32一八〇一年一月八日、実地検証開始日である。この日検察官マンサニージャはマヤ語を話す二人の通詞/証人(マルコス・アランダとペドロ・ホセフ・デ・ソウサ)、ノフカカブ村の村長(gobernador)、村参事会員(justicias)らと、ツェメス・アカルへ赴いた。「ドン・フランシスコ・モンテーホが行なった耕地分配と境界線策定によれば、ここが(今回の訴訟に)関係する村々の境界になっている」ので、そこに他の村々の代表たちを集めたからである。検察官は被告であるカルキニ村の村長と村役の人々に、このモンテーホの地図と文書に従って解決の道を探るのであり、同村が提出した文書にはこれとは全く異なる境界線が述べられているとはっきりと述べている(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:19r-20v)。この場合、マンサニージャは事前に提出された書類を丹念に調べており、モンテーホが一五五七年に作成した境界線策定と耕地分配の記録を用いて、この地域における境界線(土地)争いを解決し、秩序(tzol)を再構築する意図を持っていたことがわかる。「マニ地方土地権原証書(Ⅰ)」は、彼にとって「真正の、唯一信じるに足る参照枠」だったのである。これは十六日まで実施された実地検証の間貫き通された、彼の基本的な考え方であった。その後、実地検証が二つの村の境界線をたどりつつ始められた。具体的には、百バーラ(vara)の縄を使って距離を、これに方角等を記録して実測が行われていく。縄は両端に紙が巻かれていてそこに参加する村々の役人たちが署名して、切り落として実際より短くするなどの改ざんが行われないようにしてある。途中にある境界標は全て記録し、これらが「マニ地方土地権原証書(Ⅰ)」や地図と異なった位置にある場合には、意図的に改変されているとみなし、それを記すとともに、あるべきところに境界標を置いている。この日検分したのは、千七百バーラであったというから、一二・八から一五・五キロメートルの境界線を測量したことになる。野営中にこの日の行程の詳細な日誌が書かれ、そこに検察官と二人の助手が署名している(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:20v-21r)。一月十日の記録では、ツェメス・アカルの東に古い境界標を見つけたとあり、これは「すでに述べたマニの原文書、地図にあるものと同じである。それはこの(ノフカカブ)村、ムナ村とベカル村が所蔵している文書と地図に記されているものとも同じ」であることを確認した。これは、その境界標がノフカカブ村の領域の端を示すものだとの共通認識が、地域の村々の間にあることを示すものだった。ところが、これに不満を抱いたのがカルキニ村の村長と村役人たちであった。彼らは激昂し、自分達の文書と地図だけが取り上げられないなら、この実地検証にはこれ以上参加しても無駄だ、村に戻ると脅しをかけて凄んだという(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:21v)。土地(境界線)争いがいかに当事者の利害と密接に関わる深刻な問題であったのかが見て取れるが、ここで問題にしたいのは、「マニの原文書、地図にあるものと同じ」あるいは「ムナ村とベカル村が所蔵している文書と地図に記されているものとも同じ」だということがどのようにしてわかったのかということだ。検察官マンサニージャはマヤ語を話せないし理解できないから、通詞/証人として起用された二人を介しての会話となる。だが、この二人とて、村役人たちが持参してきている書類や地図を自由に手にとって比較することは出来ないし、もちろん彼らだけで境界線の検分をしているわけではないのだ。文書や地図は、基本的に村役人が手にしている。そう考えるべきだ。そのうちの四人は、境界線をたどる時に、距離を測るための縄を手にしている。両端をそれぞれ二人の異なった村の人間が持つのだ。一方残りの人々は、境界標をたどっていかねばならない。その時に参加している村々の役人たちは持参の土地権原証書と地図を使って、実際と比較し、相互に自分たちの文書と言い分が正しいことを主張し、検察官が通詞を介して判定をする。その繰り返しである。では、文書や地図に書かれていることと実際とを、どのように比較したのだろうか。むろん、そこまで細かいことまでは文書は語っていない。検察官にとっては当たり前の光景であったろうからだ。だた、村長を含め村役人たちのほとんどは、文字を読むことも書くことも出来なかったはずで、唯一その能力を持っていたのが、村参事会(cabildo)の書記であった。彼は文書を村長や役人が理解できるように、声に出して読んで聞かせなければならなかった。そ(10)
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