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92イス県に三十七万人と、ブラジル全体の約半数が集中しており、首都リオにも四万人を超える奴隷が住んでいた。一八八六年以降になると、コーヒー農園から周辺の諸都市へ向けて黒人奴隷が集団で逃亡するようになった。一八八七年には奴隷人口の割合は全人口の五パーセントにまで減少する。ペドロ二世が病気療養のためヨーロッパに出かけていたため、摂政をつとめていた皇女イザベルが一八八八年五月十三日に全奴隷解放法に署名し、ブラジルは古い社会から新しい社会への変革期を迎えた 。一九〇二年、ロドリゲス・アルヴェスが大統領に当選し、ペレイラ・パッソス市長による首都リオの都市改造が始まる 。これは、ロドリゲス・アルヴェス大統領の下で、技術者でもあるリオ市長ペレイラ・パッソスが、リオの街路、港湾設備、さらに公共の建造物の改良と整備を始めていたからである。毎年夏に多くの人命を奪っていた黄熱病も、一九〇六年に、細菌学者であり市の公衆衛生局長であったオズワルド・クルスの努力によって撲滅された。一九〇八年には、ブラジル開港百周年を祝って大博覧会が開催された。オペラやコンサートの公演のための豪華な市立劇場もあらゆる建築資材をヨーロッパから輸入して建築に四年をかけて一九〇九年に完成した。まさに、新しい世紀における新しいリオの出現であった。一九一二年にブラジルの俗語で「浮かれ遊び」を意味する「フォロボドー」という題名のショーロの名曲を大衆音楽の母シキーニャ・ゴンザガが作り、これが広く演奏され、リオの街は新しい音楽誕生の気分に満ちあふれていた。五年後の一九一六年に、ブラジルの国民的ポピュラー音楽となるサンバの最初の曲「ペロ・テフォーネ(電話で)」がリオで生まれたのである。リオの都市開発は継続して進められ、一九二二年のブラジル独立百周年を記念する展覧会場建設のころ頂点に達した。独立百周年を記念してリオでラジオ放送が開始され 、さらに、こんにちでは全ブラジルのシンボルとなっているリオのキリスト像が建立を決定し、一九三一年に完成した 。さて、歴史家J.H.ロドリゲスは十九世紀の帝政および共和政におけるブラジルの「面」の開発にかかわる実効占有のイデオロギーを紹介している。第一はジェトゥリオ・ヴァルガス(Getúlio Vargas)以前の政府に見られたものである。それは、移民の奨励や開拓地帯への援助、さらにブラジルの西部および北西部地方に向けての緩慢であるが着実な拡張を進めるための基地としての東部地方の統合・強化を目指した。ブラジルはその広大な領土において、発展した中心地域とそれに植民地的な従属を強いられる周辺地域をもつ大国である。リオ、ベロオリゾンテ、サンパウロをつなぐ三角地帯がブラジルの心臓部であり、この空間は二大都市の存在と、国内最大の農業・工業・輸送網の発達によって最高の人口密集地域となっている。ブラジルの発展の動きは、この心臓部を常に出発点とすべきである。目的は、東部地方の開拓が落ちつくまでは、過度に西部地方に植民を広げず、北東部地方のような古い入植地域の復興、サンフランシスコ川渓谷のような国家統一の中心地域およびアマゾン川流域のような自由に使用できる広大な土地の存在する地域の開発を進めるべきである。さらに、古い入植地域にみられる人口分布上の不均衡が是正され、リオグランデドスル、サンタカタリーナ、パラ、ドーセ川流域、ゴイアスとサンパウロの「森林」地帯に残るさまざまな開拓地域の発展に援助が与えられ、海岸線がひじょうに長い国であるから、港湾施設や浚渫工事、商船隊の育成などに努力が払われ、過去の植民事業の過ちが繰り返されないために特にそれらの経済地域を結ぶ自動車道路網の整備が推進されることが肝要である。その標語は「西部地方への前進」ではなく「東部地方に足場を築くこと」であり、また海岸地域の開発であった。これに対して、第二の考え方はジェトゥリオ・ヴァルガスとジュセリーノ・クビシェキ(Juscelino Kubitschek)によって大胆かつ忍耐強く擁護された。それは、大多数のブラジル人が内陸部に位置するゴイアスとマトグロッソ二州の開発と植民を希望しているから、直ちに最南部への前進と実効占有を行うべきというものであった。ジェトゥリオ・ヴァルガスは一九四〇年八月にその考えを要約し、「ブラジリダーデの真の意味は西部への前進にある」と断言した(10)

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