さて、下の絵葉書を一見してあれ?と思う人は居ませんか
「京都祇園町八坂神社」と右書きで印字されていますね。この当時、英訳では神社もTempleと表記されるのはともかくとして、正面に見えるのは確かに八坂神社西楼門、そして石段。
ということは・・・この写真を撮影した人物は、え?え?・・・四条通から東を向いて撮影したと言うこと・・・?
そうです。これが今から110年ほど前の四条通の姿です。道路幅は今より狭く、まだ未舗装の地道ですが、ゴミ一つ落ちていません。当時、外国からの観光客たちは日本の街の清潔さに驚いたという記述をしばしばその旅行記に書き残しています。
季節はよくわかりませんが、夏に向かう頃でしょうか。影の様子から、午過ぎ、午後の早い時刻の様子であることもわかります。こちらに向かって歩いてくる人が1人も居ないのと、あまりにも閑散とした雰囲気が印象的です。
日除けの傘を差し、直射日光を避けるため道路南の陰伝いに歩く人たちが多い中で、道路中央をお母さんに手を引かれて歩く幼児(女児でしょうか)が目を惹きます。こどもは真っ直ぐ石段の方を見ていますが、何が気になっていたんでしょう。
石段下向かって右の角には、白い夏制服の巡査が立ち番しています。そして、人力車の右、父子二人連れの傘の陰に隠れるように見えているのは四角柱の黒い郵便ポストです。
鋳造円筒の赤ポストが郵便ポストとして制式化されるのは明治41(1908)年のことです(それ以前にも試験的に赤い円筒ポストを設置した例はありましたが)。この絵葉書の宛名面には下1/3に通信文記入ができるもので、明治40年~大正6年の郵便法の形式を示します。これら二つの条件を満たす時期は、明治40年しかありません。では、この写真の撮影時期を明治40年に特定できるかというとそう単純にはゆかないのです。鉄製鋳造円筒形赤ポストが制式化されても、直ちに全国すべての郵便ポストがそれに代わったというわけでもないからです。その点も考慮した上で、この絵葉書は明治40年、もしくはそれに非常に近い時期の撮影かもしれません。でもまだ断定は禁物です。
眺めれば眺めるほど興味深い図柄です。中央を歩く母娘と、右少し先を歩く父子とはもしかすると家族なのでしょうか?
また、いろいろな情報がちりばめられています。
たとえば電柱。そこここに建つ木製電柱を見ると、その腕木のものすごさに驚きます。明治期の電柱は古い時期に遡るほど腕木の数が多くなります。これには以下の理由があります。当時すでに商店などに普及し始めていた電話回線の引き込みに際して、多重通信技術がなかったため、1回線ごとに電話線を引っ張る必要があったためです。細かいことですが、腕木の寡多が撮影時期を探るヒントになることもあるのです。一方、商店の軒先につきでているランタンのような照明器具はガス燈で、まだ電灯への転換は進んでいないようです。明治43年(1910)9月1日に京都瓦斯会社が開業し、ガスの供給(ほとんどは灯火に用いられた)も同年開始しています。ということは、この写真の撮影時期も明治43年前後と言うことになるでしょう。
ところで、この写真の中に,実は正体がわからず私を悩ませたあるものが写り込んでいるのです。
「オ ワ カ リ イ タ ダ ケ タ だ ろ う か・・・」
それは、画面左奥、商店屋根の上にみえている・・・。巨大な紅白の球体・・・。
屋根の上にこれほど目立つように置かれているのですから、何かの看板である事は間違いありません。紅玉ははっきり見え、その後ろに白玉が頭だけチラッと見せています。
最初私はこれをてっきり福玉だと思い込んでしまいました。
福玉というのは京都でも祇園の花街特有の縁起物のことです。
外見はハンドボールほどの大きさの球体で、餅皮で作った赤と白に染めた半球を貼り合わせたものです。モナカの皮と同じようなものだと思って下さい。中は空洞で、中の紙小箱に縁起物などのフィギュアが入っています。花街のお客さんが、馴染みの舞妓さんに年末に贈る、謂わばお年玉のようなものです。舞妓さんは除夜の鐘が鳴り終わるのを待ってこの球を割り、中身を取り出すのです。もちろん、皮も食べられます。本来は12月上旬から販売されるものですが、最近は土産に買う観光客が増え、11月頃から販売している店もあるようです。ただし、これを作る店も後継者不足ですっかり減少し、今は4件ほどが残るだけになってしまいました。さらに、コロナ禍で観光客が減少したため、一時的に(だといいのですが)製造販売を中止した店もあります。大きさは数種類あって、5000~7000円します。
さて、もしこの看板が季節商品の福玉だとすると、年中掲げているのも妙ですし、12月という時期と写真の風景とがどうもマッチしない違和感を感じていました。私を戸惑わせたのには、もう一葉の絵はがきが関係しています。
上の写真絵葉書は宛名面の形式から判断すると、ほぼ同じ頃にほぼ同じアングルで撮影されたものです。先に紹介した祇園町の様子とは打って変わって大層な混雑です。店先の御神灯や祭り幕は、御霊会に関連するものでしょうか。時刻は西日の頃ですね。
この写真では紅白玉は見えません。もっとも、手前に新しい看板か板屋根のようなものができていますから、それに遮られ見えないだけかも知れません。あるいは、紅白玉はその季節だけに掲げられた看板だったのか・・・。そうであれば、紅白玉が福玉をあらわしているとしても矛盾はありません。ところが、しばらくしてその謎はあっけなく氷解しまいました。次の絵葉書をご覧下さい。
