図書館長のおもちゃ箱付属図書館長 樋口 穣   

四条通今昔散歩 (第2回)
「西楼門と石段下」

写真絵葉書の始まり

 明治期のダゲレオタイプ写真器は、木製の大きな箱のようなもので、さらに、銀板やガラス乾板に直接映像を定着させるものでした。機材も画像定着の基底材も大きく重く、高価で、誰もが気軽に持ち運んで使えるというものではありませんでした。今のように軽便なネガフィルムもなく、コンパクトカメラの登場もまだ先のこと。片手で持って、はい、ポーズ・・・などとても無理で、しかも扱いには熟練を要しました。また、撮影された写真は1枚もので、複製する技術も未熟だったので、写真館で撮影する写真はとても貴重なものだったのです。一定期間の “修行” を積まなければ使いこなせないようなものでは、とてもではありませんが、アマチュア写真家の生まれる条件が整っていたとは言えません。ですから、よほど必要がある場合には思い切って写真館でプロに(肖像写真)を撮影して貰うか、市販されている写真を買うか、と言うことになります。

 市販写真は鶏卵紙に画像を定着させる技術が開発され、今で言うところのネガ/ポジ式が普及することで可能になりました。明治期には土産として日本風景を鶏卵紙に焼き付けた写真に、水性絵の具で手彩色したものが外国人に土産として大変好まれました。ただ、この種の写真は一枚ずつで売られるよりも、さまざまな名所風景などをまとめたアルバム形式で販売されるのが普通で、しかも、表紙は蒔絵(まきえ:漆工芸品)が施されていたりするなど豪華なものが多く、決して安価なものではありませんでした。

 庶民にとって、複製写真よりももっと安価に手に入るのが写真絵葉書です。私製絵葉書が日本の郵便法で認められたのは通常葉書が登場した明治6年(1873)から27年も後、明治33年(1900)のことです。その後、絵葉書は一大ブームを巻き起こします。とくに、日露戦争が勃発すると、戦況を伝える写真絵葉書が切っ掛けとなって、絵葉書収集ブームを盛大に煽りたてることとなりました。絵葉書収集の全国ネットもでき、遠方の同好の士と絵葉書を交換する事も盛んにおこなわれるようになります。いわば、トレーディング・カードのような楽しみ方も流行したようです。

 写真絵葉書が登場したことによって景勝地や旧跡、さらには戦場、あるいは災害などを伝える“実録” 画像を誰もが手にすることができるようになりました。また、さまざまな記念絵葉書も人気を集めたようです。

 写真絵葉書には、写真そのものを葉書大の印画紙に焼き付け、あるいは貼り付けたものもありますが、印刷によって量産されたものが主流となってゆきます。その印刷も、もとの写真から職人が腐食銅版画(エッチング)や砂目石版(リトグラフ)にしたものから、より原版写真にちかい、コロタイプ印刷の登場によって一層普及することになります。印刷原版の耐久性は凸版印刷やオフセット印刷に及びませんが、コロタイプは拡大してもドットのつぶつぶが出ず、原版写真の雰囲気をかなり忠実に再現できるという利点があります。

祇園町の写真絵葉書

 上に示したのは、ごく初期の写真絵葉書です。宛名面への通信文記入はまだ認められていませんでしたので、写真を小さく、余白を大きくとって通信文面積を確保しているものです。

 写真の分析に入る前に宛名面の写真を次に挙げておきます。全体に縁取りがあり、右書きで「書端合聯便郵國萬」と印字されています。 “端書”とは “葉書”のことです。

 大日本帝国が萬国郵便聯合に加盟したのは明治10年(1877)6月1日のことでした。萬国郵便聯合の前身は、普仏戦争後の1874年に発足した一般郵便聯合が、1878年に改称されたものです。現在は一般郵便聯合の発足を萬国郵便聯合の発足した年としているようです。

 加盟国における私製絵葉書の認可は、1872年のドイツを皮切りにフランス(‘73),イギリス(’74)と続き、1898年にはアメリカでも認可。日本では、先にも書いたように、私製葉書は明治33年(1900)に認可されました。また、明治35年(1902)には、萬国郵便連盟加盟25周年記念の官製絵葉書も発行されています。

