27文書を『読む』こと「読み」をアルファベット表記のマヤ語で紙に筆写していたということだ。『チュマイェルのチラム・バラムの書』を構成する最初の二つのテキストに関しては、この仮説は正しいだろう。しかし、例えば上に分析した土地権原証書の様に、植民地時代になって初めて創られたジャンルのものに対してはこの説明は当てはまらない。先スペイン期には同種のテキストは存在していなかったからである。したがって、むしろマヤの口碑伝承あるいは(口碑)文学伝統に従って、「読まれる」ことを前提としてそれに必要な修辞法を配して書かれたと考える方が自然であろう。すなわち、「テキストを声に出してどの様に読むのか」を考慮に入れつつ書かれたとするのが最も論理的である。用いられている様々な記号は、どこで休止をするのかを具体的に指示していると言っていいだろう。では、土地権原証書はどの様な時に読まれ、どの様な社会的・文化的効果を醸成したのであろうか。この問題を考えるためには、まずこの種の文書が作成された歴史的背景から議論しなければならない。2 秩序のある(tzol)空間の創設、およびその記録(土地権原証書)の特徴一五五二年以降ユカタン総督府領において実施された集住政策は、伝統的な分散型居住形態を持つマヤ先住民を、碁盤の目状に区切った街路を持つ「村(pueblo)」に集めて住まわせるという、大きな変化をマヤ社会にもたらした。これは同時に、彼らが住まう集落の周囲に生業空間を設け、その全域を境界標とこれを線で結ぶ境界線とで区切って、村の「領土(territorio)」を策定することを意味した。具体的には、新たに集住させられた村落の周辺の空間を各家族に割り当てて焼畑農耕をさせること、一方それ以前に耕作をしていた場所は隣接する村落の領土に組み込まれる場合が多かったから、これに関する同意を与えること、などの数限りない話し合いをしなければならなかった。むろんこの領土策定のための「耕地整理」の交渉は境界線を定めるための極めて重要な作業であり、妥協点を見出すことができず、十九世紀まで続く先住民村落間の境界線争いの火種となることもしばしばだった。村々の間での争いは、総督府を介して一五九二年以降インディオ裁判所(Juzgado General de Indios)が担当し、検察官(procurador de los naturales)と弁護官(protector de los naturales)が任命されて訴訟手続きが行われる。当該の村は土地権原証書と村の領域を記した地図を証拠書類として原告側は前者に、被告側は後者に提出し、これらを元にした実地調査が行われて最終判決が下されるのだ(Mani Land Treaty / Crónica de Maní 1557-1813; Quezada and Okoshi Harada 2001)。村々の土地権原証書や地図が作成され始めるのは一五九二年以降のことになるが、ユカタン総督府領では一五五〇年代に、これらとは性質の異なる二つの土地権原証書が作成されていた。ソトゥタとマニというスペイン人による征服後も存続した王国のもので、それぞれナ・チ・ココム(洗礼名はフアン・ココム)、ドン・フランシスコ・デ・モンテーホ・シウ(洗礼前の名はアフ・ククム・シウ)という名の王に治められており、彼らの主導のもとに作成されたものだった。一五五七年より少し前、ナ・チ・ココムは集住政策が先住民共同体の境界線を確立することを目的の一つとしていることを知り、本来「村落」単位でこれを実行すべきところを、自分の王国の領土の確定にこれを応用した。スペイン支配下での存続を図ろうとしたのである。彼のやり方はかなり乱暴で、周辺の村々の長らと耕地整理について話し合い了解を得るべきであるのにこれをほとんどせず、強引に自分に都合の良い境界線を設定した(Roys 1939:423-426)。この独断的行為にすぐに反応したのは、ソトゥタ王国と境を接するマニ王国の王ドン・フランシスコ・デ・モンテーホ・シウであった。彼は一五五七年八月十五日に配下の首長や連接する村々の長を首都のマニ村に集め、そこでの合意や実地検証に基づいて自らの支配領域の境界線を設定した(Mani Land
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