さて、今回も四条大橋の話の続きです。早く渡ってしまいたい気持ちは山々ですが、まだお話ししないといけないことが残っているのです。
「四條、七條の橋は立派な鐵筋コンクリート橋で、著しき被害はない。これが破壊されることは想像出來ないが流された方の所謂鐵筋コンクリート橋は實はコンクリートパイルを連立した上部に鳥居木を架した程度のもので根入りが淺く、あれは壊れるのが当然です。倒れなければ可笑しい位なものです」
座談会では、洪水がおさまった直後の京都を実見した生々しい体験と、特に橋梁の復興に関する興味深い会話が交わされています。
賀茂川に関してみると、高野川上流、さらには八瀬、大原方面からの流出土砂や樹木、倒壊した平八茶屋など木造建築物の残骸などを巻き込んだ濁流が出町で合流し、「遂に爆彈的威力を以て」(座談會)途中の橋を破壊しながら流れ下ったのでした。四条付近では、当時賀茂川左岸堤防上を走っていた京阪電鉄京都線四条駅三条行きのホームも流されてしまいます。ところが、冒頭に挙げたとおり、四条の橋はその破壊力にも耐えたのです。それほど頑丈な鉄筋コンクリート橋でしたが、この水害の後取り壊され、新しく架け替えられたものが現在の四条大橋になります。
大水害にも壊れないほどの橋をなぜ取り壊して架け替える必要があったのでしょうか。水害が起きる前の鉄筋コンクリート造の四条大橋はどのような姿だったのでしょうか。
この橋の竣工は大正2年(1913)3月20日。明治41年(1908)から始まった京都市三大事業の一環、道路拡幅と京都市電路線拡大計画に基づいて、七条大橋とともに架けられました。両者の基本デザインや構造は共通しており、ともに優雅なアーチ橋脚の美しい橋として完成したのでした。四條大橋の開橋式は、鉄橋時代の開橋式以上に盛大で、集まった人たちで橋が埋め尽くされるほどでした。
橋というものは都市近代化のシンボルであり、新しいスタイルは人々を魅了するイコンであった、そんな時代の事です。
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アーチ橋時代の写真絵葉書を見ると、橋中央を複線の市電線路が通り、四条川端手前で京阪電車と直交するため、踏切が設けてありました。話が脇に逸れますが、電車の平面交差というのは厄介なもので、線路のみでなく架線も交叉するわけですから、双方の電圧を等しくする必要が生じます。このため、京阪電鉄京都線は、京都市電の電圧に合わせた600Vに設定されていました(現在は1500V)。電圧が低いと1編成の車両数も制限されますが、路線を三条まで延伸するために京阪電鉄側がすでに開通していた京都市電の電圧に合わせざるを得なかったのです。高度経済成長期、京阪電鉄では乗客に対応するのに車両数を増やさずにラッシュ時の乗降をスムースにするため、独特の仕掛けをもつ車輌が誕生しましたが、それについては機会があればいずれ。
橋が拡幅され、市電が開通すると、賀茂川両岸の四条通りの景観も橋に合わせるかのように近代化して行きます。大正15年には橋の東詰の菊水館(現 レストラン菊水)、向かい合うように位置する西のレストラン矢尾政(現 東華菜館)の建物が相次いで現在のビルに建て替えられます。その結果、双方のビルの屋上から四条大橋を挟んで西向き、東向きの眺望を得ることが出来るようになり、絵葉書の景観も一変します。
こうして未来への明るい光に導かれるように発展した四条大橋界隈でしたが、その流れに文字通り水を差したのが昭和10年の賀茂川氾濫でした。しかも、この四条大橋こそが市の繁華地への被害を拡大する一大要因となったのです。再び、座談會から拾ってみましょう。四条大橋について、こんな証言が2箇所に出て来ます。 「四條橋は有名な鐵筋コンクリートアーチである。アーチセクションが小さい。之に上流から來た諸々の材料が堆積して流路を妨げたゝめ、堰堤状となり水位が昇り、兩岸に廣く浸水した。(此邊浸水幅最大)」(「座談會」) 「今度の橋梁の中でアーチ橋のやうな體積の大きい水流を妨げるやうな構造のものが非常に害をした」(同)
橋は丈夫でないと困りますが、美しいデザインを追求したアーチを支える太い橋脚があだとなりました。流れ下った建物の残骸、それに前年9月の室戸台風の後放置されていた倒木も加わった流木がアーチに堰き止められ、結果、ダムとなって水を溢れさせてしまったのです。強ければよいという認識が見なおされることになりました。
これが四条アーチ橋の取り壊し改架につながります。
流出した橋々、そして、四条大橋について、新しい橋のデザインをどうすべきなのか、座談會では京都特有の歴史と都市景観、治水、橋の構造の観点から論じられています。この座談會の内容が現実の架橋、改橋にどの程度影響したのかは今のところ確認していませんが、現在の三条大橋や 四条大橋、五条大橋を見る限りでは、実際に座談會で出された案に近いものにまとまっているようです。
アーチの四条大橋が撤去されたのは昭和16年(1941)。その暮れには帝国海軍が真珠湾を奇襲攻撃し、日米が開戦することになる年でした。水流に対して幅の狭い橋脚を持つデザインとしては素っ気ない鋼板桁橋が竣工するのはその翌年。昭和40年(1965)に高欄の部分が現在のデザインのものに作り替えられ、今日に到っています。
普段皆さんが橋を渡るときには、橋そのものを意識して歩くと言うことはないでしょう。座談會では、磯谷氏のこんな発言もあります。
「元來橋梁と云ふものは其上を歩いて特別に橋で在ると云ふやうな感じのする橋はよくないと云ふやうなことが言はれて居ります。と云ふのは餘りに橋でござると云ふやうな風にいきなり歩行者の目にぶつかるやうな飾りをするなと云ふ意味だと私は思ひます。橋梁美と云ふものは寧ろ橋の上を通る際に感ずるよりも、其橋を横から見た場合に多く感ずるものだと思ひます」
ところで、この水害を四条大橋とともに耐えた七条大橋は、ほぼ当時のままの姿を現在も伝えています。先代の四条大橋の姿を思い浮かべる手がかりになるでしょう。近くにゆくことがあったら、横から眺めてみてください。
余談になりますが、この水害で流出した五条大橋の擬宝珠は直後に淡路島の洲本で発見され、また、同じく流出した京都市役所の測量器機も西宮で見付かり、ともに無事に戻ってきたことも座談會で報告されています。
*当図書館は、「復刻版 風景」(不二出版、2018年)を所蔵しています。 ◉この原稿を執筆中、相次いだ台風6、7号が各地に水害をもたらしました。被害に遭われた方々にお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。 |