 上の葉書、宛名面の形式は明治33年(1900)から明治39年(1906)までの郵便法に従ったものです。

 では、写真の分析にうつりましょう。

 上は写真部分のみ拡大し、見やすいようにやや画像処理したものです。写真原版を砂目石版で印刷したもののようにも見えます。一点透視構図の消失点から推測すると、丁度町家の二階床あたりの高さからから水平に撮影したことがわかります。実はこの写真は、京都四条通を西向きに撮影したものですが、消失点の高さから、西楼門石段の中段にカメラを据えて撮影したものと推定できます。写真右余白にはStengel & Co., Dresde.の文字が印字されています。Stengel & Coはドレスデンを拠点とする印刷会社で、とくに絵葉書の印刷業者として有名でした。20世紀初頭には世界の絵葉書シェアのトップを占めていたほどです。ただ、なぜDresdenの “n” が欠けているのか、表記には不思議な点もあります。

 最初の方で書いたように、当時のカメラを使いこなせるのはプロだけでした。しかも大きな箱形のダゲレオタイプと、それを支える頑丈で重い木製三脚、ガラス乾板や必要な諸道具一切を現場まで持って移動するのは大変なことだったのです。数名の助手が必要だったと思われます。この写真を撮影したのは外国人カメラマンだったのでしょうか。いずれにせよ、非常に目立ったことに相違ありません。道路の真ん中で立ち止まってこちらを見つめている男性や、商家の軒下に身を寄せ合ってこわごわ(?)こちらをのぞき見している老婦人らしき人たちの姿も見えます。全体に閑散とした印象を受けますが、露光時間を長くとる必要があった当時のカメラでは、動きの速いものは写らかったためかも知れません。

 特に道路中央付近の二人の男性は、カメラからほぼ同じ距離に背中向きとこちら向きとの組み合わせになっています。これだけくっきり写るのは、動かずじっとしていたからにほかなりません。まるで平均的日本人男性の前と後ろの姿のサンプルを示すかのようです。道路向かって右端で、動いていれば回転していて写るはずのない車輪の輻(やスポーク)まで確認できる荷車も、左に整列した人力車と車夫たちも、撮影者の指示した構図にしたがって “配置” されたものに違いありません。

 “Kioto” と一語で題されたこの絵葉書は、まるでこの場所が京都を代表する場所であるかのようです。そういえば、石段下から西に拡がるのは京都最大の花街、祇園甲部、そして祇園東(明治になって甲部から独立)の花街が拡がります。京都随一の花街であったことは確かです。特に外国の人たちにとって、舞妓や芸子に出会えるこの場所はまさに、Kiotoを代表するエリアだったのかも知れません。

 画面左の人力車が並ぶその隣の、目立つ望楼(後述)を持つ建物は、明治2年(1869)に設立された、下京第33番組小学校を起源とする彌榮校(のち明治5年・八坂学校、明治10年・彌榮校に改称、その後何度かの改称、改組を経て昭和23年、京都市立弥栄中学校,平成22年度末閉校、23年度京都市立開晴小中学校に統合)です。その初代校長に就いたのは今日でも祇園を代表する茶屋、一力亭の九代目当主、杉浦治郎右衛門でした。当時の小学校は、それぞれの学区の誇りと威信(そして、京都人としての見栄と競走心も少々)をかけ、地元のための小学校として、地元の人々によって出資され創立したものが多いのです。この学校の前には、街路灯のようなものが見えます。これは、電池式のアーク灯で、明治16年(1883)4月1日,電燈機械の売り込み普及を目的として大倉組がこの場所と歌舞伎練場の前とに設置、点灯して大いに人々を驚かせました。これが京都で最初の電気灯です。 このタイプの街灯設置は、その半年ほど前の東京に次いで全国二番目でした。まさに、近代の魁、科学技術を象徴する京都のチャームポイントだったことは想像に難くありません。

 電池式の街路灯を除けば街路にはまだ電柱も見えず、それどころか店先のガス燈さえ見あたりません。前回採りあげた「京都祇園町八坂神社」絵葉書の説明で触れましたが、京都瓦斯によるガスの供給が始まったのは明治43年(1910)です。ガス配管やガス灯などの器具の設置はガス供給に1、2年先行して行われると考えられます。そう言う点を踏まえると、この絵葉書の元となった写真が撮影されたのはいつ頃と考えるのがよいでしょうか。写真の中の人物配置などからは、先に書いたように、綿密に練られた構図を読み取れます。と言うことは、元写真は撮影の段階から絵葉書として販売する目的で撮られたと考えるのが妥当でしょう。だとすると、日本で私製絵葉書が認可された明治33年(1900)を見越してあらかじめ準備されたか、あるいは認可を知ってすぐに製作されたかのどちらかと言えると思います。以上から、撮影時期は1900年ごろ、としてよいでしょう(もちろん、日本で販売されたとは限りませんし、海外で先行販売されたとしたら、もうすこし時期は遡るかも知れませんが、それほどの誤差は出ないでしょう)。

