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51スペイン帝国下における印刷技術の伝達メキシコでもフィリピン諸島でもスペイン文化圏としての印刷物は、ラテン語やカスティーリャ語で出版された。その校正は、言語を正しく理解している者が担当した。従って、聖職者がその任にあたったと考えるのが妥当であろう。教会内に印刷所が設けられた主要な理由の一つとして、現場に校正者がいたことが挙げられる。従って、ラテン語を教授し、聖職者を養成する大学が隣接しているのにも納得がいく。また、先住民語によって表記することもあった。その際には、先住民語を教えることもできた大学の教授が校正にあたったと考えられる。一方、インクについてはどうだろうか。メキシコでもフィリピン諸島でもインクは存在していた。両者に共通する用途としてボディペインティングが挙げられる。メキシコでは植物や鉱物から色を採取し、壁画や陶器などに色を施していた。フィリピン諸島では樹木の汁をインクとした。いずれの場合も、文字化にして記録するという文化が根付いたという点が、スペイン化の成果であろう。文字を記すには、紙が必要であった。紙はスペインの重要な輸出品であったため、植民地で代替品は製造されなかった。しかし、メキシコの場合は、スペイン人到来以前から、桑やイチジクの樹皮から紙(アマテ紙)を作っていた。樹皮を煮て、その繊維を叩きつぶして、平たくし、日干しすると紙になるというものである。しかし、色は茶色で、黒インクを乗せて印刷できたとしても、文字は見にくかったと思われる。また、先住民がこれを儀式用に使っていたためか、スペイン人も印刷用に流用することはなかったようだ。メキシコの先住民たちは、アマテ紙のほかに、リュウゼツランやヤシの木の繊維や鹿の革などを紙として使っていたが、いずれも印刷に適したものではなかった。フィリピン諸島の場合は、スペインからも届けられた紙が貴重であったことは言うまでもなく、供給が滞った場合には中国紙が使われたことが容易に推測できる。十六世紀中の印刷の担い手は、クロムベルガー家にしてもベラ親子にしても商人であった。印刷は副王政府や教会からの印刷の仕事を請け負うと同時に、その販売を通じて、貿易にも参入した。しかし、ビジネスが成立しない場合、彼らに代わって印刷を担ったのが、修道会であったと考えられる。結びにかえて十六世紀スペインは、帝国の拡がりとともに、早い段階で、印刷技術を植民地に伝えた。本考察を通じて、その伝達の経路は複数あり、そのプロセスは重層的であったことを指摘することができた。J・L・フェラン(一九五九)は、フィリピン諸島のスペイン化は、メキシコと同じくスペイン人と現地住民との相互作用のなかで生じたが、より緩やかであったと結論付けた。印刷技術の導入に際して、少なくとも十六世紀においてはメキシコもフィリピン諸島でも現地住民との接点を見出すことが困難であり、従って摩擦は生じなかったと言えるだろう。支配層に利用された技術であり、工房が必要であったといえ、大規模な人数が必要であったとは言えないからである。しかし、だからこそ、受容のスピードは緩やかというよりは迅速で、定着のプロセスが緩やかであったと理解してよいだろう。しかしながら、印刷技術の導入は、植民地によって事情がかなり異なっていることを認めざるをえない。この技術がかなり専門的であり、唐の宮廷内に設けられた印刷所のように多人数を必要としなかったためか、植民地社会に与えた影響を図ることが難しい。さらに、印刷業に関しては、インディアス法に定めがないことも全体を把握することを難しくしているが、その一方で、植民地社会への新しい視座を得ることができたとも言えよう。つまり、スペインから植民地へという一方通行のルートだけではなく、ヨーロッパ文化圏、イスラーム文化圏、中華文化圏が重層的に影響し合う形で、スペイン、メキシコ、フィリピン諸島においてそれぞれ独自の受容を経験したと言えるだろう。

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