75サンパウロ州への国内移住者の導入▼制度的要因北東部の大土地所有制は、十六世紀から一八二〇年代まで行われたセズマリアと呼ばれる公有地の無償譲渡にその起源をもつ。平均的なセズマリアは四平方レグア(約一万四千ヘクタール)にも及んだ(斎藤・松本・矢ケ崎 一九九九、七二頁)。同地に持ち込まれたサトウキビ栽培は、とりわけペルナンブコとバイアなどのゾナ・ダ・マタで成功を収めた。気候だけでなく、用水の利便性やマサペと呼ばれる粘土状の土壌もサトウキビの栽培に適していた。大量のアフリカ人奴隷を使用し、十六世紀後半から十七世紀に砂糖生産は最盛期を迎えた。そして一八九〇年代になると伝統的な砂糖産業に変化が生じた。圧搾に蒸気機関を用いる大規模な製糖工場が作られ、近隣のサトウキビ農園を買収し、規模を拡大していった。かつてサトウキビ農園に見られた農場主の大邸宅と奴隷小屋が対比をなす光景は姿を消した。工場のオーナーは他所に住み、労働は奴隷に代わってモラドルと呼ばれる住み込みの労働者が行うようになった。モラドルは農地の一部に土地を借り受け、自給用の作物も栽培した。一方、アグレステやセルタンでは広大な牧場が作られ、不在地主に代わってヴァケイロと呼ばれる牧童やモラドルが牧場の管理を行った。セルタンでは小規模ながら自作農も存在した。モラドルなどの賃金労働者のほか借地農や分益小作農もいた。彼らのほとんどが非識字者であり、大規模農場の出現などで土地の囲い込みが進行する中、土地登記や雇用契約などで自己防衛できず、放逐されて離農する者も多かった。一方、土地に縛られず、短期間の季節労働を求めて移動する労働者も存在した。彼らはボイア・フリア(「冷や飯食い」)と呼ばれる日雇い労働者であり、海岸部でのサトウキビやカカオの収穫や加工などの労働を行った。彼らの多くはブローカーによって集められ、アグロヴィラやファヴェーラと呼ばれる簡易宿舎に居住し、一定期間就労した後、他所へ移動した。頻発する旱魃に対して自身の土地に縛られず、移動を繰り返し、雨が降ると故郷に戻るというライフスタイルも存在していた。▼「オウムの止まり木」旱魃により生じた難民は、セルタンから都市部へ向かった。時に数百キロメートルにも及ぶ長い道のりを徒歩や鉄道で移動した。一九〇三年から一九〇四年にかけて発生した旱魃では、リオ・グランデ・ド・ノルテ州都ナタルに難民が大挙して押し寄せた。一九〇〇年当時、一万六〇五六人の人口を擁していた州都に、一九〇四年六月までに到来した難民はおよそ一万五千人に達したとされる(丸山 二〇〇〇、一六三頁)。アマゾニアは、十九世紀末からゴム景気に沸き立ち、生ゴムの採取のために他州から多くの労働者を受け入れたものの、一九二〇年にはそのブームも終わった。一八七七年の大旱魃からサンパウロへ逃避した北東部出身者の記録はあるが、サンパウロへ州への移住は一九三〇年代になるまで本格化しなかった。輸送のためのインフラが未整備だったことや、人的ネットワークが未発達で、見知らぬ地への移動に心理的な障壁が大きかったためだと考えられる。他方、サンパウロ州の事業者も一九二〇年代までヨーロッパ人移民の労働力を十分に利用できたため、国内労働者に依存しようとしなかった。一九三〇年代半ば以後、サンパウロ州に流入した国内移民の多くが北東部出身者であり、ほとんどが農場で就労した。農業に従事する移民の四分の三は家族での移民であり、一九三五年から一九三九年の一世帯あたりの平均は五・四人で、一九四〇年ではその四分の一が十二歳以下であった。移民の性別は男性が大多数であり、黒人やムラートなどの有色人が多く、その七、八割が非識字者であった(丸山 二〇〇〇、一七八―一七九頁)。移動は、以前はほとんどの行程が徒歩と鉄道で行われたが、自動車が整備されると乗り合いトラックがその主流になった。トラックの荷台の上に幌が取り付けられ、荷台にはベンチが詰め込まれた。幌の下には端から端へと何本かの横桁が走っており、乗客は振り落とされないように手すり代わりにその横(12)
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