 この絵葉書の写真を通して私たちが見ているのは、明治33年ごろの石段下から西を望む四条通の光景なのです。

 ここで同じ場所を撮影したほかの画像を幾つかご覧に入れましょう。

 上にあげたのは絵葉書ではなく、葉書サイズの手彩色鶏卵紙写真です。

 こちらは石段の最上段から撮影されたものです。消失点はちょうど二階の軒下あたりの高さになります。ほぼ真南から差す太陽光の創り出す影が、路上にくっきりと見えます。初期の野外撮影ではこれくらいの明るさを必要としました。

 構図としては最初に示した絵葉書よりも遠近が感じられて、面白味が出ていると思います。その遠近感の強調に一役買っているのが画面右、石の狛犬です。絵葉書でも同じ場所から撮影した写真を用いたものが多数作られたのですが、石段から西向きに撮影した写真で狛犬全体が写っているものは、四条通拡幅以前では非常に少ないのです。そこに私は、写真と絵葉書というそれぞれのメディアに課せられた役割の違いのようなものを感じます。

 石造りの狛犬を画面内に取り込むことによって、どこから撮影したのか、ということは明白になります。空間の奥行き感も出せます。また、撮影位置が上がればその分遠くの風景まで写真に収めることができます。しかし同時に、画面の1/2近くをそれに占められてよいのか、というディレンマがあったのではないでしょうか。思い出としてのイメージを写真の形で持ち帰りたい人にとっては、狛犬の基壇に隠れてしまうよりは、そこにある商店が見えている方が花街の繁華ぶりが感じ取れたのではないでしょうか。

 ところで、この写真のほんの数分前に撮影されたとしか思えない鶏卵紙写真があるのです。その一部分だけ紹介しましょう。アーク灯手前の部分です。

 いかがですか?まるで間違い探しパズルのようですね。撮影時に複数回シャッターを切るのは今の商業カメラマンも同様です。右側は先にあげた写真で、ややピントが甘いようです。そのため、大きな写真に引き伸ばせなかったのでしょう。左は同じ範囲を写した別の写真の一部を示していますが、荷車の位置から推定して、同じ撮影者が同じ位置から何分か前に撮影したものに間違いないでしょう。こちらはピントもはっきり合っていて、B5版に近いサイズの鶏卵紙に焼き付けられています。

 大きいサイズの写真は、多くの場合、もとはいく葉もの手彩色鶏卵紙写真をまとめ、アルバムの形で販売されたものが多いのです。私の手元にある鶏卵紙写真はいずれも、そうしたアルバムから切り取られたものばかりです。

学校のシンボルだった太鼓楼

 ここで、同じ場所を写した、また別の写真をお目に掛けましょう。

   「GION KIOTO」と言う文字が画面左下に焼き込まれた鶏卵紙写真で、やはりB5に近いサイズのものです。

 当時京都市内の学校では、この写真左に見えるような望楼を設置するところが多くありました。 “太鼓望楼” と呼ばれることもあり、名の如く太鼓が置かれていて、その太鼓を叩いて時刻や火災などを知らせていたのです。現在京都市内の学校で太鼓望楼が残存しているのは京阪三条駅南の有済小学校のみとなりました。木造の望楼だけが鉄筋コンクリート校舎の上に保存された状態で国登録有形文化財に指定されています。

 これまで挙げた絵葉書や鶏卵紙手彩色写真の画像を比べると、絵葉書Kiotoと鶏卵紙写真GION KIOTOとには望楼がはっきりと確認できます。一方、葉書大の鶏卵紙写真と、同じ地点から撮影したもう一枚の写真とでは、いずれも望楼は左にフレームアウトしていて見えません。

