74が占めるようになった(Paiva & Moura 2008:48)。国内移民の中でも、一九三〇年代の半ばまで数が多かったのが、隣州のミナス・ジェライス州からサンパウロ州への移民であった。十八世紀のゴールドラッシュで繁栄したミナス・ジェライス州は、人口も多く、かつては奴隷を多数擁していた。奴隷解放後も奴隷の子孫を中心に多くの労働者が居住していたため、そのような労働者が国内移民の多くを占めたものと考えられる。しかしながら、表3のとおり、その後のサンパウロ州への国内移民は、一貫して北東部の出身者がその大半(七三・一パーセント)を占めた。北東部諸州の中で数が多かったのはバイア州出身者で、全体の三分の一以上(三五・七パーセント)を占め、ペルナンブコ州(一二・七パーセント)、アラゴアス州(一一・一パーセント)、セアラ州(六・四パーセント)、セルジペ州(三・九パーセント)パライバ州(一・六パーセント)、ピアウイ州(一・一パーセント)、リオ・グランデ・ド・ノルテ州(〇・六パーセント)がそれに続いた(Paiva & Moura 2008:86-87)。2・4 北東部からの移民▼地理的要因北東部は、北からマラニャン州、ピアウイ州、セアラ州、リオ・グランデ・ド・ノルテ州、パライバ州、ペルナンブコ州、アラゴアス州、セルジペ州、バイア州の九州から成る西経四一度以東でサン・フランシスコ川以北の地である。核心部分は南緯三〜十度の地であり、全域が熱帯で、湿潤から半乾燥地帯に亘る。もっとも雨が多いのが東部の大西洋沿岸部で、西から北西の内陸に向かうにつれて急激に乾燥していく。沿岸部はゾナ・ダ・マタ(「森林地帯」の意)と呼ばれ、湿潤であり熱帯季節林地域に対応する。内陸の広い範囲を占める半乾燥地帯がセルタン(「奥地」の意)で、砂漠になるほどの乾燥地帯ではないが、年ごとに降雨量の変化が大きい。セルタンにはカーチンガと呼ばれる有刺低木が散在する。北東部一帯は開発の歴史が古いことから多くの人口を擁しており、降雨量が少ない年にはしばしば深刻な旱魃が発生し、数多くの難民を生み出す。アグレステ(「未開墾地」の意)はゾナ・ダ・マタとセルタンの漸移地域を指す(斎藤・松本・矢ケ崎 一九九九、八―一一頁)。ゾナ・ダ・マタは東北端からブラジル南部まで続く大西洋岸の森林地帯の一部であるが、ポルトガル人が最初に入植し開発した地であることから森林は九十パーセント以上消失し、都市やサトウキビ耕作地へと姿を変えている。セルタンでは主として粗放的な牧畜が行われ、サトウキビ産業に食料や皮革、畜力を提供してきた。アグレステでは集約的な牧畜と食糧生産が行われている。旱魃は、これまで頻繁にセルタンを襲ってきた。二十世紀を振り返ると、一九〇三年、一九一五年、一九一九年、一九三二年、一九四一年、一九五一―五三年、一九七〇年、一九七六年、一九七九―八三年、一九八七年、一九九〇―九三年、一九九五年、一九九七―九八年に発生した。頻発する旱魃に対して、連邦政府は、飢餓や難民の回避のために一九〇九年に調査所を開設した。一九一九年には連邦旱魃対策調査所を設置、一九四五年には旱魃対策事業所へと再編された。対策としてダムや貯水池などが建造され、雇用の創出、農村人口の安定化、農産物の増収を図った。一九五二年には連邦機関としてブラジル北東部銀行が設立され、開発事業を財政面から支援した。一九五九年には北東部開発庁を創設し、実態の把握や調査を行うほか、多額の予算を投入し、被災者の救済や雇用機会の創出のために治水、灌漑、ダム、井戸、貯水池などの工事を行い、住宅、食糧生産に補助金を支出した。しかしながら反動とも言える多雨・洪水などの被害も含めて、自然の脅威はしばしば人為を超える。(10)(11)
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