図書館長のおもちゃ箱付属図書館長 樋口 穣   

四条通今昔散歩 (第1回)

はじめに

 大学では10月4日から漸く対面授業が再開しました。みなさんと元気に再会でき、キャンパスに活気が戻るのは嬉しいことです。
 思えばこの1年半に亘り、学生みなさんの顔も見ない状態が続きました。今年度入学の1年次生はもちろんですが、2年次生にいたっては、昨年度の入学以来、ほとんど大学に来る機会がなかったことになります。中には、未だに大学の中の様子が把握できていない人も居るのではないでしょうか。
 京都外国語大学・短期大学付属図書館(以下、図書館)は新型コロナ禍吹き荒れる中 “大学アカデミズムの砦” として、職員一丸となって可能な限り利用者サービスの維持・提供につとめてきました。初めての試みであるライブラリ・ツアーのweb動画配信をはじめ、利用方法の説明なども図書館ホームページを活用し、みなさんのもとに届くよう頑張っています。 ところで、緊急事態宣言が数次に亘って出される中、気ままに外出、散歩すらままならない空気が重苦しく日常を覆っています。本学を進学先に選んだ理由の一つに、京都にあるから、を挙げる受験生も多いのですが、冒頭で触れたように、2年次生までのみなさんは、キャンパス内や京都市内の地理的把握さえほとんどできていないのでは無いでしょうか。そんなことを思いつつ1年以上が過ぎてしまいました。そんなある日突然に、一つのアイデアがひらめきました。京都外国語大学・京都外国語短期大学は、京都市内のどの位置に在り、そこはどんな場所なのか、みなさんに知って戴くのはどうだろうかと。実際に動き回るのに不自由な状況下でも、紙面やwebで散策するのは自由です。幸いなことに、私の手元には長年収集してきた、明治末期にはじまる京都の写真絵葉書や古い京都市街地図の膨大な資料があります。こうした資料と本学図書館所蔵資料とを織り交ぜれば、せっかく京都で学ぶみなさんに向けて、何か面白い話を紹介できるのではないか、というわけです。現在の京都市街地の直接の出発点となる明治後半からの街並景観や歴史について、ざっとしたお話ができそうです。「図書館長のおもちゃ箱」などというふざけたタイトルをつけたのも、おもちゃ箱をひっくり返したように、玉石混淆の話題をぶちまけたい、という私の思いを表したものと思って下さい。

四条通を歩き倒す!

 京都市街地の主要部分の起源は、遠く平安京にまで遡るのはご存じでしょう。ほぼ東西南北5kmほどの範囲に収まります。例えば、京都外大から四条大橋まで歩いたとしても大人なら2時間はかかりません(私は1時間弱で到着したことがあります)。実際に歩いてみるとわかりますが、外大正門から西大路通を経て四条大宮までが結構遠く感じ、四条大宮を過ぎると堀川通、烏丸通もあっという間に通り過ぎ、河原町通を横断して、思いのほか早く四条大橋に到着できます。
 四条大橋をさらに東に進むと、祇園御霊会の祭神牛頭天王を祀る八坂神社の西の楼門、そして大きく立派な石段に突き当たって四条通は終点となります。京都市内では直行する二つの通りの名称を合わせて地名とすることが多く、この場所は四条東大路(東大路を歩いてくれば、東大路四条)と言うことになります。しかし、京都の人は祇園石段下あるいは単に石段下と呼慣らわしています。つまり、この八坂神社西楼門の石段が重要なランドマークとなっているわけです。
 このシリーズでは、四条通の東の “どんつき” (突き当たり)を出発点として、京都外大キャンパスあたりまでの四条通を、地理的横軸、歴史的縦軸を介して紹介してゆくことにしました。さらに、図書館報 “GAIDAI BIBLIOTHECA”(以下、BIBLIOTHECA) と連動させた企画となります。紙数の限られるBIBLIOTHECAで紹介できなかった情報・画像もweb上ならじゅうぶんにとりあげることができます。BIBLIOTHECAをご覧になって興味を持った方が、図書館のホームページも見て戴ければありがたいと思います。
 BIBLIOTHECA版の第1回は、八坂神社の正面入口である南の石鳥居と楼門とを紹介しています。現在では東大路に面した門の方が繁華繁忙の四条通に向いているため、西楼門を正面と勘違いする人が多いのですが、およそどの神社でも寺院でも、基本的には南が正面となります。BIBLIOTHECAでは、スペースの都合で、八坂神社正面である南石鳥居と南楼門とが写っている、大正初期の手彩色写真絵葉書を1葉紹介するのがやっとでした。