 ランドマークとしては目立つ構造物を、それもギリギリの位置でフレーム外にしてしまったのはなぜなのか、気になり出すときりがありません。

 四条通を現在の新京極附近まで話が進んだらまたいく葉かの古い写真絵葉書を紹介しますが、それらに目立つのは時計塔です。高層建築物が少なかった頃には、太鼓望楼や時計塔は目立つ存在だったことでしょう。あくまで想像をたくましくするならば、近代テクノロジーを象徴する機械式時計にたいし、太鼓で時を報せるという前時代的な構造物を画面の外に追い遣ってしまいたいという意識が働いたのも知れません。今でこそ町並み保存や市内建築物の高層化を制限しようという主張が目立ちますが、120年前の京都は東京への対抗心も強く、なにごとにおいても魁を目指した時代でした(もちろん、その当時にも急激な開発に反対する運動や景観保全の意識もありましたが)。

エレキは怖い?

 ところで、電柱、 “電信柱(でんしんばしら)” について少しばかり。私がこどもの頃、京都などでは “電信棒(でんしんぼう)” とよんでいました。明治期に有線電信用の “電信電柱” が “送電柱”より先に登場したため、それが通称になったのです。これも前回触れましたが、電話が使われ始めると、多重通信技術がなかった時期には一回線ごとに電話線を引く必要が生じました。そのため、電柱の腕木は加入回線が増えるごとに何段にも積み重なることになったのです。昔の電柱がやけに丈高いものに見えるのは、腕木の増加を見越して余裕をとっていた為です(同様に、昇圧トランスの性能が低かった頃には、送電線の数も増えました)。

 GION KIOTOの画面を見ると、確かに電柱は立てられていますが、腕木はまだそれほど大層な状態になって居らず、辛うじて見える電線も僅かです。

 京都市街地で京都電燈会社(明治21年4月設立、同26年2月京都電燈株式会社に改称)が一般向け送電事業を開始したのは明治25年(1892)以降のことで、明治23年(1890)竣工の琵琶湖第一疏水による水力発電を開始した蹴上水力発電所(明治24年運転開始)からの電力供給が認可されたことで可能になりました。京都電燈についてはほかにも紹介したいことは山ほどありますが、ここでは寄り道は避けましょう。

 京都市街地では京都瓦斯株式会社が明治42年に設立され、翌年から都市ガスの供給を始めました(昭和20年大阪瓦斯に吸収合併)。京都電燈の交流高圧送電の開始に遅れること約20年。しかし、開始時期にアドバンテージを持つ電力需要は思いのほか伸び悩んだのです。一つには、エレキというものに対する恐怖と警戒心が余りにも根強かったことと、漏電による火災が頻発したことです(もっとも、当時の火災現場検証では出火原因を特定できないと、なんでも“漏電”で結論づけていたと言うこともあるようですが)。 そういうわけで照明器具もガス灯の普及の方が早く広まってしまったのです。家屋電燈取付普及率は日露戦争の頃になっても非常に低い数字にとどまっていました。田中尚人・川崎雅史・亀山泰典「電気事業に着目した近代京都の街路景観デザイン」は、次のようなデータを挙げています。

京都電灯は,開業4日前の1889年(明治22)7月17日祇園會への人に対して,四条寺町,四条小橋および四条磧の電柱14本に100燭光以下の電灯を見本広告とし家屋灯を宣伝した効果もあってか,234戸需要があり電燈数740灯取付をもって家屋灯営業が開始したが,開業から16年間1割にも満たない低普及率と需要は予想に反して伸び悩んだ.開業時の普及率は図-2に示すように0.4%,5年後の普及率は2.7%,16年経過した1905年(明治38)でも8.4%と低い値を示している.(田中尚人・川崎雅史・亀山泰典「電気事業に着目した近代京都の街路景観デザイン」景観・デザイン研究論文集,pp.47,48土木学会景観・デザイン委員会 編, 2005.12)

 このような普及の遅さでしたから、京都電燈の発・送電事業開始時期イコール市内一斉配電開始、というわけにはいかなかったのです。

 もう一葉、こんな写真絵葉書も紹介しましょう。祇園町を花見小路あたりから八坂神社向きに撮影したものです。宛名面は明治33年(1900)から明治39年(1906)までの様式になっています。

