図書館長のおもちゃ箱付属図書館長 樋口 穣   

四条通今昔散歩 (第3回)
「四条鉄橋のはなし」

「四条橋之圖」

「四条橋」と「四条大橋」

 四条通り今昔散歩web版、第2回までは祇園の石段下あたりをうろうろしておりましたが、第3回目では、ちょっと西に進みましょう。今回は鴨川にかかる四条大橋のお話をいたします。四条の橋については、歴史的な面からも語るべきことは尽きないのですが、本稿では涙を吞んで (?) 、おもに近世以降に話題を絞ることにします。それでも長くなりますが・・・。

 賀茂川に架かる橋が頑丈な恒久橋となったのは、実はそれほど古い時代の事ではありません。

 京都市街を描く絵画作品として、17世紀頃を中心に制作された「洛中洛外図屛風」や「四条河原遊楽図屏風」などにも四条の橋(四条橋)が描かれています。これら一群の作品は大変人気があるもので、展覧会などに出展されると人の流れがそこで止まってしまうほどです。わざわざ混雑の中に身を投じなくても、国公立の博物館などではデジタル・アーカイブとして公開しているところが多くなりました。ネット環境さえあれば居ながらにして細部まで拡大し、心ゆくまで鑑賞することができるので是非ご覧下さい。

 ここでは、みなさんのすぐ身近、本学付属図書館内に展示されている貴重な資料から、橋の姿を確認してみることにしましょう。

 林吉永版 木版筆彩「京大絵圖」、京の町を描いた地図です。およそ京畳一畳分ほどの大きな地図で、1710年代中頃に製作されたものと推定されます。図書館にいらしたときに是非ご覧下さい。閲覧カウンター裏から第一閲覧室に通じる階段の上り口あたりの壁に展示されています。気付かずに通り過ぎる人も多いと思いますが、改めて見てみるとその大きさにビックリさせられるでしょう。その大きな地図から、四条橋の部分を抜き出したのが次の図です。

「京大絵圖」部分

 右(東)端に祇園社(八坂神社)が描かれ、そこから西(左)に向かって、きおん丁(祇園町)を横切る道路が延びています。

 赤丸で囲んだところには橋があります。名称の記載はありませんが、四条橋です。この絵図では東北方向から合流する白川と、賀茂川本流とが二筋の流れを作っており、そこに本図が近代的な地図ではない事を考慮しても、いかにも貧弱な板を渡しただけのような仮設橋が中洲を介して架かっているのを確認できます。当時四条橋は、このような仮設橋だった事がわかります。厳密には、このような仮設橋に対し、恒久的構造で川の両岸を一本で繋ぐものを、大橋と言います。

 実は、18世紀になっても、賀茂川を渡る洛中の恒久橋は三条大橋と五条大橋の二橋しかなかったのです。道路を分断する河川があれば橋が架かっているのが当然、というのは現代人の考え方であって、昔はそうでない方が普通だったのです。それも、賀茂川のような比較的水量のある大きな川になるほど、恒久橋がないのがむしろ当たり前でした。

 天下三大不如意といえば、11世紀後期、強大な権力の下に院政を敷いた白河法皇を思い出す人も多いでしょう。その三大不如意の筆頭にあげられたのが “鴨川” でした(あとふたつは賽の目、山法師、と続きます)。

 賀茂川は、京都市街を南北に貫いて流れています。2021年後半から放送が開始されたNHK連続テレビ小説 第105作『カムカムエヴリバディ』を見た人たちは、賀茂川を穏やかな川だと思うかも知れません。しかし、今日からは想像しにくいかも知れませんが、かつては猛威をふるった暴れ川でもありました。時代ごとに川幅も変化し、最も大きな時には西は木屋町通りから東は鞠小路に至るほどだったと言います。考えてみれば、京極通り(秀吉の都市改造以降寺町と呼ばれる)の東は洛外でした。河原町という名称も賀茂川の河川敷に由来する名称です。昭和10年(1935)にも市中に洪水を引きおこし、大きな被害をもたらしました(当時は京都に第十六師団歩兵第九連隊があり、いち早く陸軍が被害地に出動して救援活動に当たりました)。そういえば最近でも豪雨の際には溢れそうになっていたことが思い出されます。

