91大西洋システムにおけるブラジル開発の空間概念に関する歴史的考察巨大なポルトガルのエリート集団を受けいれたリオでは、一八二二年九月七日に独立宣言をおこなう前から、王立印刷所によって公文書や新聞、図書の発行が始まり、博物館や植物園、公共図書館、王立劇場、裁判所、ブラジル銀行などが築かれ、文化、政治、経済の中心地としての基盤を整えた。一八〇八年の遷都から一八二二年の独立・帝国の首都を経て一八八九年共和制樹立に至る十九世紀の都としてのリオ市の都市開発は、市民の音楽生活と繋がりを深めながら、大衆文化を育み、文化の都市としてのリオの市民社会を形成した。その都市空間のモデルのひとつは、明らかにポルトガルのリスボンにあった。独立後の一八二二から八十九年間にブラジル帝国としての発展の恩恵に浴したのは、一部の特権階級に限られていたものの、首都リオの一般市民も、ヨーロッパのエリート社会の雰囲気を自らの文化として味わえたのである。十九世紀リオの市街図(図5)も、入組んだ街路ではなく、リスボンのバイシャ地区(図4)に似た直線で示されている。その際、十八世紀の大震災後に驚異的な復興を遂げたにリスボンのポンバル地区の商業広場が、王室を迎えたリオの十五広場に繋がるパッソ広場のモデル(写真3)となった。ブラガンサ王室の指導により、ポンバル地区様式を模した合理的な建物が造られたのである。十八世紀に旧世界都市リスボンは大震災を経験し、荒廃からの大復興を果たしたが、新世界都市リオは、十九世紀から二十世紀にかけて合理的な都市計画案に基づいて古い街並みを破壊し、衛生や合理性に配慮した空間を建設したのである。当時の写真は、地震に匹敵するごとき破壊の状況を見せている(写真4・5)。一八七二年のブラジル総人口九百九十三万人のうち、奴隷が百五十一万人と国民の一五パーセントを占めていた。奴隷を使ってコーヒー栽培をおこなっていたリオ県に二十九万人、ミナスジェラ写真2 リスボン市の商業広場(撮影 2005.09.08)写真3 リオ市のパッソ広場(15広場)(撮影 2005.09.01)写真4 破壊されるリオ市カステロ丘(Marques Bulhoes 1996:84-85)(書物掲載写真の撮影1905.12.01)写真5 破壊されるカステロ丘(Marques Bulhoes 1996:102-103)(書物掲載写真の撮影1905.11.21)
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