歴史証人としての写真絵葉書

 手彩色写真絵葉書というのは、白黒写真を焼き付けたり、あるいは印刷したものの上から、一色一色手塗りで色を加えたものです。カラー写真や、カラーオフセット印刷のなかった時代に流行したもので、なんともいえない懐かしさを感じるキッチュな質感に魅了される人も多いようです。そうはいっても元は写真ですから、記録としての信頼度は高いと思います。また、綿密に構図を練り、人物の配置も指示して撮影したと思われるものがある一方で、撮影者の意図しなかったものが偶然写り込んでいたりするのも、時代を証言する視覚情報として大いに面白いところです。
 観光スポットや名所として人気の場所、有名な旧跡、社寺は繰り返し撮影され、絵葉書になります。逆に、特に注目もされず、人気を呼びそうにない場所は撮影されることもありませんでした。どんな場所が、どのような意味で人気があったのか、それを伝えてくれる証人でもあります。しかし、資料としてこれらを活用するためには、撮影された時期の特定が欠かせません。古地図の場合は、古く江戸時代のものであっても板行年が明記されるのが普通で、時代特定は比較的容易ですが、地図に比べると流行を追い、消費される絵葉書のほとんどは版行年紀をもちません。
 ではどうやって時期の特定ができるのか、というと、精確さを求めるなら、写っているものひとつひとつを詳細に確認し、それぞれがなんであるかを特定し、また、景観の変化を手掛かりに究めてゆきます。もっとも、それには時間もかかりますし、1人の研究者の専門分野だけでは到底及ばないケースも出てきます。しかし、有り難いことに大雑把な時期判定に役立つ助っ人がいるのです。その名は、郵便法。例えば、郵便料金が改訂されると貼付される切手の額面が変わります。郵便番号も3桁から5桁、そして7桁へと変わってきました。これらを決めているのが郵便法です。つまり、こうした変化をもたらす郵便法の改定時期が大まかな時期判定の手掛かりになるのです。
 明治から昭和初期までの絵葉書の時代判定の基準になるのは、宛名面です。宛名面上端には「郵便葉書」の印字がありますが、これが時代によって変わります。また、日本で絵葉書が認可された当初は宛名面への文面記入は禁止されていました。ですから、どうしても文章を書きたい場合は、写真の上に書かざるを得ません。

写真が小さくなるのをこらえてそのための余白をとっていたり、明るい空の部分を大きくとって文面スペースとしたりという工夫も見られました。やがて宛名面に仕切り線を入れて文面記入ができるようになります。その面積も、郵便法の時期によって異なります。次にそれらを図にまとめてみました。

 また、昭和20(1945)年からは「きがは便郵」が左書きの「郵便はがき」にかわります。こうした郵便法上の変化は役に立つ手がかりになりますが、それでもそのスパンは短くて6年、長いときには10年以上の幅を持ち、精度の面では依然として絞り込みに欠けます。そうはいっても、画面内のさまざまな景物、風俗分析による時期判定が困難な場合にはひとまず、これに頼るしかありません。
 また、土産や記念として購入される絵はがきには、それが投函された場合には消印が、また、記念としてのスタンプが捺されているものもあり、それによって時期判定ができることがあります。
 次に紹介する写真は、BIBLIOTHECA版で紹介した絵葉書と同じ八坂神社正面を撮影した絵葉書です。美術図案を配したもので、写真がカラーでなかった頃には背景の図案で彩りを添えたものも流行しました。

