31文書を『読む』こと権威性に裏付けされた位置を如実に示している。では、具体的にこれらの文書がどのように「使われた」のだろうか。その社会的・文化的意味を次の節で考えてみる事にしよう。取り上げるのは、十九世紀初頭にノフカカブ村とカルキニ村との間に起こった境界線を巡る訴訟であり、そこで「ドン・フランシスコ・デ・モンテーホ・シウが作成した村々の地図(および文書)」が重要な役割を果たしているのである。3 時を遡って 「声に出して文書を読む」ことの社会的・文化的意味一八〇〇年ノフカカブ村はインディオ裁判所検察官に対し、カルキニ村を相手取って訴訟を起こした。一七九一年からカルキニ村の農民が自分たちの土地を無断で耕作しているため、残された土地が無いに等しく、食べるにもこと欠いているというのだ(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:15r)。このため、裁判所はカルキニ村に対し、村の境界線を記した地図や土地権原証書などの文書を弁護官アグスティン・クレスポに、一方ノフカカブ村は同様の書類を検察官ペドロ・イグナシオ・マンサニージャに提出することを命じた。これらの文書を詳細に検討した二人の担当者は関係者を招集し、翌一八〇一年一月八日から十六日にかけて、二つの村が境を接する場所を実地検証した(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:21r-26v)。その結果に基づいて、検察官ペドロ・イグナシオ・マンサニージャはカルキニ村の言い分を斥け、ノフカカブ村の主張を全面的に認める意見書を提出した(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:36r-38v)。一方弁護官アグスティン・クレスポはこれとは逆の意見書を出している(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:39v-41v)。しかし残念ながら、『マニ地方土地協定文書・マニ村年代記』を構成する文書群は、最終的にインディオ裁判所がどのような裁定を下したのかを語っていない。さて、この訴訟の中で、インディオ裁判所から派遣された検察官と弁護官が常に参照し、訴訟以前の境界線復元に使っていたのは、「ドン・フランシスコ・デ・モンテーホ・シウが一五五七年に作成した村々の地図(および文書)」、すなわち「マニ地方土地権原証書(Ⅰ)」であった。まず、実地検証が始まる前日、これをどのように行うのかを説明するために、ノフカカブ村にカルキニ村の代表者たちのみならず隣接するティクル村、そしてマニ村からの役人たちが集められた。その際にマニ村の代表者たちはまさにその文書と地図を持参しており、ノフカカブ村が提出したものは、ここから取られた写しであると明記されている(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:18v)。本来、この訴訟がノフカカブ村とカルキニ村の間に生じた問題であることを考えれば、領土が隣接していないマニ村の役人たちが参加する必要はなかったはずだ。しかし、検察官や弁護官はノフカカブ村の土地権原証書の由来を知っており、同時にその元になったマニ村が所蔵する「マニ地方土地権原証書(Ⅰ)」の現物を参照する必要を認識していたのである。実際、例えば一月十日の実地検証記録では、ツェメス・アカル(Tzemez Akal)という名のため池について、その北に古い境界標があり、これは「モンテーホが行なった分割を示す古い境界標である」、そしてそれは「マニ村の文書と古地図に言及されているものと同じだ」と述べている。明くる日の記述にも「私たちはモンテーホによって置かれた古い境界標のところに行こうとした。これは彫刻された大きな円柱の脇にある丘のふもとにあると述べられている」(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:21v, 22r)、と事あるごとに「ドン・フランシスコ・デ・モンテーホ・シウが一五五七年に作成した村々の地図(および文書)」に言及し、この文書自体を文字通り「原簿44」として扱っているのに気付かされるのである。では、その「原簿44」としての「マニ地方土地権原証書(Ⅰ)」は実地検証の中でどのように用いられていたのだろうか。検察官ペドロ・イグナシオ・マンサニージャが作成した記録を元に、それをもう少し具体的に見てみよう。(7)(8)(9)
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