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89大西洋システムにおけるブラジル開発の空間概念に関する歴史的考察要塞は悲惨な状態に陥った。こうした困難な状況下にあるアマゾン地方を本国の重商主義実現に向けて効果的に開発するため、ポンバル侯は、一七五一年九月に主都をサンルイスからベレンに移し、次いで、一七五五年には、労働力不足解消を目指して先住民女との結婚法(四月四日)と先住民解放令(六月七日)を命じ、またアマゾン奥地の統治を進める目的で、サンジョゼドリオネグロ・カピタニアを創設した。ポンバル侯改革によるアマゾン開発実施にあたっての枠組みが出来上がった(住田 一九八四、七三頁)。一七五五年六月七日に設立されたグラン・パラ・マラニャン特許会社はポンバル特許会社(Companhia Pombalina)とも呼ばれるが、この独占的活動地域は、アフリカ西岸のカシェウ(Cacheu)、ビサウ(Bissau)、アンゴラ(Angola)、カーボ・ヴェルデ諸島(Ilhas de Cabo Verde)からアマゾン地方のグラン・パラ・マラニャン(Grão Para e Maranhão)、さらにギニア(Guiné)に及び、この広大な地域の防衛は会社自らが行わなければならなかった(Dias 1970:85-120)。河川航行に際して、より容易に、より安全に、より安価に商品や建設資材などを運ぶために、アマゾン地方奥地、ネグロ川、ブランコ川、ジャヴァリ川、本流のアマゾン川において、図3のように信頼できる営所や要塞、砦を築く必要があった(住田 一九八四、七五頁)。アマゾン奥地のネグロ川上流では、コシキアリ(Cossiquiari)やオリノコ(Orinoco)に隠れているスペイン人への防衛が必要とされ、一七六一年五月二十二日、メンドンサ・フルタードの後任のマヌエル・ベルナルド・デ・メーロ・イ・カストロ(Manuel Bernardo de Melo e Castro)は S・ガブリエル(S. Gabriel)島に要塞(casa forte)の建設を命じ、翌一七六二年十二月には、S・ガブリエル・ダ・カショエイラ(S. Gabriel da Cachoeira)とS・ジョゼ・デ・マラビターナス(S. José de Marabitanas)の二つの要塞(fortaleza)がすでに防備の態勢にあり、このお蔭で、スペインのカルロス三世の領土的野望の広がる地域でのポルトガルの主権を併合しえたのである。S・ガブリエル・ダ・カショエイラについては、石造要塞の建設が一七六三年一月にポルトガル政府によって開始された。ブランコ川における防備を、スペイン、オランダ、英国と競うことは、メンドンサ・フルタード総督時代に始まり、一七五二年以降、軍事用砦(baluarte militar)がブランコ河岸を固め、一七七五年には、同植民地(管轄区)総督ジョアン・ペレイラ・カルダス(João Pereira Caldas)が石造要塞の建設を命じ、S・ジョアキン(S. Joaquim)要塞が据えられた。アマゾン地方最西端のナポ川での境界画定のため、ジャヴァリ川の防備が進められた。まず、S・ジョゼ・ド・ジャヴァリ(S. José do Javari)が一七五九年にヴィラに昇格し、一七六六年にはジョアン・ペレイラ・カルダス総督のもとでタパティンガ(Tabatinga)砦(forte)の建設が始まって、一七六八年にはタバティングがポルトガルにより占有された。大西洋岸の防衛、すなわち ベレン湾とアマゾン河口については、サント・アントニオ・デ・グルパ(Santo António de Gurupá)、S・ジョゼ・デ・マカパ(S. José de Macapá)、ベレン(Belém)の三都市が軍隊で守られていた。このうち、サント・アントニオ・デ・グルパ砦は、一七六〇年に、マヌエル・ベルナンド・デ・メーロ・イ・カストロにより再構築され、オビドス(Óbidos)やサンタレン(Santarém)の砦とともに、アマゾン川における不正な航行を防止し、さらにシング―川入口も防御するものであった。マラジョ島上方のアマゾン川左岸に位置するS・ジョゼ・デ・マカパ要塞は、ポルトガル人がカルアル(Cauraú)砦の残骸のうえにサント・アントニオ・デ・マカパ(Santo António de Macapá 要塞を構築したことに始まり、フランス領ギアナ(Guiana)への防御の点でパラの歴代総督(Capitão General)から重視され、こうした経緯からサン・ジョゼ・デ・マカパ(São José de Macapá)のヴィラが一七六四年に誕生した。この年に総督マヌエル・ベルナルド・デ・(9)(8)

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