祇園神社の絵葉書

 この絵葉書には「祇園神社正面」、「武者」のキャプションのついた2つの写真がならび、右下には鉾をかたどった白文「京都」の文字と、その周りに英文でCOMMEMORATION OF “GION-MATSURI” KYOTO, JAPAN★39-7★の文字と祇園會紀念の文字が確認できます。この白紙部分は、あらかじめ記念スタンプのサイズに合わせて用意されたもののようです。
 祇園神社(祇園社)というのは八坂神社本来の呼び名です。主祭神、牛頭天王は祇園精舎の守護神。牛頭人身の姿をした疫神です。その祇園精舎は仏教の聖地です。これが明治元(1868)年の太政官布告(3月27日)「神仏判然令」にひっかかりました。天皇の権威強化のため、神道を半ば国教化しようとした政府方針に基づき、神社であるにも拘わらず仏教聖地の「祇園」を名のる事が問題視され、八坂神社に名称が変更されたのです。写真に見える鳥居の額面の文字も「八坂神社」(右に拡大図を添えました)ですが、キャプションのように、地元では現在にいたるまで両方の呼称が用いられています。少なくとも祇園御霊会を行う人たちにとっては祇園社でないとしっくりきません。それはともかく、この記念スタンプのおかげで、この写真絵葉書の発行時期は明治39年7月の祇園御霊会(ぎおんごりょうえ:先の祇園會も “ぎおんえ” と読みます)の時だったことが判ります。日露戦争終結から、ちょうど1年ほど後のことになります。
 実は記念スタンプや消印スタンプそのものが古物業界で流通することがあります。したがって、消印があるからと言って直ちに100%信頼できるものではありません。つまり、もともと記念スタンプや消印のなかったものに、あとからそれを捺すことも可能だと言うことです。ただ、この絵葉書の場合はその心配はなさそうです。武者姿の人物も、御霊会に関連するものです。

屋根の上の不思議な紅白玉

 さて、下の絵葉書を一見してあれ?と思う人は居ませんか

 「京都祇園町八坂神社」と右書きで印字されていますね。この当時、英訳では神社もTempleと表記されるのはともかくとして、正面に見えるのは確かに八坂神社西楼門、そして石段。
 ということは・・・この写真を撮影した人物は、え?え?・・・四条通から東を向いて撮影したと言うこと・・・?
 そうです。これが今から110年ほど前の四条通の姿です。道路幅は今より狭く、まだ未舗装の地道ですが、ゴミ一つ落ちていません。当時、外国からの観光客たちは日本の街の清潔さに驚いたという記述をしばしばその旅行記に書き残しています。  季節はよくわかりませんが、夏に向かう頃でしょうか。影の様子から、午過ぎ、午後の早い時刻の様子であることもわかります。こちらに向かって歩いてくる人が1人も居ないのと、あまりにも閑散とした雰囲気が印象的です。
 日除けの傘を差し、直射日光を避けるため道路南の陰伝いに歩く人たちが多い中で、道路中央をお母さんに手を引かれて歩く幼児(女児でしょうか)が目を惹きます。こどもは真っ直ぐ石段の方を見ていますが、何が気になっていたんでしょう。
 石段下向かって右の角には、白い夏制服の巡査が立ち番しています。そして、人力車の右、父子二人連れの傘の陰に隠れるように見えているのは四角柱の黒い郵便ポストです。
 鋳造円筒の赤ポストが郵便ポストとして制式化されるのは明治41(1908)年のことです(それ以前にも試験的に赤い円筒ポストを設置した例はありましたが)。この絵葉書の宛名面には下1/3に通信文記入ができるもので、明治40年~大正6年の郵便法の形式を示します。これら二つの条件を満たす時期は、明治40年しかありません。では、この写真の撮影時期を明治40年に特定できるかというとそう単純にはゆかないのです。鉄製鋳造円筒形赤ポストが制式化されても、直ちに全国すべての郵便ポストがそれに代わったというわけでもないからです。その点も考慮した上で、この絵葉書は明治40年、もしくはそれに非常に近い時期の撮影かもしれません。でもまだ断定は禁物です。
眺めれば眺めるほど興味深い図柄です。中央を歩く母娘と、右少し先を歩く父子とはもしかすると家族なのでしょうか?

