90メーロ・イ・カストロが五角形の先端をもつ砦(baluarte)から成る正方形の新しい要塞建設に着手し、これは一七七一年に完成した。このマカパ要塞と並んで、オビドスとS・ジョゼ・ド・リオ・ネグロ(S. José do Rio Negro)の小砦(fortim)がアマゾン川本流を防御した。ベレン市は、グラン・パラ・マラニャン植民地の主都であると同時にセルタンの富の積出港であり、また総督の本拠地であるため、防御には最大の注意が払われ、この場所が、放射状に広がったアマゾン川流域防衛システムの要となっていた。以上の要塞や砦の分布をみると、巨大な空間の防衛システムと入植の拠点としてのヴィラの発展が示されていることが理解できる。幾多の困難に直面していた広漠たるアマゾン地方が、一七五〇年のマドリッド条約以後、ポンバル侯の強力な重商主義政策を背景として、短期間に開発の枠組みを整えたことは一驚に価する。航行の安全を保障されたグラン・パラ・マラニャン特許会社の船は、一七五六年から一七七七年までの期間に一三八隻がリスボン港に向けてベレン港を出帆し、年平均六隻であった。内訳は一七七三年と一七七六年が十隻、一七七五年が九隻、一七六二年、一七七〇年、一七七二年、一七七七年が八隻であり、年間の航海を計算すると、特許会社所有の商船は二十から二十五隻に達していた。ポンバル侯は重商主義改革をアマゾン開発に実行した。北部主都のサンルイスからベレンへの移転、先住民解放令、イエズス会士の追放、先住民指導規則書の制定、先住民女との結婚法、グラン・パラ・マラニャン特許会社の設立、サンジョゼドリオネグロ・カピタニアの創設、黒人奴隷の導入である。このすべてが絶対主義下の本国を富ませるための重商主義的政策であった。3 ブラジル南東部を拠点とする「面」の開発南東部の開発の中核をなしたリオ遷都の背景を述べたい。マドリッド条約締結の一七五〇年以降の一七六三年、ブラジル副王領の主都はサルヴァドールからリオへ移転した。やがてヨーロッパにおいて、二大国フランスとイギリスが対立を深める中、一八〇六年に、フランス皇帝ナポレオン一世が大陸封鎖令を発してポルトガルへ軍を進める決定をおこなった。小国ポルトガルの王室はイギリス海軍に守られて、ブラジルへ移転する。ポルトガル王室の女王マリーア一世や摂政皇太子ジョアン六世は、およそ一万五千人の随員とともに一八〇七年にイギリス海軍に保護されてリスボンをあとにし、翌一八〇八年にリオに到着し、これによって、ポルトガル王国の首都がヨーロッパのリスボンから南米のリオに遷都されるに至った。図4 リスボン再建計画図(9) 震災(1755年)後図5 リオ市街図 1839年(Rabha e Pinheiro 2004:20)
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