次の写真[A]は、このラチスガーダー鉄橋を写した最初期の写真絵葉書と思われます。宛名面上端にはRÉPUBLIQUE FRANÇAISEの印字、その他もフランス語である事から、フランスで発行されたものかも知れません。タイトルが面白いですね。「Kioto. – Le Pont」つまり、「京都 – 橋」ということになります。ちょうど私たちが外国の町の橋を思うときに、ロンドンブリッジ、金門橋、アヴィニョン橋、ポンテ・ベッキォなどが浮かぶように、京都の代表的橋として四条鉄橋が相応しいと思ったのでしょうか。 “ル・ポン”、フランス語ではそのような発音になりますが、ポルトガル語だったらどうでしょう。橋はPonteで、ネイティヴの方の発音ではポントと聞こえます。おお、先斗町!
先斗町の語源にはさまざまな説がありますが、なんとなくこの辺りが正解のような気がしてしまいますね。ただ、私は外国語大学の教員のくせに語学が専門ではないので、専門諸先生方のご意見を承りたく・・・。
ちなみに先斗町(ぽんとちょう)という地名が文献上確認できる初出は井原西鶴の出世作『好色一代男』で、その巻六「四十二歳 喰さして袖のたちばな」(1682年初版本では年齢を数え間違って卅二歳となっています。私が参照したのは国立国会図書館所蔵本で1684年版です)に「むかしはと口惜しく、ほんと町の小宿にかへりぬ」とでてきます。いずれにしても「先斗町」は通称で、先に挙げた18世紀前半の「京大絵圖」では「シン川原丁」と言う地名表記になっています。
先斗町にこれ以上踏み込んで道草をするわけにもいきませんので、今はこれ以上触れません。気になる人は、ぜひ、ご自身で調べてみて下さい。
フランス語の絵葉書の手彩色写真をよく見ると、橋の東詰がえらく賑やかですね。何のお祭りかと思うような派手派手しい幟旗が風を孕んでいます。それもそのはず、橋の東詰は京都の歌舞伎の殿堂、南座があります。その芝居に関連する幟旗などが並んでいたのでしょう。向かって右、南に見える大きな屋根が南座です。一方左、向かい合って北にあるやや規模の小さい大屋根は、しばしば北座として紹介される建物です。ただし、北座歌舞伎舞台は明治26年(1893)の廃座によって幕を閉じました。そして明治45年(1912)、の四条通り拡幅の際に取り壊され、そのまま消滅したのです。したがって、写真絵葉書が日本で使用を認められたときにはすでに廃座していたのです。後でも触れますが、北座とされる建物は、絵葉書などが作られたときには銭湯になっていたと思われる証拠があります(ところで、現在四条大橋東詰北に北座という名の商業ビルがあり、5階には「ぎをん思いで博物館」があり、附近の歴史を写真パネルなどで紹介していますが、昔の歌舞伎座と直接の関係はありません)。
さて、この絵葉書の写真がいつ撮影されたかですが、ちょっと難しいところです。もしこの絵葉書が確かにフランスで発行されたものだとすれば、前回触れたように、フランスでは明治5年(1872)に私製絵葉書の使用が認められていますから、明治7年(1874)の鉄橋竣工直後だとしても矛盾はありません。ただ、橋の真ん中付近、上流に少し離れて背の高い電灯らしき街灯が見えること、また、下流側にも同じような位置に電柱が建っているのが見えます。高欄の形状は竣工時の物です。後で触れますが、明治35年(1902)に橋の拡幅工事が行われた際に、高欄のデザインも変わります。さらに、これも後ほど触れることになりますが、遠景、東山の麓に見える也阿弥(やあみ)ホテルの建築は、明治32年(1899)以前の姿を示しています。これらを考慮すると、絵葉書のもとになった写真は、明治30年(1897)頃に撮影されたものと考えるのがよいでしょう。
次の図は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている、橋本澄月編『京都名勝一覧図会』(明治14年 (1881)風月堂)の第廿八丁に載っているものです。
鉄橋より両演劇及び圖」と題される挿図の説明には「・・・橋上(はしうへ)尓[に]紅白(べ尓はく)硝子燈(がらすとう)八本を立殊(たつこと)に壮麗(さうれい)なり」と説明があり、照明灯が設備されていたことがわかります([ ]内樋口)。
『亰都府誌』の写真にも写っているこの「硝子燈」ですが、明治14年(1881)当時の光源は何だったのでしょうか。ガス灯の登場も、電灯が普及するのも、まだ先のことです。この図には、フランス製の写真絵葉書に見える電灯や電柱は描かれていません。竣工当時には瓦斯もまだ供給されていません。そうなると¬アセチレンガス灯か石油ランプだったのではないかと思うのですが・・・。