 また、いろいろな情報がちりばめられています。
 たとえば電柱。そこここに建つ木製電柱を見ると、その腕木のものすごさに驚きます。明治期の電柱は古い時期に遡るほど腕木の数が多くなります。これには以下の理由があります。当時すでに商店などに普及し始めていた電話回線の引き込みに際して、多重通信技術がなかったため、1回線ごとに電話線を引っ張る必要があったためです。細かいことですが、腕木の寡多が撮影時期を探るヒントになることもあるのです。一方、商店の軒先につきでているランタンのような照明器具はガス燈で、まだ電灯への転換は進んでいないようです。明治43年(1910)9月1日に京都瓦斯会社が開業し、ガスの供給(ほとんどは灯火に用いられた)も同年開始しています。ということは、この写真の撮影時期も明治43年前後と言うことになるでしょう。
 ところで、この写真の中に,実は正体がわからず私を悩ませたあるものが写り込んでいるのです。





「オ ワ カ リ イ タ ダ ケ タ だ ろ う か・・・」

 それは、画面左奥、商店屋根の上にみえている・・・。巨大な紅白の球体・・・。
 屋根の上にこれほど目立つように置かれているのですから、何かの看板である事は間違いありません。紅玉ははっきり見え、その後ろに白玉が頭だけチラッと見せています。

 最初私はこれをてっきり福玉だと思い込んでしまいました。
 福玉というのは京都でも祇園の花街特有の縁起物のことです。
 外見はハンドボールほどの大きさの球体で、餅皮で作った赤と白に染めた半球を貼り合わせたものです。モナカの皮と同じようなものだと思って下さい。中は空洞で、中の紙小箱に縁起物などのフィギュアが入っています。花街のお客さんが、馴染みの舞妓さんに年末に贈る、謂わばお年玉のようなものです。舞妓さんは除夜の鐘が鳴り終わるのを待ってこの球を割り、中身を取り出すのです。もちろん、皮も食べられます。本来は12月上旬から販売されるものですが、最近は土産に買う観光客が増え、11月頃から販売している店もあるようです。ただし、これを作る店も後継者不足ですっかり減少し、今は4件ほどが残るだけになってしまいました。さらに、コロナ禍で観光客が減少したため、一時的に(だといいのですが)製造販売を中止した店もあります。大きさは数種類あって、5000~7000円します。
 さて、もしこの看板が季節商品の福玉だとすると、年中掲げているのも妙ですし、12月という時期と写真の風景とがどうもマッチしない違和感を感じていました。私を戸惑わせたのには、もう一葉の絵はがきが関係しています。

 上の写真絵葉書は宛名面の形式から判断すると、ほぼ同じ頃にほぼ同じアングルで撮影されたものです。先に紹介した祇園町の様子とは打って変わって大層な混雑です。店先の御神灯や祭り幕は、御霊会に関連するものでしょうか。時刻は西日の頃ですね。
 この写真では紅白玉は見えません。もっとも、手前に新しい看板か板屋根のようなものができていますから、それに遮られ見えないだけかも知れません。あるいは、紅白玉はその季節だけに掲げられた看板だったのか・・・。そうであれば、紅白玉が福玉をあらわしているとしても矛盾はありません。ところが、しばらくしてその謎はあっけなく氷解しまいました。次の絵葉書をご覧下さい。

