なんだか急に近代都市の景観になりました。それもそのはず、大正7年(1918)から昭和7年(1932)の郵便法に従った絵葉書です。
ここに到るまでの間にも、ご紹介したい写真絵葉書はまだまだあるのですが、時間を省いて少々タイム・ワープしました。
今しも四条通から東大路通へと左折中のトラックが見えます。道路の主役は未だ自転車や荷車ですが、一方で、人力車が見えない代わりに左手中程には西向きの、またその向こうから対向する東向きのタクシー(ハイヤー)が見えます。四条通は拡幅され、中央には石畳の敷かれた路面電車線路が敷設され、市電が行き交っています。一番手前の西向き市電車輌は大正13年(1924)2月にデビューした広軌500型初号車。集電装置などの改変を加えながら、500型車輌が完全に姿を消すのは市電《略語》伏見線の廃止された昭和45年(1970)5月のことです。
そのほかに見える2輌は広軌I型で、明治45年(1912)に京都市電が開業して以来走り続けてきたベテラン車輌で、全部で167輌も作られました。この電車が完全に廃車されたのは昭和25年(1950)4月のことですが、戦前の昭和13年(1938)には海を渡り大連都市交通に譲渡された車輌が10輌あります。また、長崎電気軌道にも5両が譲渡されています。この時期の市電車輌の集電装置は、ダブル・ポール形式です。実は、京都市電に魁けて路面電車の営業運転を始めた京都電燈(京電/ナロー・ゲージ、後市電に吸収され、N電とよばれる)のいわゆる「チンチン電車」はシングル・ポールでした。これはトロリー・ポールで集電し、線路から返電する形式でしたが、一部の電気が地中に流れ、埋設されていた当時の鉄製水道管を腐食・破損するという懸念がありました。そのため、市電では集返電を空中架線で行うためダブル・ポールになったのはよく知られています。なお、昭和31年(1956)に集電装置はビューゲルに改装されています。電車マニアの方ならよくご存じの話ですね。
市電軌道以外の路面はまだ地道で、砂塵を防ぐために撒水が行われています。もう少し先、御旅町あたりに話が進んだ際にも触れる予定ですが、撒水直後や雨天時には泥跳ねを避けるために自動車も市電軌道の石畳上を走行することが多かったようです。
市電の話が少々長くなってしまいましたが、実は都市インフラの近代化と路面電車の敷設・延伸との間には大変深い繋がりがあるのです。簡単に言うと、電車を通すために橋が強化・近代化され、街路が拡幅される必要が生じるのです。つまり、京都市の交通インフラは、明治大正期から昭和40年代に至るまでの間、市電の延伸によって近代化されたという事です。
そして、それによって京都市街中心地も変わって行くのです。
明治前半までは、京都市街の商業中心は、東海道の起点である三条大橋〜三条烏丸(東南角に大正9年設置の京都市道路元標石柱があります。探してみて下さい)でした。そのため、一部では近代化が早く進み、洋式煉瓦造りの建造物が建ち並んだのです。日本銀行京都支店として建てられた煉瓦造りの建物は、京都文化博物館として今も現役ですね。それ以外にも三条河原町─三条烏丸間には、当時の面影を伝える建造物がいくつも遺っています。しかし、これが逆に仇となった面があります。堅牢な洋風建造物が建ち並んだ三条通りは、拡幅するのが困難になったのです。
一方、古い木造京町家が並んでいた四条通は、建造物の立ち退き取り壊し、拡幅が比較的容易でした。そさらに、予算上の問題や、明治 41年 (1908)に発令された内務省の電気軌道敷設特許命令の定める条件を満たす必要から、市電を通すために拡幅されたのは四条通となったのです。その結果、市内の繁華街中心は次第に四条通へと移ってゆきました。
四条通の拡幅工事は、明治44年(1911)、まず東大路─大宮通間から始まりました。大宮─西大路間の拡幅がそれにつづき、工事がすべて完了したのは昭和に入ってからです。京都市電四条線/四条大宮─祇園石段下間が開通したのは大正元年(1912)のことでした。
