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72後には黒人により組織されたブラジル黒人戦線も政党となり、ヴァルガスへの支持を固めた。一九三七年の「新国家」体制下では政党が禁止されたため、ブラジル黒人戦線も解散を余儀なくされたものの、黒人や混血人がそのほとんどを占める国内労働者のヴァルガス支持は変わらなかった。ヴァルガス政権の労働政策は、「都市の労働者階級による、国家の統制をはずれた組織化の動きを抑え込むことと、彼らを政府の広範な支持基盤として動員すること」(ファウスト 二〇〇八、二八一頁)が目的であったにせよ、国内労働者を保護する点では首尾一貫していた。国内労働者に国家建設ならびに社会秩序の安寧を担わせるという視点は、「社会有機体説的概念に強固な基盤を置いた社会モデルと強く結びついて」(Tessari & Costa 2017:6)おり、同時に民族意識の涵養を目的としていた。国内労働者を都市部と農村部の双方に効果的に配置することもその課題の一つであった。2・3 国内移民の増加一八八〇年代に始まる大移民の目的地は、そのほとんどがサンパウロ州の内陸部に位置するコーヒー農場であったことから、移民収容所はサンパウロ内陸部への玄関口に位置するサンパウロ市内に設置された。サントス港に上陸した移民はそのまま列車でサンパウロ市に向かった。一八八八年には、二つの鉄道が交差し、リオデジャネイロ港からの利便性も高かった同市ブラス駅に隣接して移民収容所が設置された。同所は移民の健康・衛生管理に加えて、移民とコーヒー農園主との雇用契約を仲介した。移民には最長六日間(契約締結を条件にさらに四日間)の滞在と食事の権利が与えられた。表2のとおり、サンパウロ州への移住者は、十九世紀中および一九一五年までは外国人移民が圧倒的に多く、九割以上を占めていた。第一次大戦の開戦後は外国人移民の割合が減少し、国内移民の数が増え始めた。また、ヨーロッパからの自由労働力の大部分は、耕地ではなくサンパウロ市などの都市部に向かい、第二次産業や第三次産業に従事するようになった。一九二六年以後、サンパウロ州の農村で就労する国内移民の数が急増した。一九二八年には初めて国内移民の数が外国人移民の数を凌駕し、一九三四年以降はその大部分を国内移民(6)(7)(8)(9)表2 1820年から1960年までサンパウロ州へ入った外国人移民と国内移民*の数時 期外国人移民国内移民合 計人 数%人 数%1820-1900973,31299.99650.1974,1771901-1905193,73294.411,5655.6205,2971906-1910190,18694.910,3015.1200,4871911-1915339,02695.217,0194.8356,0451916-1920100,09877.928,44122.1128,5391921-1925222,71179.756,83720.3279,5481926-1930253,26561.9155,82138.1409,0861931-1935119,20443.3156,24256.7275,4461936-194056,46816.1293,85283.9350,3201941-19454,7633.2144,06396.8148,8261946-195061,03013.7384,35986.3445,3891951-1955210,87921.7762,70778.3973,5861956-1960159,36023.5517,62476.5676,984合 計2,883,93453.22,539,79646.85,423,730*著者注:原文では外国人移民をimigranteそして国内移民をmigranteとして区別している。出所 Valim(2004:11).

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