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実は新しいもの好きだった京都 京都と言えば、古都。古き伝統を遺す都市。確かにそれはそうなんですが、ことさらに歴史の長さや伝統を前面に出すようになったのは、そう古いことではありません。ここでは詳しく触れませんが、私のみる限りでは、人類の進歩と調和をテーゼとした1970年の大阪万博、そして国鉄(当時)の打ち出したキャンペーン、Discover Japan によって国内各地の文化へとまなざしを向けるようになった頃からだと思います。 明治時代のはじめに、天皇が東京の皇居に移って以来、京都は歴史の古さや伝統の継承どころではない状況になっていました。これについても詳細は割愛しますが、そもそも京都の伝統文化、伝統産業や伝統技術というものは、平安王朝期の各分野の〇〇司(今で言えば皇立産業技術研究所)の設置以来、主として王朝貴族、武家政権の時代には武家をも得意先に加え、あるいはその保護のもとで成長、発展してきたものでした。幕府が倒れ、天皇政府が東京に移ったとき、それらを一挙に失ったわけですから、過去の栄華に縋っているだけでは未来はない事を痛感したのです。 そこで京都が打ち出したのが先端技術の積極導入を目指す、いわゆる京都三大策でした。琵琶湖疏水開鑿、水力発電、路面電車の敷設と道路拡幅などの近代都市としてのインフラ整備を進めてゆきます。それだけではなく、舎密局をはじめとした先端技術の導入、普及のための各種公立研究機関を起ち上げ、その普及に力を入れました。染織や焼き物などの伝統産業にも、西欧から新しい技法や材料の導入が行われます。織物職人をフランスのリヨン市に留学させてジャカードの技術を導入したり、東京での契約期間が終わったゴッドフリート・ワグネルを京都に招聘して京焼に新しい釉薬の用法を伝授させるなど、いわゆる伝統産業もまた、過去の歴史の束縛を断って前へ前へと進んでいくのです。明治大正期の京都は、おそらく近畿圏では、もっとも “先走り” をしていた都市だったと言えるでしょう。廃仏毀釈の混乱の中、寺地を召し上げて三条通と四条通とを南北に結ぶ繁華遊楽街、新京極を拓き、市電敷設に合わせて拡幅された四条通は金融と商いのあらたな中心地になり、鴨川に架かる橋々も次々と新設、あるいは拡幅、近代化が進みました。 明治末頃からEXPO ‘70(大阪万博)ごろまでの京都の写真絵葉書には、そうした、近代的都市の表徴としての繁華街や当時としては高層建築の百貨店やレストラン、路面電車が往き交う交差点、鉄筋コンクリートの立派な橋、疏水運河を通って市内に出入りする舟を貨客ごと乗せて斜面を上り下りするインクライン(傾斜軌条)、といった場所が、京都の顔として登場し、しかも、時代を遡るほどにその登場頻度は増すのです。 つまり、明治から昭和中期までの京都は、未来志向の、進取の気概に満ちた空気を原動力として発展してきたのだといえます。一言で言えば、新しい物好き、と言ってもよいでしょう。 京都はまた、軍事都市でもありました。深草には歩兵25,000名を有する陸軍第十六師団があり、師団司令部そばには広大な練兵場も拡がっていました。そして、この練兵場は歩兵の訓練に用いられただけではなく、大正期頃までは最先端の総合科学技術の粋、飛行機の発着場としてもしばしば利用されたのです。 飛行機はすでに、第一次世界大戦中の欧州では大いなる発達を遂げ、軍民双方の用において実用性を高めていましたが、日本はまだ航空の面ではよちよち歩きの段階で、旧式な箱凧のような華奢で時代遅れの機体がふらふらと空を舞う状況でした。もちろん軍隊もその導入と発展、国産化に力を入れていましたが、飛行機乗りを志す民間の人びとの活躍はそれ以上に日本の航空発展に寄与しました。単身渡欧、渡米して飛行学校に通い、免許を取得し、帰国時には機体を購入して持ち帰り、あるいは国内で自作して空に挑みました。首尾よく飛んだ物もあれば、地を這うだけで終わった機体もありました。地を這うならまだマシな方で、飛んだら飛んだで、墜落して命を落とすことも珍しいことではなかったのです。BIBLIOTHECA 233号に私が書いた「『暗夜行路』と近代京都」ではそうした事故の犠牲となった、荻田飛行士のことを紹介しました。 さて、冒頭に揚げた写真絵葉書には「髙左右隆之氏 京都市訪問飛行」というキャプションが附されています。さらに左上の空間には丸い記念スタンプが捺され、「故武石氏追弔飛行紀念 飛行家髙左右氏 大阪朝報社京都支局主催」の文字が読めます。 全国的には当時珍しかったものの、京都では深草練兵場を発着地とする軍民の飛行機が上空を飛ぶ姿を、しばしば見ることができたのです。この一枚の絵はがきに名の出る髙左右氏も武石氏もともに民間の飛行家でした。