 はい、問題の看板がはっきり見えています。なんと、「中将湯」と書いてあるではありませんか。球体ですらなく、円盤です。
 「中将湯」は津村順天堂(現 ツムラ)が創業時から販売し、現在にまでつづくロングセラー婦人薬です。ロゴの様式も、明治期のものとして矛盾はありません。件の物体の正体は、「中将湯」の看板だったのです。
 先の絵葉書では写真撮影時の露光の関係で文字が写らなかったか何かの理由で、彩色の際に紅白に塗り分けることにしたのでしょう。手彩色写真の場合、色合いが実物と同じであるという保証はないのです。そのことを疑ってみるべきでした(上の拡大写真は文字の判読のため画像処理しています)。
 ところで、看板の謎を解いてくれたこちらの白黒写真絵葉書ですが、これにも問題がありました。
この絵葉書宛名面の通信文面積は1/3で、明治40年以降の様式を示しています。ところが、写真には矛盾する事実が写り込んでいるのです。





「オ ワ カ リ イ タ ダ ケ タ だ ろ う か・・・」

 いや、またかいな、もーええわ、と言わずに以下をご覧下さい。
 写真の楼門に向かって右に、東大路通四条に向けて、何かの看板らしきものがあることにお気づきでしょうか。その看板を拡大し、文字が解り易いように画像処理したのが次の写真です。
 看板には「於京都岡崎町會〇(塲?) 第四回全國 製産品博覽会 京都博覽協会」とその会期とが記されています。

 明治の東京遷都で大きな衝撃を受けた京都は、経済基盤の回復と産業振興策としての博覧会の開催に力を入れていました。内国勧業博覧会を始めさまざまな博覧会を、京都主催、あるいは誘致して毎年のように開催していたのです。製産品博覧会もほぼ毎年開催され、第四回が開催されたのは明治38年のことでした。とすると、明治40年に改訂された郵便法よりも以前に撮影された写真をそのまま使い回していることがわかります。
 実は、この葉書は年賀葉書として使われたもので、差出人は京都市富小路松原南入の八勘事網島勘兵衛となっています。八勘はこの住所にあった旅館で、1970年頃までは続いていたと記憶しますが、今は廃業したようです。たまたま昭和5年発行の東京電機株式会社広報誌「マツダ新報」十二月号にその名前を見つけました。ちょっと面白いのでその箇所を紹介しましょう。同誌19ページに始まる「京都電燈會社主催家庭電氣普及會後援 旅館の電氣設備座談會」の冒頭部です。

       参照:http://www.tlt.co.jp/tlt/corporate/company/akari_story/pdf/m19301201000012.pdf(2021.09.14閲覧)

 流石に電気製品の会社だけあって、ちょっとした漢字にも外来語のルビを付けるモダンぶり。この座談会が行われた「レストラント矢尾政」とは、現在、四條大橋西詰南に東華菜館として、建物は当時のままの姿をのこしています(東華菜館についてはいずれ触れることになります)。
 この座談会には旅館側からの出席者も名を連ねています。現在も営業を続けている旅館もあれば、廃業してしまった名前も見えますが、旅館関係者の後から6番目に網島勘兵衛の名が見えます。この広報誌、ほかのページもなかなか興味深い内容と時代の空気に満ちているのですが、ここで細かく紹介することはいたしません。「昭和五年に於ける博覧會展覽會一束」の項では、この会社が「所謂殺人光線」のジオラマ展示をして人々を驚かせたという記事や、当時実験段階であったテレヴィジョンの記事などもあります。関心がおありの方は、ぜひ上のURLにアクセスの上、内容をご確認下さい。ちなみにこのマツダ、マツダランプ、と言えば聞き覚えのある人もいるかも知れません。白熱電球を主として、電気・電子部品(真空管)やラジオなどを作っていた会社です(後東芝に吸収)。発祥はアメリカで、MAZDAというタングステン白熱電球のトップメーカーでした。そのライセンスを東京電氣が購入し、MAZDAブランドで日本での部品生産を行っていたのです。MAZDAと言う表記は自動車のマツダと同じですが偶々両社ともにゾロアスター教最強の神、Ahura Mazdāにちなんだということで、全く別の会社です。
 さて、ついでですからこの絵葉書の宛名面の図版もご覧戴きましょう。