 このような川では、中途半端な橋を架けても洪水のたびに流されてしまいます。かといって近隣住民の力だけでは水害に耐える恒久橋を架けることは到底不可能でした。また、橋の耐久性を高めようとすると橋脚の数が多くなります。そうすると大水の際、上流からの流木や上流で破壊された橋、住居の部材などがひっかかり、ダムのように水を堰き止め氾濫の原因ともなりました。そのため、大きな川では恒久橋の数をなるべく少なく抑え、それ以外の橋は、大水の時には流れてしまう板橋や浮橋のようなものの方がむしろ都合がよかったのです。

 それに対して、三条大橋と五条大橋は、川の両岸を一本の橋で繋ぐ公儀橋として架けられました。その理由は想像できると思いますが、三条大橋は一般的には東海道の起点とされ、五条大橋は武家政権にとって重要な六波羅探題と洛中とを繋ぐルートにあったからです。そのため、時々の武家政権、幕府によって頑丈な御影石の橋脚を持つ恒久橋として維持されたのです。

 12世紀以来、四条には何度も大橋を架ける試みがありましたが、そのたびに橋は洪水や戦乱で破壊されてしまいました。しかし、祇園社への参道であったことから、門前石段下周辺には花街も発展していきます。広大な河川敷には、恒久的な橋も建造物もできませんでした。そのかわりに仮設橋で川を渡る人々が必ず中継することになる中洲を立地として、仮設の見世物小屋や芝居小屋がひしめき建ち、一大歓楽地として繁栄して行く事になるのです。

 そうした空間に、ついに近代的恒久橋が架かる時がやって来ます。

四条大橋の誕生

 冒頭に挙げた写真は「四条橋之圖」と題された木版藍摺り扇面の捲りで、「巳ノ四月廿二日」とあること、また、末尾の文面から、安政4年(1857)に初めて鴨川両岸を一本で繋ぐ恒久的 “大橋” が竣工した際の渡り初めの絵であることが分かります(部分拡大図参照)。同年に行われた賀茂川の浚渫工事後、氏子町の大店や住民、祇園新地の人たちが出資して架けた橋です。幅3間(≒5.4m)、長さ51間(≒92.7m)の堂々たる橋でした。本来なら四条“大橋”を名乗ってよい構造なのですが「四条橋」としたのは、公儀橋に憚ったのかもしれません。

 絵を見ると、どうやら(大口?)出資者の中から長寿の夫婦を招いて渡り初めを行ったようです。長寿に橋の寿命をあやからせたのでしょうか。

 初めて登場した “大橋” は頑丈な42本に及ぶ石造橋脚のうえに木造架橋したもので、大水の際には上の木造部だけ流され、橋脚は残るという構造でした。高欄は擬宝珠付きだったとする文献もありますが、この絵を見る限りごく普通の木製角柱です。流されることを前提とした橋の高欄に擬宝珠が付くとは考えにくいのですが、それを証明する絵かも知れません。

 絵の上方には祇園社方向に向かって歩くそれぞれの夫婦の名前も記載されています。十一屋、井筒屋、笹屋など聞いたことがあるような屋号も確認できますが、現存の同名会社/商店との関係やそれぞれの人物について、細かいことはまだ調査中です。ところで、絵の中の男性が皆、腰が曲がって萎縮しているのに対し、奥方たちは比較的背筋が真っ直ぐで背も高いという点がおもしろいですね。

 現在でも新しい橋が架かると渡り初めというセレモニーを行いますが、けっこう昔から行われていたのです。

「四条橋之圖」(部分拡大)

 長寿の願いも虚しく、この橋は結局明治6年(1873)の洪水で流され、16年の命に終わってしまいました。そこでふたたび地域(元下京第15区)の人の出資(区費)で、ラチスガーダー(上路鋼格桁:lattice girder)鉄橋に架け替えられることになります。明治7年(1874)4月1日に、早くも橋は竣工しました。

 ラティス(ラチス)といえば、最近インテリアやガーデニングの分野でよく見かけるようになりましたね。細長い薄板を斜め格子状に組み合わせた構造で、ホームセンターなどで京畳一畳ほどのサイズのものを売っているのを見た人もいるでしょう。土木の世界でラチスガーダーというと、ガーデニングのラティスのように鉄材を斜め格子状に組み合わせ、構造材としたものです。特に橋の場合は腹板(乱暴な説明をすると側板、通常は鉄鋼鈑を用いる)をこの構造にすることで、軽量化や鉄材の節約ができます。鉄道橋では大正時代の中頃にこの構造がしばしば採用されましたが、それは第一次世界大戦の勃発で、当時国産では不可能だった大型鋼板の輸入が困難になったことが原因でした(現役のラチスガーダー鉄道橋としては近代化遺産に指定されている山口市の徳佐川橋梁(大正11年(1922)竣工)があります)。