 通りを挟んだ向かいあう軒先にはまだガス灯看板が使われていますが、四条通南北両側には電柱も建てられています。

 さらにもう一葉、今度はやはり明治33年―明治39年様式の宛名面を持つ写真絵葉書をご覧いただきましょう。

この絵葉書にも四条通南北に電柱が建柱されています。送電線も次第に増えていることがわかります。大都市では普通電信線、軍用電信線、非常報知線、電話線、電灯線と、送電信線の数がおびただしくなり、ほぼその設置と同時期に景観上問題視する議論も起きていました。神戸の外国人居留地では居住者からの「風致を害する」という苦情に対処し、明治21年(1888)には早くも電線の地中化が行われました。その他の地域でも、架空線が入り乱れてクモの巣の中にいるようだという景観論や、台風や地震といった災害への対策として地中化論争が起きますが、これはまた別のお話。

 写真に戻りましょう。

 画面向かって左、八百文の暖簾が見えます。八百文は昭和にはいると果物の専門業者となり、やがてフルーツパーラーも開業、平成に入る頃までは続いた店です。フルーツサンドの発祥店とも言われ、昭和の早い時期から売っていたようですが、残念ながら現在は閉店し、店のあった場所は2021年10月現在、ドラッグ・ストアになっています。撮影された季節は晩秋もしくは初春ごろの撮影でしょうか。南中時の影が長く延びています。

 先を急がないと西に進みませんね。気持ちは急きますが、八坂神社西楼門、そして石段については、このままにして立ち去るわけにはゆかないのです。もう少しおつき合いをお願いします。

市電路線敷設と道路拡幅


 なんだか急に近代都市の景観になりました。それもそのはず、大正7年(1918)から昭和7年(1932)の郵便法に従った絵葉書です。

 ここに到るまでの間にも、ご紹介したい写真絵葉書はまだまだあるのですが、時間を省いて少々タイム・ワープしました。

 今しも四条通から東大路通へと左折中のトラックが見えます。道路の主役は未だ自転車や荷車ですが、一方で、人力車が見えない代わりに左手中程には西向きの、またその向こうから対向する東向きのタクシー(ハイヤー)が見えます。四条通は拡幅され、中央には石畳の敷かれた路面電車線路が敷設され、市電が行き交っています。一番手前の西向き市電車輌は大正13年(1924)2月にデビューした広軌500型初号車。集電装置などの改変を加えながら、500型車輌が完全に姿を消すのは市電《略語》伏見線の廃止された昭和45年(1970)5月のことです。

 そのほかに見える2輌は広軌I型で、明治45年(1912)に京都市電が開業して以来走り続けてきたベテラン車輌で、全部で167輌も作られました。この電車が完全に廃車されたのは昭和25年(1950)4月のことですが、戦前の昭和13年(1938)には海を渡り大連都市交通に譲渡された車輌が10輌あります。また、長崎電気軌道にも5両が譲渡されています。この時期の市電車輌の集電装置は、ダブル・ポール形式です。実は、京都市電に魁けて路面電車の営業運転を始めた京都電燈(京電/ナロー・ゲージ、後市電に吸収され、N電とよばれる)のいわゆる「チンチン電車」はシングル・ポールでした。これはトロリー・ポールで集電し、線路から返電する形式でしたが、一部の電気が地中に流れ、埋設されていた当時の鉄製水道管を腐食・破損するという懸念がありました。そのため、市電では集返電を空中架線で行うためダブル・ポールになったのはよく知られています。なお、昭和31年(1956)に集電装置はビューゲルに改装されています。電車マニアの方ならよくご存じの話ですね。

 市電軌道以外の路面はまだ地道で、砂塵を防ぐために撒水が行われています。もう少し先、御旅町あたりに話が進んだ際にも触れる予定ですが、撒水直後や雨天時には泥跳ねを避けるために自動車も市電軌道の石畳上を走行することが多かったようです。
 市電の話が少々長くなってしまいましたが、実は都市インフラの近代化と路面電車の敷設・延伸との間には大変深い繋がりがあるのです。簡単に言うと、電車を通すために橋が強化・近代化され、街路が拡幅される必要が生じるのです。つまり、京都市の交通インフラは、明治大正期から昭和40年代に至るまでの間、市電の延伸によって近代化されたという事です。

