28Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:1r; Quezada and Okoshi Harada 2001:57-58)。そしてそれを記したものが、「マニ地方土地権原証書(Ⅰ)」であった。先スペイン期において、王国やこれを構成していた「バタビル(batabil)」は連続した面としての「領土」やこれを区切る境界線を持たなかったから(Okoshi Harada 1995, 2010)、「境界線の設定」はマヤ人の歴史上初めての作業になった。権原証書によれば、彼らはジャングルを帯状に切り開いてそこに等間隔に境界標を置き、境界線の方向が変わる所、あるいはいくつかの境界線が合流する所に他よりも大きな境界標を作り、その上に木の十字架を立てたのだった。これを文書は、he hop’anil u tzol, utial ah maniob, ah mamaob, ah kitob [...](ここにマニ村の人々、ママ村の人々、テキット村の人々﹇中略﹈のために秩序がうちたてられ始めた)(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813:1v)と表現している。Tzolは「順番に、順序立ててあるいは秩序立てて、秩序立てる」という意味であり(Calepino maya de Motul 2001:166)。この文脈では、それまで色々な村の人々が焼畑農耕をしていた空間を村ごとに分割して整理し、それぞれが面としての「領土」を持てるようにし、同時にこれを境界標と境界線で区切ることを指していた。そしてまさにこの「秩序立てる」ということこそが、「無秩序」に分散していたマヤ人の住居を「村」に集め、キリスト教を基に支配するというスペイン植民地政府の意図を表したものでもあった(Hanks 2010)。だが、ドン・フランシスコ・デ・モンテーホ・シウが一五六〇年代に嗣子を残さず亡くなると、ユカタン総督府はその甥が王国を継ぐことを許さず、したがって王国は消滅し、これを構成していたかつてのバタビルであった村々は、それぞれ独立して自らの生き残る道を探って行くことになった(Quezada and Okoshi Harada 2001:44)。この時以来、「マニ地方土地権原証書(Ⅰ)」は境界線の策定に参加した村々にとって、植民地時代を通じて常に参照すべき「ことの発端を記した書」として、境界線にまつわる問題が起こった時には必ず読まれ、またその写しも多く作成された(Okoshi Harada 2009:92-93; 2017a)さて、この文書が十九世紀に至るまで参照され続けたのは、まず本文が三人称で書かれているからで、これは他の一人称や二人称とは異なり、叙述内容が「誰にも依存しない中立的視点を提供する」特徴を持っている(Hanks 1989:109)。また本文では、次の例に見るように、35. ti dzocan u multumticob Al término de la reunión36. ca yalahob yanil u nah ellos dijeron que era necesario37. yemcicob u batabil cahal governadorsob [que] bajaran los principales [y] sus gobernadores,38. talob ti hunhuntzuc ti cahe [que] vinieran con sus séquitos de los pueblos,39. ca taccob uay que se juntaran aquí40. [ti noh] cah Manii lae [en el gran] pueblo de Maní.41. ca utzac u chaiccob [ch'aiccob] Y será bueno [que] ellos traigan42. ca catul u chun u thanob tu pachob a dos chun thanob consigo43. ca utzac yilicob y será bueno [que] éstos vean44. u xotol u chi kaax lae la tumba del borde de su monte.(Quezada and Okoshi Harada 2001:57)(3)(4)(5)
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