四条大橋施工時『京都府誌 下』より

 京都四条に架かった幅4間(≒7.2m)のラチスガーダー鉄橋は鉄道橋での採用より半世紀近くも早かったことになります。もちろん、大型鋼鈑の国内製造技術も無かった頃のことで、輸入錬鉄が鋼材に使われました。京都府編『亰都府誌 下』(大正4年(1915)刊)に載る竣工時の写真では鉄橋腹板にジグザグに渡されたラチス構造が確認できます。

 ところで、この橋の建造費が『亰都府誌』(明治9年(1876)刊)に出ているのですが、総額は「壱萬六千八百参拾圓」だったそうです。明治9年のこの金額が現在の貨幣価値に換算するといくらになるのかは、比較の基準となる日銀公表の企業物価指数統計が、明治34年(1901)以降しかないため、計算が難しいところですが、およそ7000万〜1億4000万円ほどでしょうか。この全額を府が貸与するはずだったのですが、後に地区住民との折半となりました。その費用捻出のため、当初は1人1銭(今の40~80円?) 、車馬2銭の通行料を徴収していました。そのため「銭取橋」という、有り難くない異名も付けられてしまいました。

 明治10年(1877)、橋の管理を府が行うことになったあとも通行料の徴収は続き、最終的には橋の管理費を府の地方税でまかなう決定がなされる明治14年(1881)に、ようやく通行料は廃止となりました。

ところで橋の高欄は青銅製でしたが、その材料の集め方にはいかにも京都らしく、時代背景を感じさせるものがあります。実は高欄の材料は、京都の寺院から供出された梵鐘などが使われ、それを鋳溶かして加工したのが、伏見区向島に開業したばかりの金属加工工場、伏水製作所でした。京都府立京都学・歴彩館に所蔵される府庁文書『明治十年 局中規約』には、どの寺院がどのような仏具を献納したのか記されています。その一部の図版と解説が、京都市文化民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課 編集発行の『明治の橋 近代橋梁の黎明』(京都市文化財ブックス第32集、2018、p.14-15)に掲載されています。廃仏毀釈の風潮も影響していたことでしょう。

絵葉書になった四条鉄橋

 次の写真[A]は、このラチスガーダー鉄橋を写した最初期の写真絵葉書と思われます。宛名面上端にはRÉPUBLIQUE FRANÇAISEの印字、その他もフランス語である事から、フランスで発行されたものかも知れません。タイトルが面白いですね。「Kioto. – Le Pont」つまり、「京都 – 橋」ということになります。ちょうど私たちが外国の町の橋を思うときに、ロンドンブリッジ、金門橋、アヴィニョン橋、ポンテ・ベッキォなどが浮かぶように、京都の代表的橋として四条鉄橋が相応しいと思ったのでしょうか。 “ル・ポン”、フランス語ではそのような発音になりますが、ポルトガル語だったらどうでしょう。橋はPonteで、ネイティヴの方の発音ではポントと聞こえます。おお、先斗町!

 先斗町の語源にはさまざまな説がありますが、なんとなくこの辺りが正解のような気がしてしまいますね。ただ、私は外国語大学の教員のくせに語学が専門ではないので、専門諸先生方のご意見を承りたく・・・。

写真[A]

 ちなみに先斗町(ぽんとちょう)という地名が文献上確認できる初出は井原西鶴の出世作『好色一代男』で、その巻六「四十二歳 喰さして袖のたちばな」(1682年初版本では年齢を数え間違って卅二歳となっています。私が参照したのは国立国会図書館所蔵本で1684年版です)に「むかしはと口惜しく、ほんと町の小宿にかへりぬ」とでてきます。いずれにしても「先斗町」は通称で、先に挙げた18世紀前半の「京大絵圖」では「シン川原丁」と言う地名表記になっています。