この図にはまた、河原の夕涼みについても記載があります。両岸の “青楼”から水辺に床机を出し、夜間ともされる灯火は星の煌めきのようだとか、河原にも床机を出して料理を供したという様子を伝えています。大橋が両岸を繋ぐことによって人の流れも変わり、中洲の小屋がけは消滅しましたが、夏期には川の中央付近にまで並んだ床机に大勢の客たちが夕涼みにやって来たのでした。
上の絵葉書は、宛名面の形式から、明治30年代後半のものという事がわかります。柳の青葉が風に靡く、夏のある昼下がりの光景でしょう。
画面右が川上で,西向きに撮影したものです。
赤い四角で囲んだ部分を拡大して見ると、確かに橋の下には床机が並んでいて、まだ陽が高いうちから寛ぐ客らしき人の姿も見えています(次の部分拡大図)。
今こんなことをしたら国土交通省に始末書を書かねばならなくなります(京を語る会が発行した『亰都慕情』の13.には、鉄橋の上流側に賀茂川を埋め尽くすように床がひしめく様子を映した写真が掲載されています。明治末には国の規制により中洲の納涼は完全に消滅します)。
よく見ると、それぞれの床机の上にはたばこ盆も用意され、これから一服の涼を求めて集まってくる、客への準備も万端というところでしょうか。
川下側の電柱には大きなボトルを模した広告看板があり、「牛久生葡萄酒」と書かれています。この醸造所は茨城県の会社で、牛久ワイナリーとして現在も健在です。その中核の建物は明治34年(1901)に建てられた煉瓦建築で、国指定重要文化財、日本遺産に指定されています。気になる方はwebで検索するとすぐ出てきますよ。本格的なワイン醸造を開始したのはこの明治34年(1901)からということですから、京都四条磧に看板を出したのもそれより後のさほど遠くない時期のことでしょう。
[B]の写真をよく見ると、『亰都府誌』掲載の写真とは異なった雰囲気を感じませんか。例えば、高欄の形状が複雑になっています。実は、鉄橋架橋後の明治35年(1902)10月から、京都市は人や荷車、人力車などの通行量増加に合わせて橋の上部構造を拡幅する改修工事を行ったのです。その際、当時まだ珍しかったコンクリートを大々的に導入しましたが、新しい素材に不慣れなこともあって、失敗が重なり、当時の新聞などでも非難される有様でした。寒冷な季節に使ったことが影響したのか、骨材と結合材との混合率を誤ったのか、原因ははっきりしませんが、うまく固まった部分とそうでない部分とができてしまい、やり直しの連続になってしまったようです。
明治36年(1903)3月17日付けの京都日出新聞は、コンクリート打ち込み時の気温が零℃以下だったため、下の方はじゅうぶん固まったが、表面に近い部分は「著しく破壊し居る」状態であったと指摘していますから、あるいは打ち込みの時間差があってコールドジョイントが起きたのかも知れません。
そんな苦難を乗り越えての拡幅工事でしたが、それによってラチスガーダーの腹板は表面から見えなくなってしまいました。
なお、このコンクリート施工の失敗の経験は翌、明治36年(1903)に琵琶湖第一疏水に架橋されることになる国内初の鉄筋コンクリート橋、日ノ岡第11号橋(京都市山科区)に活かされたのではないでしょうか。この小さな橋は、ちょっと古風な日本庭園の石橋を思わせるデザインで、今も健在です。
それにしても四条鉄橋、到底今の交通量に耐えるものではありませんが、なかなかモダンで洒落ていますね。
大通りを分断する川に橋があるのは当たり前と思っている現代人には想像しにくいかもしれませんが、橋が架かっているというのは、実は大変なことで、公儀橋であればその地域の重要性、四条鉄橋のような民橋の場合は地域住民の経済力と結束力、また、いずれの場合も土木、建築工学技術を形に表したものだったのです。つまり、その橋があるところの文化レベルの高さを示す指標でもあったというわけです。ですから、洋の東西を問わず、橋はしばしば絵画作品のモチーフになりましたし、浮世絵などにもさまざまな橋が “名所” として描かれてきました。
もちろん文化財クラスの古い橋も人気ですが、新しい橋もまた、人々に何かわくわくするような高揚感を惹きおこしますね。横浜ベイブリッジや台場のレインボーブリッジなど、わざわざそこに行くことを目的に訪れる人は今も多いでしょう。
四条の “鉄橋” だけで、私の手元にある限りでも十数種類の絵葉書が作成され、販売されています。それほど人気のスポットだったということです。そして、それは、最新技術によって作られた“未来志向の京都” を象徴する物だったのです。
現在の四条大橋は大きくなりすぎて、橋を見ると言うことさえしないまま、それと意識もしないうちに通り過ぎる場所になりました。
ここで四条鉄橋のほかの絵葉書をいくつか紹介しましょう。しばし、明治末の京都に思いを馳せて下さい。
写真[C]は「(京都名所)四條通り」と題された、四条鉄橋を西向きに撮影した絵葉書です。
