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79サンパウロ州への国内移住者の導入が規定された。首都に設置されたリオデジャネイロ事務所は、連邦政府と密に連携することをその目的とした。移住労働者監督署は、一九四〇年七月三十一日付サンパウロ州法一一二八〇―A号六四条により、その業務が取り決められた。それは、移民ならびに農業労働者の利益や権利に関わる連邦法ならびに州法の執行の補助であり、導入されるべき農業労働者の適正数の見積もり、国内労働者の選抜・輸送の監督、移民ならびに国内労働者の導入、受入れ、宿泊、就職までのあらゆる過程への関与、就職に際して公共職業安定所との協力、州および連邦の移民に関するすべての業務への関与ならびに業務を委任された部署と協力することであった。移住労働者監督署の設置ならびに各州における公共職業安定所の設置の取り決めにより、それまで移住労働者の募集から移動、導入、配置に至るまで誘致のあらゆる局面に関与した民間業者が排除され、それらの業務を連邦ならびに州が連携して行うことになった。サンパウロ州の移住労働者監督署は、州境を越えてミナス・ジェライス州奥地のピラポラとモンテス・クラロスに派出所を設置し、移住労働者の登録、移動の手配、宿泊所や食事の提供などの業務を直接行うようになった。同地には連邦政府の移民・入植庁の職員が駐在し、連邦政府の負担で検診や予防接種を行った。すべての手続きが完了した移住労働者は、ブラジル中央鉄道でサンパウロ市へと向かった(Tessari & Costa 2017:19-20)。まとめ十九世紀半ばからサンパウロ州で生産されるコーヒーはブラジルの主要な輸出品になった。サンパウロ州のエリートは、コーヒーがもたらす圧倒的な経済力を背景に、隣州のミナス・ジェライス州と結束し、共和制移行後の政治権力の中枢を占めるようになった。サンパウロ州は、奴隷制後の労働力を外国人移民に依存し、同州にはヨーロッパ人を中心とする大量の外国人が流入した。一九二〇年代になるとコーヒーの輸出に陰りが見え始め、軍の青年将校たちは、サンパウロ州のエリートが権力の座をほしいままにする硬直的な国家体制ならびに地方ボスが権力を握る旧態依然とした地方の体制に対し、大々的に反発を表明するようになった。一九三〇年には軍部とリオ・グランデ・ド・スル州が中心となってクーデターを決行し、ジェトゥリオ・ヴァルガスが臨時大統領になった。一九三〇年の世界恐慌後の不況に、ヴァルガスは、反外国人ならびに社会有機体説に基づいた国内労働者重視の方針を打ち出した。一九三二年、サンパウロ州は連邦政府に反発し、武装蜂起するが政府軍に鎮圧された。しかしながら、その後に連邦政府が示した譲歩とそれに続く一九三四年憲法の下で、サンパウロ州は農業の多様化と工業化による経済発展で突出するようになり、不足する労働力を主として北東部からの国内移民によって補うようになった。ブラジルの労働者および一般大衆をその権力基盤とするヴァルガスにとって、サンパウロ州が民間業者に委託して、ほしいままに行う国内労働者の誘致は看過できないものであった。一九三七年、ヴァルガスは、クーデターにより独裁政権を樹立、再び中央集権化を図った。労働者の国内移住の主導権を連邦政府の手に戻すべく連邦命令を発し、各州に従わせようとした。ついにサンパウロ州も連邦政府と歩調を合わせるようになり、この後、経済および労働政策における両者の協働が見られるようになった。サンパウロ州への国内移民は、表3のとおり、一九五〇年代の大旱魃が発生した時期にピークを迎えた。移住の流れがいったん確立すると、そこでは移住者と出身地の間の人的ネットワークが生まれ、移住に対する心理的な障壁を低くなる。その移住の流れに、州ならびに連邦政府の制御は及ばなくなった。(21)(22)

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