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日本民間飛行家初の事故犠牲者 武石浩波(たけいしこうは)は明治17年(1884)産まれ。茨城県の出身。もとは水戸藩の家老職を務めた家柄で、比較的裕福だったと思われます。尋常中学校(現在の高校に相当)の課程を修了すると単身渡欧、いろいろと経験を積んで渡米します。イェール大学(中退)、ユタ大学に学び、明治43年(1910)に国際飛行大会をみて飛行家を志すようになります。ライト飛行学校に入るも、程なくグレン・カーチス飛行技術学校に転校(1912年2月2日)、そこで飛行技術を身につけ、5月には操縦士試験に合格し、飛行免許状(第122号)を取得します。この時点ですでに2人の日本人が免状を取得していましたから、武石浩波は日本人で3番目の国際飛行免状取得者となりました。現地で飛行機を購入、大正2年(1913)4月に機体と共に日本に帰国します。ただこの機体には問題があったようで、飛行の際にノーズアップ(頭上げ)の癖があったようです。そこで日本で飛行する際には機体下部前方の枠にブロックを重しとして括り付けていました。 帰国後早々に、浩波は改造した飛行機で朝日新聞主催の都市間連絡飛行に臨みます。出発地は現在の西宮市の鳴尾競馬場。着陸予定地は深草練兵場でした。今の目で見ればもちろんですが、同時代の欧米の例と比べても短い距離ではありましたが、航空機用の地図もない当時の日本では大冒険でした。帰国から一月後の5月4日10時22分、浩波の飛行機は鳴尾競馬場を離陸、途中大阪の城東練兵場に着陸し、そこから颯爽、京都を目指します。 深草練兵場では久邇宮邦彦王臨席のもと、数万の群衆が飛行機の到着を今か今かと南の空に目を凝らして待ちわびていました。12時55分、練兵場に達した機体は、観衆の注視する中、突然頭を下げて急降下し、地面に激突。虫の息で深草衛戊病院に担ぎ込まれましたが、14時過ぎに還らぬ人となり、日本人の民間飛行家事故死者の第1号となってしまいました。事故直前に「仕舞った!」という浩波の叫び声を聞いたという人も居たそうですが、エンジンの音や距離からいって,肉声が届くはずもなく、そういう声が聞こえたと思ったのでしょう。事故後、当時日本航空界の権威、田中館愛橘(たなかだてあいきつ)博士らによる事故調査が行われました。 事故直前に機体前方から何かが墜ちるのを見たという目撃証言などもあり、どうやら括り付けてあった紐が切れて、錘のブロックが落下したようです。その結果バランスを崩して急に頭が上がった状態になり、それを修正しようとして今度は過度な頭下げになって突っ込んだのだろうと推定されました。 この時の離陸から事故にいたる一部始終を記録した写真絵葉書の中から数葉を、時系列順にご紹介しましょう。
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なお、墜落した機体の残骸を写す絵葉書には「白鳩號の惨状」という記述が見えますが、浩波は生前自分の機体に名前を付けていませんでした。これは事故後に久邇宮邦彦王が付けた名称で、正確には「白鳩」で、「號」は新聞や絵葉書などで広められた際に追加されたものです。
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髙左右隆之と追悼飛行 今回冒頭に揚げた写真絵葉書は、その武石飛行士を追悼するとして、大阪朝報社京都支局の主催で行われた髙左右隆之(たかそうたかゆき)の飛行のようすを写したものなのです。 髙左右隆之は東京市(当時)出身。明治41年(1908)、22歳の時に単身米国シアトルに渡航し、飛行機の製作技術を学びました。およそ5年間の滞米中に、髙左右式の名を冠した4機の飛行機を自作してしまいます。しかも飛行に到らなかったのは初号機だけで、髙左右式2〜4号機は飛行に成功。そして、大正2年(1913)、自作最新の髙左右式4号機を携えて勇躍帰国します。武石浩波が墜落事故で亡くなったのが同じ年の5月のことでした。帰国翌年には、6月13、14両日に阪神鳴尾競馬場で開催された帝国飛行協会主催の民間飛行大会に出場。大会といっても民間飛行家5名がそれぞれの愛機と共に参加しただけで、うち1名は大会関係者と言うことで番外参加。残りは4名。ところがアメリカ製クリストファーソン式80馬力複葉飛行艇で参加の海野幾之介は機体の不調で棄権。