 先斗町にこれ以上踏み込んで道草をするわけにもいきませんので、今はこれ以上触れません。気になる人は、ぜひ、ご自身で調べてみて下さい。

 フランス語の絵葉書の手彩色写真をよく見ると、橋の東詰がえらく賑やかですね。何のお祭りかと思うような派手派手しい幟旗が風を孕んでいます。それもそのはず、橋の東詰は京都の歌舞伎の殿堂、南座があります。その芝居に関連する幟旗などが並んでいたのでしょう。向かって右、南に見える大きな屋根が南座です。一方左、向かい合って北にあるやや規模の小さい大屋根は、しばしば北座として紹介される建物です。ただし、北座歌舞伎舞台は明治26年(1893)の廃座によって幕を閉じました。そして明治45年(1912)、の四条通り拡幅の際に取り壊され、そのまま消滅したのです。したがって、写真絵葉書が日本で使用を認められたときにはすでに廃座していたのです。後でも触れますが、北座とされる建物は、絵葉書などが作られたときには銭湯になっていたと思われる証拠があります(ところで、現在四条大橋東詰北に北座という名の商業ビルがあり、5階には「ぎをん思いで博物館」があり、附近の歴史を写真パネルなどで紹介していますが、昔の歌舞伎座と直接の関係はありません)。

 さて、この絵葉書の写真がいつ撮影されたかですが、ちょっと難しいところです。もしこの絵葉書が確かにフランスで発行されたものだとすれば、前回触れたように、フランスでは明治5年(1872)に私製絵葉書の使用が認められていますから、明治7年(1874)の鉄橋竣工直後だとしても矛盾はありません。ただ、橋の真ん中付近、上流に少し離れて背の高い電灯らしき街灯が見えること、また、下流側にも同じような位置に電柱が建っているのが見えます。高欄の形状は竣工時の物です。後で触れますが、明治35年(1902)に橋の拡幅工事が行われた際に、高欄のデザインも変わります。さらに、これも後ほど触れることになりますが、遠景、東山の麓に見える也阿弥(やあみ)ホテルの建築は、明治32年(1899)以前の姿を示しています。これらを考慮すると、絵葉書のもとになった写真は、明治30年(1897)頃に撮影されたものと考えるのがよいでしょう。

 次の図は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている、橋本澄月編『京都名勝一覧図会』(明治14年 (1881)風月堂)の第廿八丁に載っているものです。

 鉄橋より両演劇及び圖」と題される挿図の説明には「・・・橋上(はしうへ)尓[に]紅白(べ尓はく)硝子燈(がらすとう)八本を立殊(たつこと)に壮麗(さうれい)なり」と説明があり、照明灯が設備されていたことがわかります([ ]内樋口)。

 『亰都府誌』の写真にも写っているこの「硝子燈」ですが、明治14年(1881)当時の光源は何だったのでしょうか。ガス灯の登場も、電灯が普及するのも、まだ先のことです。この図には、フランス製の写真絵葉書に見える電灯や電柱は描かれていません。竣工当時には瓦斯もまだ供給されていません。そうなると¬アセチレンガス灯か石油ランプだったのではないかと思うのですが・・・。

 この図にはまた、河原の夕涼みについても記載があります。両岸の “青楼”から水辺に床机を出し、夜間ともされる灯火は星の煌めきのようだとか、河原にも床机を出して料理を供したという様子を伝えています。大橋が両岸を繋ぐことによって人の流れも変わり、中洲の小屋がけは消滅しましたが、夏期には川の中央付近にまで並んだ床机に大勢の客たちが夕涼みにやって来たのでした。

写真[B]

 上の絵葉書は、宛名面の形式から、明治30年代後半のものという事がわかります。柳の青葉が風に靡く、夏のある昼下がりの光景でしょう。

 画面右が川上で,西向きに撮影したものです。

 赤い四角で囲んだ部分を拡大して見ると、確かに橋の下には床机が並んでいて、まだ陽が高いうちから寛ぐ客らしき人の姿も見えています(次の部分拡大図)。  今こんなことをしたら国土交通省に始末書を書かねばならなくなります(京を語る会が発行した『亰都慕情』の13.には、鉄橋の上流側に賀茂川を埋め尽くすように床がひしめく様子を映した写真が掲載されています。明治末には国の規制により中洲の納涼は完全に消滅します)。

