35文書を『読む』ことこの重層的な時間の豊かさこそが、(Ⅱ)のテキストの特徴であり、権威主義的な重みを持った(Ⅰ)とはこの点で大きく異なるのである。(Ⅰ)がこうあるべきであるという規範を示すものであるならば、(Ⅱ)はむしろ「あの時(過去)」に裏打ち(正当化)された「いま」を重視していると言えるだろう。同じことは『カルキニ文書』に含まれる土地権原証書の一節にも言え、その中で、集住政策によってカルキニ村に集められた多くの村々に耕地分配を行わざるを得なかったカルキニ村の長ナ・チャン・カヌルは、この地域においてモンテーホ・シウと同じ役割を担っている。彼が行なった分配は、カルキニ地方における植民地時代の時空を定めた「ことの始まり・始原」と同義なのであり、このテキストを音読することは、一方で権威性の重みを持たせつつも、他方で始原の時と今とが重層的に重なり合って聞き手に受け取られたのである。このような状況の中で、「現在」は常に「過去・始原の時」に裏打ちされた正当性を持つものとなり、同時にそれは始原の時空を創造したモンテーホ・シウ、狭い空間ながらもカルキニ村の領域を創り上げたナ・チャン・カヌルという、没人間的でしかし神話的要素を多分に装った人物によってもたらされたものと理解された。これらの「伝説的、半神的」祖先を持つマニ地方とその周辺の村々、カルキニ地域の村々は、植民地時代を通じて彼らと、それを記した文書、地図の存在を記憶にとどめかつ利用し続け、それは言うまでもなく人々の村落への帰属意識と結びついていたはずである。おわりに一九一七年、マヤ学者でありメソアメリカ地域の古文書収集家でもあったウィリアム・E・ゲイツがマニ村を訪れた際、フェリーパ・シウという女性と話をした。彼女の父はベルナベ・シウで、ヨトリン村に住んでいたシウ家の長であり、『ユカタン、ヤシャ村のシウ家関係文書』(Quezada and Okoshi Harada, 2001)を保管していた人物である。彼女は、この文書を、チチェン・イツァの生贄の泉における発掘調査で有名なエドワード・H・トンプソンに渡したといい、こう言い添えた。「その文書を返していただくわけにはいかないでしょうか。あれは私たちのものなのです。はるかな昔からずっと私たちが保管してきたもので、あそこには先祖のことが書かれているのです。何年か前、ドン・ベルナベが、親しくしていた友人のドン・エドゥアルド・トンプソンにこの文書を貸したのですが、その後どうしても返してくれませんでした。私たちに返してくれるよう、なんとか手をお貸しいただけませんでしょうか」と。現物がハーバード大学ピーボディー博物館に収められていることを知っている彼は、これが不可能であることを熟知していた。だから言質を与えることは避けたものの、ゲイツは次のように書き残している。「もし、メイフラワー号でやってきた、あるいはバージニアの最初のイギリス人植民者の子孫たちが、自分たちの祖先のことを書き記した文書をシウ家のひとりに貸し、それが今度はメリダ市の地方博物館に興味深い歴史文書として売られていたことを知ったとしたら、どう感じるだろうか。ましてこれらの文書は、シウ家の文書の半分の古さも持たず、また王家の歴史を扱ったものですらないのである」と(Quezada and Okoshi Harada 2001:20, n.5)。このベルナベ・シウが保管していた文書綴りの最初にあるのが「マニ地方土地権原証書(Ⅰ)」であった。二十世紀になって、土地権原証書としての機能は失っていたが、それでもなお少なくともシウ家にとって、この文書は自らの帰属意識(アイデンティティ)の源として見なされていたのである。土地権原証書がそれとして機能していた植民地時代において、自分の村への帰属意識はマヤの人々にとっては最も重要なものであった。そしてこれを支えていたのが、「土地権原証書」なのであった。先住民にとって、植民地時代は単にスペイン王室の支配下に置かれたことを意味したのではない、彼らの社会は実に細々とした無数の政策を通して大きく改変させられたのであった。その最も重要なのが集住政策による居住形態の変容であり、これにマヤ語のアルファベット表記と単純化した文法を道具と(13)
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