明治44年に印刷発行された「本願寺宗祖大師六百五十回忌記念亰都市街地圖」という仰々しいタイトルの大きな地図が手元にあります。実は明治期の京都は、盛んに行われる博覧会や、東西本願寺総本山を中心とした回忌法要、遠忌法要を目的とした十万人単位のインバウンドを迎えることになります。そういった人々を迎える宿などは、お伊勢参りの盛んだった江戸時代後期から本願寺周辺に多く存在しました。地方から来る人はそれぞれの地域で講を結成し、都へとやって来たのです。そのため、そういった人々の出発地と所縁のある宿屋には、たとえば“尾張屋”といったように、その地域の名を冠した屋号のものがありました。
一方で、東海道線などの鉄道が整備されると、行事のたびに訪れる人々の数は、江戸時代とは桁違いに、また急速に増加しました。特に急がれたのは交通インフラの整備です。初めて京都を訪れる人を当て込んで、こうした行事がある年には案内地図も多数版行されたのです。
「本願寺宗祖大師六百五十回忌記念亰都市街地圖」で、四条通東端あたりを拡大して示したのが次の図です。
一見して、他の街路よりも道路幅が拡がっていることがわかります。もちろんこの拡幅工事は市電を通すためのものです。その市電は、この時点では赤い破線で路線がしめされていて、“記號”(凡例)によると「電鉄未成線」となっています。
さて、四条通が明治末に拡幅されたことはわかりましたが、その拡幅にあたっては当然、立ち退きも必要になります。
もちろん、近代化のために立ち退いてくれ、ハイよろしおす、とすんなり話が運んだわけではありません。商店の組合や町内自治会でも当初は賛否両論が入り乱れ、双方の陳情書が市に提出される有様でした。
店に買い物に来る客は歩いて来はる、そやから道幅は狭い方がええ、道を拡げて電車なんか通したらあぶないやないか!と言う意見も出たのです。道が狭いほうが、北や南に並ぶ店での買い物も便利だと言うわけです(同じ理由で現在も道幅を狭いままに続いているのが錦商店街です)。四条通は結局拡幅されるのですが、ここで、今一度、「祇園町」の絵葉書を引っ張ってきて確認して見ることにしましょう。
写真は「祇園町」の一部分を拡大したものです。向かって左側、すなわち南側の八百文から西の位置は、現代まで変わりません。と言うことは、立ち退きは南側では行われなかったという事になります。
実は、向かって右(北)側に並ぶ商店の家並みの裏には東西に延びる道路があるのです。四条通拡幅にあたっては、この旧四条と1本北の街路との間の家並みがすべて立ち退きの対象となったのでした。写真で示すと、北側の電柱から向かって右の家並みが取り壊され、幅3間だった道路が12間(1間≒1.82m)の道路へと生まれ変わるのです。
こうして拡げられた四条通ですが、同時に歩道も整備されている点は注目に値します。道路幅12間にはこの歩道の部分も含みます。歩行者専用歩道の設置は、明治33年(1900)にパリ万博及び欧米諸都市を視察して帰国した大槻滝治京都市助役(当時)の強い意見具申が採り入れられたものです。
さて、次に揚げるのは、これも前に示した「GION KIOTO」絵葉書写真の一部です。よくみて下さい。道幅が拡がりました。どっちに? 北側に、でしたね。北側の家並みが取り壊されて道路になりました。
では、この写真を「(大京都)最も繁華なる・・・」の絵葉書の写真と比べてみて下さい。何か気付きましたか?
狛犬の位置に注目。
「GION KIOTO」で向かって右に見えている狛犬は、丁度当時の四条通の道幅に合わせて佇んでいますね。つまり、北側の家並みに合う位置です。しかし、その家並みが撤去され、道路になってしまったのです。そこで、「(大京都)最も繁華なる・・・」を今一度みて下さい。
あれ?左側の狛犬は写っているけれど、右側にあったはずの狛犬が見えない?
「GION KIOTO」では左の狛犬は写っていませんが、基壇いちばん下の石積みの一部は確認できますね。一体どういうことでしょうか。これについては、石段を正面から撮影した写真で確認する必要がありそうです。
|