 よく見ると、それぞれの床机の上にはたばこ盆も用意され、これから一服の涼を求めて集まってくる、客への準備も万端というところでしょうか。

 川下側の電柱には大きなボトルを模した広告看板があり、「牛久生葡萄酒」と書かれています。この醸造所は茨城県の会社で、牛久ワイナリーとして現在も健在です。その中核の建物は明治34年(1901)に建てられた煉瓦建築で、国指定重要文化財、日本遺産に指定されています。気になる方はwebで検索するとすぐ出てきますよ。本格的なワイン醸造を開始したのはこの明治34年(1901)からということですから、京都四条磧に看板を出したのもそれより後のさほど遠くない時期のことでしょう。

 [B]の写真をよく見ると、『亰都府誌』掲載の写真とは異なった雰囲気を感じませんか。例えば、高欄の形状が複雑になっています。実は、鉄橋架橋後の明治35年(1902)10月から、京都市は人や荷車、人力車などの通行量増加に合わせて橋の上部構造を拡幅する改修工事を行ったのです。その際、当時まだ珍しかったコンクリートを大々的に導入しましたが、新しい素材に不慣れなこともあって、失敗が重なり、当時の新聞などでも非難される有様でした。寒冷な季節に使ったことが影響したのか、骨材と結合材との混合率を誤ったのか、原因ははっきりしませんが、うまく固まった部分とそうでない部分とができてしまい、やり直しの連続になってしまったようです。

 明治36年(1903)3月17日付けの京都日出新聞は、コンクリート打ち込み時の気温が零℃以下だったため、下の方はじゅうぶん固まったが、表面に近い部分は「著しく破壊し居る」状態であったと指摘していますから、あるいは打ち込みの時間差があってコールドジョイントが起きたのかも知れません。

 そんな苦難を乗り越えての拡幅工事でしたが、それによってラチスガーダーの腹板は表面から見えなくなってしまいました。

 なお、このコンクリート施工の失敗の経験は翌、明治36年(1903)に琵琶湖第一疏水に架橋されることになる国内初の鉄筋コンクリート橋、日ノ岡第11号橋(京都市山科区)に活かされたのではないでしょうか。この小さな橋は、ちょっと古風な日本庭園の石橋を思わせるデザインで、今も健在です。

 それにしても四条鉄橋、到底今の交通量に耐えるものではありませんが、なかなかモダンで洒落ていますね。

 大通りを分断する川に橋があるのは当たり前と思っている現代人には想像しにくいかもしれませんが、橋が架かっているというのは、実は大変なことで、公儀橋であればその地域の重要性、四条鉄橋のような民橋の場合は地域住民の経済力と結束力、また、いずれの場合も土木、建築工学技術を形に表したものだったのです。つまり、その橋があるところの文化レベルの高さを示す指標でもあったというわけです。ですから、洋の東西を問わず、橋はしばしば絵画作品のモチーフになりましたし、浮世絵などにもさまざまな橋が “名所” として描かれてきました。

 もちろん文化財クラスの古い橋も人気ですが、新しい橋もまた、人々に何かわくわくするような高揚感を惹きおこしますね。横浜ベイブリッジや台場のレインボーブリッジなど、わざわざそこに行くことを目的に訪れる人は今も多いでしょう。

 四条の “鉄橋” だけで、私の手元にある限りでも十数種類の絵葉書が作成され、販売されています。それほど人気のスポットだったということです。そして、それは、最新技術によって作られた“未来志向の京都” を象徴する物だったのです。

 現在の四条大橋は大きくなりすぎて、橋を見ると言うことさえしないまま、それと意識もしないうちに通り過ぎる場所になりました。

 ここで四条鉄橋のほかの絵葉書をいくつか紹介しましょう。しばし、明治末の京都に思いを馳せて下さい。

写真[C]

 写真[C]は「(京都名所)四條通り」と題された、四条鉄橋を西向きに撮影した絵葉書です。

 橋の西詰向かって右(北)にちょっと見えているのが西洋料理の矢尾政北店 (もと、川魚料理の藤屋)、橋を挟んで向かい側(南)で、床の普請中なのが牡蠣料理の矢尾政南店(後、東華菜館)です。矢尾政の創業者、浅井安二郎はアサヒビールと提携し、この南店で夏にはビアホールを開きました。これが京都初のビアホールでした。