 「謹賀新年併祝貴家萬福」に始まる文言以下、電話番号に至るまでの文面は、年始の葉書に何年も使い回していたようで、ただ朱文印のみが年によって違う程度です。なお、私は所有していませんが、旅館の写真を使ったものもあり、専属の人力車が常時4台ほど待機していたようです。なぜこの年に祇園町の写真を選んだのかはわかりませんが、古い写真のものを、もしかすると安く仕入れて利用したようですね。
 切手を見ると、消印スタンプがあり、年と日付がわかります。後印ではないようです。年記がちょっとかすれていて最初は11だと見えたのは拡大して確認すると41で、明治41年を指します。これによって葉書の差し出しは明治41年1月1日だったことがわかります。 そうなると、これまで挙げた3葉の絵葉書のうち、この1葉が一番古いと言うことになります。
 あの紅白玉になってしまった中将湯の看板ももしかすると数年の雨風で文字が消えてしまっていたのかも知れません。それを彩色するときに、一葉一葉ロゴを書き起こすのも手間ですから、「えいっ、紅白に塗ってしまえ!」とでもなったのでしょう。

 いかがでしたか?古い写真絵葉書1葉でも、いろいろな物語ができそうでしょう。WebにUPした写真は各自で拡大してご覧になれると思います。じっくり見て行けば、まだまだいろいろな発見があるかも知れませんよ。次回も石段下界隈を “ヴァーチャルうろうろ” する予定です。

オマケ 「中将湯」看板の「京都八坂神社」絵葉書の部分です。中央付近にこちらに向かってくる2台の人力車が見えます。前と後の車夫の出で立ちが面白い。前の車夫は伝統的な姿。後の車夫は珍しく洋装です。また、前方に坐乗するのはご婦人で、後は殿方。この時代でこの順序というのは面白いですね。車には幌も装備されているのにそれは使わず傘を開いて日除けにしています。また、2台の人力車の右に三人のこどもがいるのも確認できます。石段の方に向かって歩くこどもの左は女の子。その右に男の子、そして、男の子はもっと小さい子を手押し車に乗せて押しています。車にはどうやら日除けのような物も付いているようです。三人は兄と妹弟でしょうか。脚のブレ方は車夫のそれよりも激しいので、早足で先を急いでいるように見えます。一葉の葉書でも、じっと眺めて居るといろいろと興味が尽きません。

 以下に、本学および本学図書館所蔵の参考文献をいくつか挙げておきます。


[論文]
1. 樋口 穣「古都の変貌─景観変化の解読への古写真絵葉書の応用に関する研究序章」京都外国語大学COSMICA, 2010.1

2. 樋口 穣「古都の変貌─写真絵葉書「京都堀川」─古写真から見る景観変化の解読に関する研究:名どころから名所へ─」
  京都外国語大学COSMICA, 2012.1

[書籍]
1. 日本アートセンター編『京都の大路小路』小学館,2003.7

2. 生田誠監修『明治の京都てのひら逍遙』便利堂, 2013.4.←私も執筆に加わっています。・・樋口「明治の京名所」

3. 朴 美貞、長谷川怜偏『日本帝国の表象』えにし書房 , 2016.11←私も執筆に加わっています。・・樋口「写真絵葉書は
  『京名所』をどうとらえたか」

4. 学習院大学資料館編『絵葉書で読み解く大正時代』彩流社 , 2012.12

5. ロム・インターナショナル編『京都を古地図で歩く本』KAWADE夢文庫, 河出書房新社, 2015.9

6. 岩上力, 岩村亮著;らくたび編『京都 : 四条通、西陣、東山京の街中を歩く』ダイヤモンド社, 2009.3


ほかにもまだまだ沢山あります。順次紹介して行く予定です。

ではまた!