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45スペイン帝国下における印刷技術の伝達バロスはトラテロルコ学院内に印刷所を設け、ナワトル語をはじめとした先住民語の書物を出版するだけでなく、異端審問所の発注も受けるようになった(Ibarra González 2002)。パブロスの独占契約が打ち切られたにもかかわらず、印刷工たちは婚姻を通じて、パブロスから学んだ印刷技術を継承したことになる。1・3 マニラ折しも、ベラスコ副王のもとに進められていたスペインのアジア進出は、副王の死後間もない一五六五年にアカプルコとマニラを結ぶガレオン航路の開通を迎えた。東南アジアにおけるスペインの拠点となったマニラにおいても印刷所は必要とされたと推測される。フィリピン諸島はヌエバ・エスパーニャ副王領の直轄地となったため、少なくとも一六五三年までに、メキシコ人の印刷工がマニラへ渡り、印刷所を開設しようとしていたことが判明している。メキシコ市から印刷業者を派遣した可能性が高い。さらに、マニラのキリスト教化した中国人の居住区ビノンド(Binondo)には、フアン・デ・ベラ(Juan de Vera)と名乗る商人で、中国系キリスト教徒が印刷所を開いたことがわかっている。この印刷所は聖ガブリエル施療院の一階で稼働していたと推測されている。死後は、息子が継いだ(Medina 1958:II:8-10)。ただ、ベラ親子が印刷したことが判明している印刷物は残っていない。一方、一五八八年にイエズス会士がグーテンベルグ印刷機をゴアに運んでおり、そこからフィリピンに一台送られている(Artigas y Cuerva 1910:6 )。その後、一六〇二年、Doctrina Christianaが再出版されるが、出版地や印刷所の名前の記載がないため、ベラ親子による印刷かイエズス会による印刷か正確なことが未だにわかっていない。ベラ親子が展開した印刷業の規模は不明であるが、ヨーロッパにおいて活版印刷技術が発明される以前の三世紀に、すでに中国には活版技術が存在しており、しかも字母は五千ほど必要であったため、三十に満たないアルファベットの文字さえあれば、とくにグーテンベルグ印刷機がなくても、アジアの地においてもアルファベット文字による印刷や出版は十分に可能であったとも考えられる。アルファベットの文字をどのように入手したかについては、もしスペインからでなければ、ポルトガル領ゴアから入手したのではないかと推測される。同時代の日本においては、イエズス会の巡察使ヴァリニャーノによって金属活字がもたらされ、一五九〇年にアジアで初めて西洋印刷技術を導入して『キリシタン版』が出版されている。また一五九二年の朝鮮出兵によって朝鮮銅活字が持ち帰られて、印刷技術に進歩が見られた。こうしたことを考慮すると、十六世紀のマニラに住む華人や中国系メスティソが、スペインやヌエバ・エスパーニャからの技術に頼らずとも、印刷事業を興したとしても不思議ではない。また、彼らにとっては、漢字に比べてはるかに数も種類も少なく、三百字程度でアルファベットや数字を扱うことができたため、それほど抵抗なく扱うことができたのかもしれない(高橋 二〇一二、七七頁)。一方、フィリピン総督代理であったモルガ(Antonio de Morga 1599-1636)は、当時のイントラムロスに隣接した形で設置されていた市場(Parián)には、地元民の銀職人、服屋、靴屋、大工、画家、蝋燭職人のほかに、中国人の医者や薬剤師の存在を確認している。しかし、印刷業者のほか、紙やインクなどの専門店舗については言及がない。モルガがマニラに在職した期間は一五九四年から十年であるため、少なくともその間、印刷所や印刷に関連した業者が、スペイン総督府の置かれたイントラムロス内ではなく、その外側を流れるパッシグ川を越えたキリスト教に改宗した華人が住むビノンドで稼働していたと考えられる。つまり、この時点において、フィリピンにおける印刷技術の導入は、司教と副王の要請が強く働いたメキシコの場合とは異なり、教会やスペイン総督府の施設内に置かれていなかったとも考えられる。印刷技術の導入に限れば、フィリピン諸島のスペイン化は、メキシコがたどったプロセスとは(14)(15)(16)

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