 そして、それによって京都市街中心地も変わって行くのです。

 明治前半までは、京都市街の商業中心は、東海道の起点である三条大橋〜三条烏丸(東南角に大正9年設置の京都市道路元標石柱があります。探してみて下さい)でした。そのため、一部では近代化が早く進み、洋式煉瓦造りの建造物が建ち並んだのです。日本銀行京都支店として建てられた煉瓦造りの建物は、京都文化博物館として今も現役ですね。それ以外にも三条河原町─三条烏丸間には、当時の面影を伝える建造物がいくつも遺っています。しかし、これが逆に仇となった面があります。堅牢な洋風建造物が建ち並んだ三条通りは、拡幅するのが困難になったのです。

 一方、古い木造京町家が並んでいた四条通は、建造物の立ち退き取り壊し、拡幅が比較的容易でした。そさらに、予算上の問題や、明治 41年 (1908)に発令された内務省の電気軌道敷設特許命令の定める条件を満たす必要から、市電を通すために拡幅されたのは四条通となったのです。その結果、市内の繁華街中心は次第に四条通へと移ってゆきました。

 四条通の拡幅工事は、明治44年(1911)、まず東大路─大宮通間から始まりました。大宮─西大路間の拡幅がそれにつづき、工事がすべて完了したのは昭和に入ってからです。京都市電四条線/四条大宮─祇園石段下間が開通したのは大正元年(1912)のことでした。

 明治44年に印刷発行された「本願寺宗祖大師六百五十回忌記念亰都市街地圖」という仰々しいタイトルの大きな地図が手元にあります。実は明治期の京都は、盛んに行われる博覧会や、東西本願寺総本山を中心とした回忌法要、遠忌法要を目的とした十万人単位のインバウンドを迎えることになります。そういった人々を迎える宿などは、お伊勢参りの盛んだった江戸時代後期から本願寺周辺に多く存在しました。地方から来る人はそれぞれの地域で講を結成し、都へとやって来たのです。そのため、そういった人々の出発地と所縁のある宿屋には、たとえば“尾張屋”といったように、その地域の名を冠した屋号のものがありました。

 一方で、東海道線などの鉄道が整備されると、行事のたびに訪れる人々の数は、江戸時代とは桁違いに、また急速に増加しました。特に急がれたのは交通インフラの整備です。初めて京都を訪れる人を当て込んで、こうした行事がある年には案内地図も多数版行されたのです。

 「本願寺宗祖大師六百五十回忌記念亰都市街地圖」で、四条通東端あたりを拡大して示したのが次の図です。

 一見して、他の街路よりも道路幅が拡がっていることがわかります。もちろんこの拡幅工事は市電を通すためのものです。その市電は、この時点では赤い破線で路線がしめされていて、“記號”(凡例)によると「電鉄未成線」となっています。

 さて、四条通が明治末に拡幅されたことはわかりましたが、その拡幅にあたっては当然、立ち退きも必要になります。

 もちろん、近代化のために立ち退いてくれ、ハイよろしおす、とすんなり話が運んだわけではありません。商店の組合や町内自治会でも当初は賛否両論が入り乱れ、双方の陳情書が市に提出される有様でした。

 店に買い物に来る客は歩いて来はる、そやから道幅は狭い方がええ、道を拡げて電車なんか通したらあぶないやないか!と言う意見も出たのです。道が狭いほうが、北や南に並ぶ店での買い物も便利だと言うわけです(同じ理由で現在も道幅を狭いままに続いているのが錦商店街です)。四条通は結局拡幅されるのですが、ここで、今一度、「祇園町」の絵葉書を引っ張ってきて確認して見ることにしましょう。

 写真は「祇園町」の一部分を拡大したものです。向かって左側、すなわち南側の八百文から西の位置は、現代まで変わりません。と言うことは、立ち退きは南側では行われなかったという事になります。

 実は、向かって右(北)側に並ぶ商店の家並みの裏には東西に延びる道路があるのです。四条通拡幅にあたっては、この旧四条と1本北の街路との間の家並みがすべて立ち退きの対象となったのでした。写真で示すと、北側の電柱から向かって右の家並みが取り壊され、幅3間だった道路が12間(1間≒1.82m)の道路へと生まれ変わるのです。

 こうして拡げられた四条通ですが、同時に歩道も整備されている点は注目に値します。道路幅12間にはこの歩道の部分も含みます。歩行者専用歩道の設置は、明治33年(1900)にパリ万博及び欧米諸都市を視察して帰国した大槻滝治京都市助役(当時)の強い意見具申が採り入れられたものです。

 さて、次に揚げるのは、これも前に示した「GION KIOTO」絵葉書写真の一部です。よくみて下さい。道幅が拡がりました。どっちに? 北側に、でしたね。北側の家並みが取り壊されて道路になりました。

 では、この写真を「(大京都)最も繁華なる・・・」の絵葉書の写真と比べてみて下さい。何か気付きましたか?