 国立国会図書館デジタルコレクションの『二十世紀之京都 天之巻』には、
 「四條大橋西詰(しでうおおはしにしづめ)の南側(みなみがは)は 矢尾政(やをまさ)の蠣料理店(かきれうりてん)にて夏(なつ)はアサヒビヤホール店(てん)なり北側(きたがは)は 矢尾政北店(やおまさきたみせ)にて西洋料理(せいやうれうり)を營(いとな)み兩側向(れうかはむか)[原文異体字]へて京(きゃう)の花(はな)を添(そ)へつゝあり、茲(ここ)より北(きた)へ先斗町(ぽんとてう)といふ遊郭(いうくわく)あり 藤屋料理店(ふじやれうりてん)は元矢尾政(もとやおまさ)の處(ところ)にて營業(江いげふ)なせしが茲(ここ)を修築(しうちく)して昨年(さくねん)より高尚(かうせう)なる料理店(れうりてん)を開(ひら)けり」と記されています。(京都出版協会編『二十世紀之京都 天之巻』、京都出版協会、明治41年(1908)、p.97上)

矢尾政についてはいずれまた触れることになります。

 『二十世紀之京都』の面白いのは、単なる名所案内にとどまらず、京都の旅館からグルメやグッズに関する情報を紹介する点で、所々には広告も載せていて、今のwebサイトのご当地情報のような内容になっている点です。国会図書館のデジタルコレクションで是非一度ご覧下さい。

さて、部分拡大写真をふたつあげていますが、これらについても少し触れておきましょう。

 左の部分拡大写真、赤丸で囲んだところにご注目ください。高層建築のほとんど無かった街並に、抜きんでて高さのある城郭のような建築が見えますね。当時京都では珍しかった地上4階建ての “高層建築” 。銅板で葺かれた屋根の輝きは遠くからも見え、人知れず「あかがね御殿」と呼ぶようになったもので、これを “見る” ために京都に来る人もあったという話題のスポット。その正体は・・・。

 明治28年(1895)に四条御旅町北側に建てられた藤井大丸呉服店です。その後、四条通り拡幅に先立って南向かい、現在の位置に店を新築し、このあかがね御殿もその西隣に移設します。藤井大丸についてはいずれ御旅町付近の話になったときに触れることにします。  [C]の右、青く塗られた瓦屋根の後ろからチョコッととんがったものが頭を出していますね。村田時計店の時計塔の尖塔です。写真[B]にも見えています。これについても御旅町のあたりでお話しします。  一方、右の部分拡大写真の青丸で囲んだものは、ちょっと判りにくいかもしれませんが、大きな犬の頭の看板が見えるでしょうか。その下の緑色に着色された看板には、一部文字が隠れていますが「清快丸」という、気付け、溜飲薬の看板です。犬の頭はこの薬を製薬している高橋盛大堂薬局のトレードマークでした。なぜ犬なんだろう、犬種はなんだろうと思いあぐね、こどもの頃読んだ絵本を思い出しました。もしかしたらアルプスなどの遭難者の救助に活躍するセントバーナードかな、と。セントバーナードの首には気付け薬として遭難者に飲ませるコニャックのはいった小さな樽がぶら下がっているという話です。そこで、何年か前、思い切って現在もご健勝の高橋盛大堂製薬さんにお尋ねしました。結果は、広告に使われた犬のイラストは洋犬で数種あるものの、この看板はセントバーナードだと思われる、ということでした。この犬の首、けっこう目立つもので、宣伝効果は高かったことでしょう(商標登録は明治36年(1903))。これもいずれ高瀬川に架かる四条小橋の話になった際、その目立ちようがご理解頂けると思います。

写真[D]

 四条鉄橋は人が通行する橋としては珍しい“鉄橋”であったことや、まさに近代都市京都を象徴する「名所」として定着していたことが伺えます。橋を東に渡りきったあたりの混雑ぶりが(圧縮効果もあって)よくわかりますね。京阪電車(地上路線)が三条まで延伸されるのはまだ先のことで、川端には線路も踏切もありませんでした。東山の麓に青く着色された規模の大きな建物が見えますが、現在の円山公園東端山麓にあった也阿弥ホテルです。明治12年(1879)に長崎人、井上万吉が安養寺塔頭その他の施設を買収して京都初の洋風ホテルとして開業したもので、外国から京都にやって来る著名人の間でも有名なホテルでした。しかし不運にも2度も火事で焼け、2度目の失火の後は再建されることなく消滅しました。実はこの建物が写っていることが、私の頭を混乱させているのです。

謎の柱群

写真[E]

 写真[E]では、橋の東詰、南座の前に巨大な仁丹の広告塔が見えます。森下仁丹は京都市内あちこちにこの種の看板を立て、景観論争の火種になったこともありました。また、北座には四条小橋のものと同じ、晴快丸のセントバーナードの頭付き看板も見えています。

