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86一四九四年七月七日スペインとポルトガル両王国の間で調印されたトルデシーリャス条約の分割線(図1 一五七四年制作)によって、この線の東側の空間がポルトガルに属することになった。一五〇〇年にポルトガル王国によってブラジル発見が正式に宣言され、一五三四年には世襲制のカピタニア(Capitania)に分割された。そこに入植し経済開発できるよう財政および人的資源とともに国王によってこの空間はポルトガルの貴族に与えられた。カピタニアのうち主に北東部のいくつもが、ヨーロッパで商業的価値の高かったサトウキビの栽培地となった。一五三九年、ペルナンブーコのカピタニアを付与されたドナタリオは、輸出向けの砂糖生産の拡大のため、すでに所有していた先住民(índio)の奴隷の他に、アフリカの黒人奴隷を入手するための許可を国王に求めた。黒人奴隷制度に基づく熱帯農業の開発が「面」として始まったのである。ブラジル領土の実効占有の開始を歴史家J.H.ロドリゲスは次のように説明している。「ブラジルはあまりに急激に開拓され急速に拡大したので、奥地の大部分において入植が不十分であった。それゆえ、古い入植地域に人口分布の不均衡がみられ、奥地住民の文化的遅れと、国土全体に及ぶ低い経済水準が結果として生じた。アングロ・サクソン系入植者が一七七六年の時点ではなおフランスよりも小さな領土しか占有せず、一八三〇年以降の数十年間に西部への大量移住によって国全体を有するに至った北米合衆国の場合とは逆に、十七世紀のブラジルにおいて領土的浸透は、人数を制限された小集団によって行われ、本格的な入植を実現できなかった。」(ロドリゲス 一九八二、九六頁)さらに、ロドリゲスはドイツの歴史家ハインリッヒ・ハンデルマンの観察を利用して以下のように続けている。「ブラジルにおいては入植集団の大部分が先導者の流れへと分散し、その各々が急速な前進によって大成功を遂げた。しかし、当時彼らは、後衛とのいかなる定期的な連絡をも持たない孤立した前進基地として留まることを義務づけられ、遠い将来に住民数の増加によってのみ実現を期待できる援助を待ち望むだけであった。」(ロドリゲス 一九八二、九六頁)植民地であったブラジルは、十七世紀以降、本国ポルトガルに関わる大きな転換期を迎えた。まず第一には、ポルトガルの一五八〇年から一六四〇年までのスペイン併合である。これによって、新世界のスペイン領とポルトガル領の境界線が曖昧となり、ポルトガル人入植者はトルデシーリャスの境界線を越えて西方に向けて内陸部深く開発を進めることができた。世界における展開では、アジアの支配を失ったポルトガルが、植民地ブラジルに力を入れるようになり、開発に拍車がかけられた。やがて、再独立以後の十八世紀にミナスジェライスにお(4)図1  トルデシーリャス条約分割線東側のブラジル

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