 狛犬の位置に注目。

 「GION KIOTO」で向かって右に見えている狛犬は、丁度当時の四条通の道幅に合わせて佇んでいますね。つまり、北側の家並みに合う位置です。しかし、その家並みが撤去され、道路になってしまったのです。そこで、「(大京都)最も繁華なる・・・」を今一度みて下さい。

 あれ?左側の狛犬は写っているけれど、右側にあったはずの狛犬が見えない?

 「GION KIOTO」では左の狛犬は写っていませんが、基壇いちばん下の石積みの一部は確認できますね。一体どういうことでしょうか。これについては、石段を正面から撮影した写真で確認する必要がありそうです。

そして、楼門は動いた!


 さて、上の写真は八坂神社の西楼門を四条東大路南西側から望んだ写真絵葉書です。市電の路線をみると、四条通から東大路通りへの接続も完了しています。京都市電東山線は大正元年12月25日に三條東四丁─廣道馬町間が開業。現在の地名で言うと東山三条─馬町間と言うことになります。

 この絵葉書の宛名面の形式は大正7年(1918)から昭和7年(1932)までの郵便法に従っています(写真省略)。楼門を挟んで南北(左右)に見える翼廊が増築されたのは大正14年(1925)の事です。さらに、画面右側、東大路通を南行するフェートン型自動車が見えますが、私の見立てに間違いがなければ、なんと、ダットサン11型ではありませんか。いわゆるダットサン1号車が誕生するのは昭和7年(1932)です。ということは、まさにここに見えている風景は、昭和7年の石段下と言うことになります。それにしても、昭和7年の11型の生産台数はわずか150台しかなかったのに、そのうちの1台が早くも京都市内を走っていたことになりますね。

 さて、楼門の話に戻りますが、写真の赤い線は私が追加したもので、もとの写真にあったものではありません。

   明治期の西樓門の写真を見ると、樓門は四条通の中央に面して建っていたことがわかります。しかし、これまでみたとおり、京都市が掲げる三大事業のひとつ「道路擴築竝電氣鐵道敷設事業」によって、四条通などの拡幅、路面電車敷設が行われたわけです。そして、四条通は、南側はそのままに、北側に拡幅されたのでしたね。そうなると、道幅の拡がった四条通に対して、西樓門の中心線は道路中心から南にずれてしまうはずです。

 ところが、私が引いた赤い線をご覧戴くとわかるとおり、樓門の中心線と四条通の中心軸とはちゃんと合致しているではありませんか。

どういうことか、おわかりですね。

 “門が動いた” のです。

 つまり、四条通の拡幅に合わせ、門を北側に3mほど移動させたのでした。そうすることで、以前と同様、門の中心線と四条通の中心軸とを合致させたのです。

 「お東さんが曲げはった」と京都の人が言う、(参拝者との接触事故危険性を憂慮して)東本願寺門前を避けて通った市電烏丸線とは逆に、八坂神社は門の方を動かしたんですね。

 ちなみに、西楼門はこのとき、北に動いただけではなく、東にも6mセットバックしています。これにより、段数は増えましたが石段の勾配はやや緩やかになり、翼廊に合わせて幅も倍近く拡がって、今の姿となったのです。

 石段が拡がったので、向き合う阿吽の狛犬の距離も遠くなりました。

 と言うわけで、門の直前から西方向に写真を撮った場合、相対的距離の関係で両方の狛犬を写界に収めるのはむつかしくなったのでした。




 さて、今回はここまで。次回はいよいよ石段下から西に向かいます。


[本学図書館所蔵の関連図書]

◎昔の京都の写真満載の本をご紹介


  吉田光邦監修 『写真集成 京都百年パノラマ館』 淡交社, 1992

  『京都の市電 : 古都に刻んだ80年の軌跡』立風書房 , 1978

  中村治著 『あのころ京都の暮らし : 写真が語る百年の暮らしの変化』世界思想社, 2004

  ほかにもまだまだ沢山あります。ぜひ図書館に来て探してみてください。