写真[F]

 さて、これら[A][D][E]の絵葉書ですが、時系列に並べるとしたらどうなるのでしょう。也阿弥ホテルは、安養寺の塔頭の建物を買い取り、スタートしました。旧塔頭の建物のすべてが木造洋風建築に改築完了したのは明治27年(1894)頃のようです。京都を訪れる外国人を主な客としていました。アーネスト・フェノロサやピエール・ロチらも宿泊しています。

写真[G][H]

也阿弥ホテル失火と四条鉄橋拡幅

 上は、也阿弥ホテルの失火と四条鉄橋拡幅の時期(黄色背景)とを時系列に並べたものです。先に、也阿弥ホテルは2度焼けたと書きましたが、1回目の失火が明治32年(1899)のことで、この時には2階建て1棟をのこして3、4階建て4棟の建物が焼け落ちました。2回目の失火では再建した建物の一部はのこりましたが、南に隣接する東山温泉(金閣を模した建物が見える)を含め消失しました。その後、再建されることなく消滅しました。

 曲がりなりにもできあがった洋風の建築には、第1回の失火の前後で2種類あったことになります。四条の橋の話からは遠ざかってしまいますが、ちょっと写真で確認してみましょう。

写真[I]

 写真[I]は、貼り付けられた鶏卵紙手彩色写真は経年劣化が激しいですが、也阿弥ホテルが作成した宿泊記念のカードだと思われます。明治期までは、地名には丸山と円山の表記が混在し、案外無頓着だったようです。このカードでも丸山になっていますね。写真右3分の1ほどは、金閣を模した建築が目を惹く吉水(東山)温泉です。さて、この写真は焼ける前か、再建後か、どちらなのでしょう。残念なことに、カードには年記がありません。

写真[J]

 写真[J]は東京からブエノスアイレスのFrancisco Centeno (今も活躍中の同姓同名のベーシストがいますね・・・関係ないと思いますが)宛に東京から発送された絵葉書です。こちらも現物は鶏卵写真で、かなり経年劣化が進んでいました。ここに掲げたものは鮮明に見えるよう画像処理しています。

 写真右下に手書きで記入された“1905”を信じるならば、2度目の失火の前年、つまり、再建後のホテルの写真であることになります。

ほぼ同じ位置から撮影されたホテルのカードも、同様に再建後のホテルを撮影したものということになります。

 ただ、手書きの年記と、写真の内容とが一致するという保証はありません。つまり、古い絵葉書に通信文を書いたのが、たまたま1905年だったということもありうるのです。

 也阿弥ホテルについては、数多くの鶏卵紙写真が残っていますし、写真絵葉書も背景にホテルが写ったものを含めると相当な種類の絵葉書が存在します。しかし、建築そのものに関する文献資料はほとんど遺っていません。

 幸いなことに、以前にご紹介した『日本帝国の表象』には、京都華頂大学現代家政学部教授の川島智生先生がまとめられた「明治期京都の外国人ホテル 也阿弥ホテルの成立と建築位相」が収録されています。さまざまな資料を駆使した詳細な内容とともに、いく葉かの図版も添えられています。その中でも、氏が明治32年(1899)、第1回失火以前の也阿弥ホテルとして紹介されている安養寺所蔵の写真(『日本帝国の表象』p.129)は、写真[J]と一致する佇まいを見せています。また、絵葉書収集・研究家、森安正氏所蔵の1905の書き込みがある也阿弥ホテルの写真(『日本帝国の表象』p.135)も紹介されていますが、[I]や[J]とは全く違った建築となっています。同じ建物を写した私所蔵の絵葉書を下に示します。

写真[K]

 どうやら私の持っている[J]の1905年は、絵葉書が作られてから長い間発信者の手元にあって、たまたまそれをその年に使用したようですね。そうなると、也阿弥ホテルのカードの写真も第1回失火以前の姿(第一次完成形態)を伝えるものと言うことになります。写真絵葉書の撮影時期の特定には慎重にならざるを得ません。

 さて、材料は揃いました。では、以上を踏まえてもう一度、四条鉄橋の写真絵葉書[A]、[E]、[D]を時系列に並べて見るとどういう順番になるでしょう。

 [A]に見えるのは、明治32年(1899)以前の也阿弥ホテルの建築です[F]。ということは、ここに写っている四条鉄橋は明治35年(1902)の拡幅工事以前の姿ということになります。確かに、高欄のデザインも竣工時の鉄橋のものです。

