48て、インクを刷り込む作業を担当するバティドール(batidor)で、もう一人は紙をセットし、プレスをかけるティラドール(tirador または torculator)である。両者は息を合わせて機械を操作する必要があった。また、互いの仕事を交代して作業することも多かった(Moll 2003: 2 )。当時の労働時間は平均十四時間で、一日四千回から八千回を刷ったということだから(Bermejo Martín 2006:182, 193)、かなりの体力が必要であったと思われる。セビーリャのクロムベルガー印刷所の場合は、多い時は合計二十人ほどの作業員を使って四台の印刷機を稼働させていた。一日千五百枚を両面印刷して、二、三冊の書物を同時に印刷した。この印刷所では、スペイン人を雇った記録がなく、イタリア出身、スイス出身、ドイツ出身の者たちが働いていた(Griffin 1988:130-131)。印刷工の職人組合が結成されなかったのだが、その理由は印刷工が外国人であったことが大きいかもしれない。また、二代目クロムベルガーの遺産目録から、八枚の毛布と職人用の食卓テーブルが確認され、住み込みの職人がいたことが明らかになっている(Griffin 1988: 131)。見習いは住み込みか、あるいは通いで、手伝いながら仕事を覚えた。寝場所や食事のほかに服や靴もあてがわれ、一人前になると給料が支払われた。修行には活字拾いに四年から六年、刷りに三年から四年を要したという。さらに、下働きには奴隷も投入された(Moll 2003: 2-6)。2・3 紙とインク印刷は、印刷機のみで成立しない。インクと紙が必要だ。印刷技術の移転には、両者の供給が可能な環境が伴う。そして、インクにはインク製造の技術と専門の人材が、紙には製紙の技術と職人が必要であったはずである。インクには筆記用と印刷用がある。中国では筆記用に墨が使われていた。それは木簡や絹の考古学的資料から明らかである。しかし、墨は印刷には適さなかった。活字の文字に墨がうまく載らず、油性インクが使用されるようになった。その後、この印刷用インクは西方からヨーロッパに伝わることになる。だから、ヨーロッパでは未だにインクのことを「中国のインク tinta china」と言う。一方、エジプト文明でも炭を基本的な材料としたインクが使われ、パピルス紙にエジプト象形文字が伝わっている。ヨーロッパにおいては、十二世紀にインク製法が確立されたと考えられている。ドミニコ会のドイツ人神学者アルベルトゥス・マグヌス(一一九三頃―一二八〇)が、その著書『鉱物について(De mineraibus)』の中で、黒色インクを作る際図4 印刷工房の様子(グーテンベルグ博物館ポストカード)
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