍観しているようにも見えますね。左手には大きな荷物、右手は背中の子供を支えないといけない。犬に驚いた子供はおびえてステテコ男にしがみつく。両手のふさがったステテコ男は犬を追い払うこともできませんが、犬にはその姿が異様なものに見えたのでしょう。もしかすると、手に下げた金属製の鍋が歩くたびにガチャガチャと音を立てていたかもしれません。

 私が写真絵葉書の画面を子細にチェックするのは、写された場所や撮影時期の特定の必要上からですが、時にはこうした思いがけない発見にうれしくなることもあるのです。

狂犬病の恐怖
 ところで、犬ですが、江戸から明治へと時代は変わっても、京都で問題になっていたのは、町中を徘徊する野犬への対処でした。明治初期の牛鍋流行に伴い、野犬の肉を牛肉と偽って提供する店があったという話も伝わりますから、それほど多くの野良犬たちが蠢いていたのでしょう。
 野良犬が増えて問題なのが、狂犬病の伝染です。狂犬病は現在も有効な治療法がないウィルス感染症で、致死率99.99パーセントという恐ろしい病気です。日本では古く養老律令(718)に、狂犬病らしきものに関する警告が見られるといいますから、千年以上にわたって人々を恐れさせた感染症だったと言えます。
 幸い日本では昭和32年(1957)を最後に狂犬病は撲滅されたとされていますが、いつまた海外から流入しないとも限らず、今でも生きた動物の持ち込みには神経をとがらせています。海外旅行の際も行く先によっては狂犬病の予防接種が必要になることが今でもあります。
 京都の歴史を振り返ると、明治5年(1872)には京都府令第94号を発令し、悪犬打取りという恐ろしい名の、要するに野犬駆除を開始しています。その後、畜犬には監察札を義務づけるなどの施策が幾度か行われましたが、犬が人を嚙むという事件はそれで収まることはなく、監察札があろうがなかろうが素行の悪い犬はすべて駆除対象となったことさえあったのです。狂犬病は犬から人への感染だけではなく、馬や牛、猫などのほか、野生の哺乳類にも須らく伝染します。
 冒頭の写真が撮影されたのに近い時期、明治43年(1910)には、報告されたものだけでも日本全国で犬150頭、馬17頭、牛14頭の感染があったといいます。翌年になっても全国の犬の感染数562頭(その9割は東京)に上っています。
 とにかく都市部の野犬対策は、昔から為政者の難問題でした。徳川家第五代征夷大将軍綱吉が、犬御殿と揶揄された野犬収容施設を立てたのも、伊勢屋稲荷に犬の糞と、江戸名物の3番目に挙げられるほどに野犬が多かったことへの対処でした。
 絵葉書に写ってしまったステテコ男の頃には、まだ毎年のように狂犬病による死者が報告されていた時代ですから、すから、たとえ飼い犬であっても油断はできません。
 そう思うと、この場面を滑稽だと言って眺めている場合ではないのかもしれません。

 さて、最終回を飾るのにふさわしいテーマであったかどうかは分かりませんが、1葉の写真絵葉書でも、掘り下げて行けば短いレポートの一つくらい書けそうな程の情報量があることはご納得いただけたでしょうか。
 絵葉書に限ったことではありませんが、まずはじっくり観ることです。ネット検索や短時間のYouTube動画のように安易に、短時間で手に入る情報もあるかもしれませんが、もっと深いところに、もっと重要なヒントや情報があることも確かです。それらは決して秘められているわけではありません。見えているのに観ていないだけなのです。そして、見るのと違って、観ることには、時間と経験とが必要であることも、最後に言い添えておきます。
 じっくり観れば、少なくとも日常の世界が数等倍興味深いものになることは確かなのですから。
 おまけとして、烏丸通拡幅工事竣工記念のスタンプのある絵葉書を2葉ばかりご紹介して、この連載を閉じることにいたしましょう。
 最初のものは、この時代では珍しく左横書きで「烏丸通光景 獨乙(ドイツ)マンネスマン鉄柱(大倉組供給」都のキャプションのある写真絵葉書です。本稿では遠くにちょっとしか見えていなかった高島屋百貨店京都本店を閉経にしています。左上のスタンプは「臨時事業竣工紀念 1912年6月15日」と読めます。

 集まっている人々は、関係者や招待者、来賓のお歴々でしょう。市電が来るのを待ち構えているのでしょうか。軌道上にまで出てきて北のほうを見つめている人たちもいます。マンネスマン鉄柱とは、その路面電車の架線柱のことです。この年6月11日には京都市電氣軌道事業所(交通局の前身)が発足し、烏丸線は丸太町-七條驛間が開通しました。千本大宮線、丸太町線、四条線も同時期の開業です。
 最後の一葉は、やはり市電開業に関連する絵葉書でしょう。キレイどころを運転席に乗せての撮影です。

 さて、コロナ禍で学校閉鎖中にスタートしたこの連載、四条通関連以外にもご紹介したい話や、明治、大正、昭和初期京都の写真絵葉書はまだまだたくさんあるのですが、ひとまずはこれでお別れとなります。
 長らくのお付き合いありがとうございました。


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