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76桁にぶら下がった。乗客たちのその姿から、そのトラックは「オウムの止まり木」として知られるようになった。移住者たちは、ブローカーが手配するトラックの出発地まで徒歩で移動し、そのトラックに詰め込まれ、数日かけて目的地まで運ばれた。3 労働政策におけるサンパウロ州と連邦政府の協働3・1 護憲革命一九三〇年革命の後、サンパウロ州は、臨時執政官の任命をめぐり、ヴァルガス政権と対立を深めた。サンパウロ州のエリートは、独裁体制が継続することに対し異議を唱え、憲法制定会議の開催を要求した。立憲主義と州の自治を求めた彼らの主張はラジオで宣伝され、州民に膾炙し、臨時政府への批判の声が高まった。ヴァルガス政権に対抗するため、サンパウロ共和党は、一九三〇年革命ではクーデター側に与したサンパウロ民主党と手を結び、「統一戦線」を結成した。政府への不満が他州でも表明されるのを察知したサンパウロ州の反政府グループは、一九三二年七月、武装蜂起した。この行動はその大義から「護憲革命」と呼ばれた。州兵ならびに志願兵が戦闘に参加した。サンパウロのコーヒー農園主だけでなく、新興ブルジョアジーや一般市民もこの革命を積極的に支援した。圧倒的な戦力を有する政府軍に対し、サンパウロ軍は果敢に戦い、三か月もの間戦闘は継続した。しかしながらサントス港が封鎖され、武器の調達が途切れると、サンパウロ軍は降伏した。臨時政府は勝利は収めたものの、武装蜂起という強硬な反発を受けて、妥協を模索せざるを得なくなった。臨時政府は憲法制定議会のための議員選挙の実施を約束した。選挙では、サンパウロを始めとする地方のオリガルキーが、組織の強固な地盤を生かし、勝利を収めていった。一九三四年、新憲法が公布され、ヴァルガスは大統領に選出されたが、サンパウロ州はヴァルガス政権にとって無視できない存在として改めて認識された。3・2 サンパウロ州の経済発展▼コーヒーの保護政策の継続と農業の多様化世界恐慌はブラジルの輸出入に大きな影響を及ぼした。一九二九年と一九三二年のブラジルの貿易額を比較すると、恐慌前の輸出が四億四千六百万ドル、輸入が四億一千七百万ドルであったのに対し、恐慌後は輸出が一億八千百万ドル、輸入が一億八百万ドルに激減した(Saunders 1971:167)。コーヒーがブラジルの輸出のほとんどを占める時代は過ぎ去りはしたが、一九三一年からの十年間でもコーヒーはブラジルの輸出全体の五〇パーセントを占めており、その重要性に変わりがなかった(Saunders 1971:196)。一九三一年四月にはサンパウロ、ミナス・ジェライス、リオデジャネイロ、エスピリト・サント、パラナ州が協定を締結し、輸出税の徴収に加え、海外での新たな市場を開拓するための機関である「コーヒー生産州評議会」の設立を決めた。同年十二月には各州に設置されていたコーヒー院が、「国立コーヒー評議会」として統合され、コーヒー政策は連邦政府がその主導権を握ることとなった。新規植え付けへの課税、過剰生産の買付分への課税のほか、余剰の滞貨の廃棄を決定した。コーヒーの生産過剰を受けて、農業の多様化が図られ、綿花や穀物などの生産や牧畜も行われるようになった。とくにサンパウロ北部から東部にかけて、様々な地域で綿花の生産が急速に広まった。一九三八年には綿花の作付けは五十万ヘクタールに達し、一九三九年にはブラジルの輸出の三〇パーセントを

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