結局記録を競ったのは残りの3名のみと言うことになります。さらにそのうちの荻田常三郎は、大会途中で不時着して機体を大破したため、それ以後の参加が出来なくなりました。それでもさまざまな飛行機が5機も一堂に会するというのは当時の日本では大変なことでした。結果は、滞空時間一等賞は阪本式80馬力複葉トラクター(プロペラが機首についている推進形式)で参加の坂本壽一で、滞空時間31分22秒。高度の一等賞は、フランス製モラーヌ・ソルニエ式80馬力単葉トラクターの荻田常三郎でした。髙左右式は60馬力複葉プッシャー(プロペラが後ろについている推進形式)で、滞空時間24分5秒で飛行時間記録の2位。番外参加の磯部鐵吉はドイツ製ルンペラー式タウベ100馬力単葉トラクターでダントツの滞空時間1時間34分25秒をたたき出しています。2等までの入賞者には協会から賞品が、朝日新聞社の故武石浩波奨励金から3名に1000円づつ、朝日新聞から500円づつが増訂されています。番外参加の磯部鐵吉にも1000円が贈られています。途中欠場の荻田飛行士は、大会翌年の大正4年(1915)1月3日、深草練兵場で離陸に失敗し同乗の助手と共に命を落としました。 髙左右隆之はその後、大正4年だけでも山口、沖縄、台湾、と文字通り飛び回り、満州や朝鮮半島でもその飛行を披露しました。しかし、沖縄の那覇市潟原(かたばる)の塩田で行われた琉球新報社主催の飛行ショーは最悪に終わりました。数十万の大観衆が見守る中、6月5日には強風の中離陸はしたものの、ダウンバーストを受けて高度が下がり、塩田西方の高圧送電線に機体が接触して墜落、幸い機体の損傷は軽微で怪我人もなかったため、機体修理後の8日、再び離陸。ところが矢張り風が強かったのか、前回と同じように高度が下がり、民家の敷地内に墜落。その際、民家の屋根に登って見物していた少年を巻き込み、重傷を負わせてしまいます。この事件が直接の原因であったかどうかは判りませんが、その4年後、33歳になった髙左右隆之は飛行からの引退を決意し、飛行機に触れることは二度とありませんでした。 髙左右氏のような飛行家は今で言えば大谷翔平のようなスター選手と同様、一般の人びとからすれば憧れの的で、写真絵葉書も売れたようです。飛行大会などの折にも売られたのでしょう。そのうちいく葉かをご紹介しましょう。
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追弔飛行の絵葉書の謎 さて、冒頭の写真絵葉書に話を戻しましょう。 空を飛ぶ飛行機を撮影するのは少々むつかしい時代だったでしょうから、飛行機と風景とが合成である可能性は残りますが、そこは今は問わないことにします。 武石氏への追弔飛行と言うことですから、浩波の事故死からほどない頃のことであったと考えられます。そうはいっても隆之の帰国の直後では無理があるように思います。その翌年6月に鳴尾の競馬場での飛行大会に出場していますから、あるいは一周忌に合わせてその頃に京都上空を飛んだのかも知れません。残念ですが、正確な時期は確定できていません。主 催者の大阪朝報社に関しても、現在のところ、この飛行会開催当時の活動状況が詳しく把握できていないのです。 重要なことが確定できないのは無念ですが、この写真は、どこから撮影されたのでしょうか。四条通を見おろしたものであることは間違いありません。飛行機はひとまず措いて、地上風景部分を拡大して見ましょう。
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赤文字のアルファベットAは、明治45年、四条通り市營電車開通2ヶ月前に竣工した藤井大丸新館。もともとは御旅町北側にあった木造4階建ての店舗(通称あかがね御殿)が、市電路線敷設に伴う四条通の拡幅で土地が削られるため、寺町四条の現在の位置に、新しい時代に相応しい洋館を建てたもの。この木造建築は洋風新館建設とほぼ同時期にその隣に移築再建されました。ところが、これにも謎があって、昭和45年、藤井大丸百周年を記念して出版された『花の百年 藤井大丸百年史』では、その再建された位置は洋館の西側となっています。実際、洋式新館は寺町四条南西角地に建っているわけですから、その西に隣接して移築されるのは筋が通ります。ところが、この写真絵葉書では、あかがね御殿は洋館の"東側" にその姿を見せています(B)。これはどういうことなのでしょうか。
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