 一方、[D]に見える也阿弥ホテル[G]は明治34年(1901)の再建以降のものです。鉄橋そのものの高欄のデザインは、拡幅後のものです。つまり、明治35年(1902)から第2回失火の明治39年(1906)までの間に撮影されたものであることがわかります。

 では、[E]はどうでしょうか。ホテルの建物は見えず、何か柱のようなものが林立しているのが見えます[H]。この柱は、第1回失火後のホテルの再建工事に関連する足場の一部でしょうか。そうであれば、工事の認可が下りた明治33年(1900)10月からそう遠くない、工事の初期段階に撮影されたことになります。

 以上から時系列をたどると、古い順に[A][E][D]ということになるはずです。

 ところが、実はそう簡単に片付かない問題があるのです。

 それは、四条鉄橋が拡幅後のものであることです。ということは、どうしてもこの写真は明治35年(1902)より後に撮影されたものでなければなりません。

 南座の建物は大正2年(1913)11月の増改築以前のものです。ということは、時代を下っても、この時以前ということになります。南座の前に立つ大きな仁丹広告の設置期間は特定できないのですが、森下南陽堂(今日の森下仁丹)が仁丹を登録商標としたのは明治33年(1900)です。そして、赤大粒仁丹を発売したのは、也阿弥ホテル第2回失火の前年、明治38年(1905)のことです。それ以前、森下南陽堂の旗艦商品は「毒滅」でした。あの南座前の赤文字仁丹看板は赤大粒仁丹の宣伝看板です。

 以上から絵葉書[E]の写真撮影時期を特定するならば、明治39年(1906)から大正2年(1913)の間でなければなりません。

 ということは、[A][D][E]の順が正解ということになります。

 それにしても、あの、東山山麓に林立する柱の正体は何なのでしょう。

 残念ながら写真の遠景では焦点がぼけていて、間違いなく柱なのか、巨大な幟旗のようなものなのか、判然としません。

 2回目の失火の後、解体のために建てられた足場でしょうか。もしかすると、也阿弥ホテル解体後の円山公園整備工事に関連する物なのかもしれません。

 悔しいけれど、今はあの柱のようなものが一体何物で、何のために立っているのか、全く謎のままです。

北座とされる建物について

 ここで、北座とされることがある建造物について少し触れておきます。結論を先に言うと、あれは歌舞伎座では無いということになるのです。次の鶏卵紙写真をご覧下さい。

 四条鉄橋は拡幅前、また、東山山麓に見える也阿弥ホテルは第一次焼失前のものです。

 さて、北座とされることのある建物ですが、賀茂川堤防上に三色ぼかしの暖簾が見えますね。ちょっと拡大したのが、今回最後に挙げる写真です。

   なんと、右書きで「温泉」と書いてあるではありませんか。左の方の暖簾には温泉の文字の上に「女」とありますから,当然右の暖簾にもかすれてはいますが「男」の文字が見えます。また、大屋根の左を拡大すると、高々と煙突も天に向かって聳えています。どう見ても銭湯ですね。北座の建物を居抜きした可能性もありますが、別の建物と見た方が良さそうです。この銭湯も、四条拡幅とともに消滅したようです。

 四条大橋はこのあと、2度架け替えられます。そのお話は、また次回に。

本稿関連資料・図書(既出の物は除く)

[本学付属図書館所蔵のもの]

 京都府編 『亰都府誌』(上、下) 亰都府 , 1915

 川島智生著「明治期京都の外国人ホテル 也阿弥ホテルの成立と建築位相」(既出『日本帝国の表象』えにし書房 , 2016所収)

 井原西鶴著 『好色一代男』 各種あり

  現代語訳で読みたい人には、

 吉井勇訳 『現代語訳 好色一代男』岩波書店, 2015 があります。

[その他]

 京都市文化民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課 編 『明治の橋 近代橋梁の黎明』(京都市文化財ブックス32集), 2018

 田中泰彦編 『京都慕情』 , 京を語る会 , 1974

 国立国会図書館デジタルコレクションより

  ・橋本澄月編『京都名勝一覧図会』 , 風月堂 , 1880
  ・京都出版協会編『二十世紀之京都 天之巻』 , 京都出版協会 , 1908