橋の西詰向かって右(北)にちょっと見えているのが西洋料理の矢尾政北店 (もと、川魚料理の藤屋)、橋を挟んで向かい側(南)で、床の普請中なのが牡蠣料理の矢尾政南店(後、東華菜館)です。矢尾政の創業者、浅井安二郎はアサヒビールと提携し、この南店で夏にはビアホールを開きました。これが京都初のビアホールでした。
国立国会図書館デジタルコレクションの『二十世紀之京都 天之巻』には、
「四條大橋西詰(しでうおおはしにしづめ)の南側(みなみがは)は 矢尾政(やをまさ)の蠣料理店(かきれうりてん)にて夏(なつ)はアサヒビヤホール店(てん)なり北側(きたがは)は 矢尾政北店(やおまさきたみせ)にて西洋料理(せいやうれうり)を營(いとな)み兩側向(れうかはむか)[原文異体字]へて京(きゃう)の花(はな)を添(そ)へつゝあり、茲(ここ)より北(きた)へ先斗町(ぽんとてう)といふ遊郭(いうくわく)あり 藤屋料理店(ふじやれうりてん)は元矢尾政(もとやおまさ)の處(ところ)にて營業(江いげふ)なせしが茲(ここ)を修築(しうちく)して昨年(さくねん)より高尚(かうせう)なる料理店(れうりてん)を開(ひら)けり」と記されています。(京都出版協会編『二十世紀之京都 天之巻』、京都出版協会、明治41年(1908)、p.97上)
矢尾政についてはいずれまた触れることになります。
『二十世紀之京都』の面白いのは、単なる名所案内にとどまらず、京都の旅館からグルメやグッズに関する情報を紹介する点で、所々には広告も載せていて、今のwebサイトのご当地情報のような内容になっている点です。国会図書館のデジタルコレクションで是非一度ご覧下さい。
さて、部分拡大写真をふたつあげていますが、これらについても少し触れておきましょう。
左の部分拡大写真、赤丸で囲んだところにご注目ください。高層建築のほとんど無かった街並に、抜きんでて高さのある城郭のような建築が見えますね。当時京都では珍しかった地上4階建ての “高層建築” 。銅板で葺かれた屋根の輝きは遠くからも見え、人知れず「あかがね御殿」と呼ぶようになったもので、これを “見る” ために京都に来る人もあったという話題のスポット。その正体は・・・。
明治28年(1895)に四条御旅町北側に建てられた藤井大丸呉服店です。その後、四条通り拡幅に先立って南向かい、現在の位置に店を新築し、このあかがね御殿もその西隣に移設します。藤井大丸についてはいずれ御旅町付近の話になったときに触れることにします。
[C]の右、青く塗られた瓦屋根の後ろからチョコッととんがったものが頭を出していますね。村田時計店の時計塔の尖塔です。写真[B]にも見えています。これについても御旅町のあたりでお話しします。
一方、右の部分拡大写真の青丸で囲んだものは、ちょっと判りにくいかもしれませんが、大きな犬の頭の看板が見えるでしょうか。その下の緑色に着色された看板には、一部文字が隠れていますが「清快丸」という、気付け、溜飲薬の看板です。犬の頭はこの薬を製薬している高橋盛大堂薬局のトレードマークでした。なぜ犬なんだろう、犬種はなんだろうと思いあぐね、こどもの頃読んだ絵本を思い出しました。もしかしたらアルプスなどの遭難者の救助に活躍するセントバーナードかな、と。セントバーナードの首には気付け薬として遭難者に飲ませるコニャックのはいった小さな樽がぶら下がっているという話です。そこで、何年か前、思い切って現在もご健勝の高橋盛大堂製薬さんにお尋ねしました。結果は、広告に使われた犬のイラストは洋犬で数種あるものの、この看板はセントバーナードだと思われる、ということでした。この犬の首、けっこう目立つもので、宣伝効果は高かったことでしょう(商標登録は明治36年(1903))。これもいずれ高瀬川に架かる四条小橋の話になった際、その目立ちようがご理解頂けると思います。
四条鉄橋は人が通行する橋としては珍しい“鉄橋”であったことや、まさに近代都市京都を象徴する「名所」として定着していたことが伺えます。橋を東に渡りきったあたりの混雑ぶりが(圧縮効果もあって)よくわかりますね。京阪電車(地上路線)が三条まで延伸されるのはまだ先のことで、川端には線路も踏切もありませんでした。東山の麓に青く着色された規模の大きな建物が見えますが、現在の円山公園東端山麓にあった也阿弥ホテルです。明治12年(1879)に長崎人、井上万吉が安養寺塔頭その他の施設を買収して京都初の洋風ホテルとして開業したもので、外国から京都にやって来る著名人の間でも有名なホテルでした。しかし不運にも2度も火事で焼け、2度目の失火の後は再建されることなく消滅しました。実はこの建物が写っていることが、私の頭を混乱させているのです。
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