はい、問題の看板がはっきり見えています。なんと、「中将湯」と書いてあるではありませんか。球体ですらなく、円盤です。
「中将湯」は津村順天堂(現 ツムラ)が創業時から販売し、現在にまでつづくロングセラー婦人薬です。ロゴの様式も、明治期のものとして矛盾はありません。件の物体の正体は、「中将湯」の看板だったのです。
先の絵葉書では写真撮影時の露光の関係で文字が写らなかったか何かの理由で、彩色の際に紅白に塗り分けることにしたのでしょう。手彩色写真の場合、色合いが実物と同じであるという保証はないのです。そのことを疑ってみるべきでした(上の拡大写真は文字の判読のため画像処理しています)。
ところで、看板の謎を解いてくれたこちらの白黒写真絵葉書ですが、これにも問題がありました。
この絵葉書宛名面の通信文面積は1/3で、明治40年以降の様式を示しています。ところが、写真には矛盾する事実が写り込んでいるのです。
「オ ワ カ リ イ タ ダ ケ タ だ ろ う か・・・」
いや、またかいな、もーええわ、と言わずに以下をご覧下さい。
写真の楼門に向かって右に、東大路通四条に向けて、何かの看板らしきものがあることにお気づきでしょうか。その看板を拡大し、文字が解り易いように画像処理したのが次の写真です。
看板には「於京都岡崎町會〇(塲?) 第四回全國 製産品博覽会 京都博覽協会」とその会期とが記されています。
明治の東京遷都で大きな衝撃を受けた京都は、経済基盤の回復と産業振興策としての博覧会の開催に力を入れていました。内国勧業博覧会を始めさまざまな博覧会を、京都主催、あるいは誘致して毎年のように開催していたのです。製産品博覧会もほぼ毎年開催され、第四回が開催されたのは明治38年のことでした。とすると、明治40年に改訂された郵便法よりも以前に撮影された写真をそのまま使い回していることがわかります。
実は、この葉書は年賀葉書として使われたもので、差出人は京都市富小路松原南入の八勘事網島勘兵衛となっています。八勘はこの住所にあった旅館で、1970年頃までは続いていたと記憶しますが、今は廃業したようです。たまたま昭和5年発行の東京電機株式会社広報誌「マツダ新報」十二月号にその名前を見つけました。ちょっと面白いのでその箇所を紹介しましょう。同誌19ページに始まる「京都電燈會社主催家庭電氣普及會後援 旅館の電氣設備座談會」の冒頭部です。
参照:http://www.tlt.co.jp/tlt/corporate/company/akari_story/pdf/m19301201000012.pdf(2021.09.14閲覧)
流石に電気製品の会社だけあって、ちょっとした漢字にも外来語のルビを付けるモダンぶり。この座談会が行われた「レストラント矢尾政」とは、現在、四條大橋西詰南に東華菜館として、建物は当時のままの姿をのこしています(東華菜館についてはいずれ触れることになります)。
この座談会には旅館側からの出席者も名を連ねています。現在も営業を続けている旅館もあれば、廃業してしまった名前も見えますが、旅館関係者の後から6番目に網島勘兵衛の名が見えます。この広報誌、ほかのページもなかなか興味深い内容と時代の空気に満ちているのですが、ここで細かく紹介することはいたしません。「昭和五年に於ける博覧會展覽會一束」の項では、この会社が「所謂殺人光線」のジオラマ展示をして人々を驚かせたという記事や、当時実験段階であったテレヴィジョンの記事などもあります。関心がおありの方は、ぜひ上のURLにアクセスの上、内容をご確認下さい。ちなみにこのマツダ、マツダランプ、と言えば聞き覚えのある人もいるかも知れません。白熱電球を主として、電気・電子部品(真空管)やラジオなどを作っていた会社です(後東芝に吸収)。発祥はアメリカで、MAZDAというタングステン白熱電球のトップメーカーでした。そのライセンスを東京電氣が購入し、MAZDAブランドで日本での部品生産を行っていたのです。MAZDAと言う表記は自動車のマツダと同じですが偶々両社ともにゾロアスター教最強の神、Ahura Mazdāにちなんだということで、全く別の会社です。
さて、ついでですからこの絵葉書の宛名面の図版もご覧戴きましょう。
「謹賀新年併祝貴家萬福」に始まる文言以下、電話番号に至るまでの文面は、年始の葉書に何年も使い回していたようで、ただ朱文印のみが年によって違う程度です。なお、私は所有していませんが、旅館の写真を使ったものもあり、専属の人力車が常時4台ほど待機していたようです。なぜこの年に祇園町の写真を選んだのかはわかりませんが、古い写真のものを、もしかすると安く仕入れて利用したようですね。
切手を見ると、消印スタンプがあり、年と日付がわかります。後印ではないようです。年記がちょっとかすれていて最初は11だと見えたのは拡大して確認すると41で、明治41年を指します。これによって葉書の差し出しは明治41年1月1日だったことがわかります。
そうなると、これまで挙げた3葉の絵葉書のうち、この1葉が一番古いと言うことになります。
あの紅白玉になってしまった中将湯の看板ももしかすると数年の雨風で文字が消えてしまっていたのかも知れません。それを彩色するときに、一葉一葉ロゴを書き起こすのも手間ですから、「えいっ、紅白に塗ってしまえ!」とでもなったのでしょう。
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