オシフ・ゴシケヴィッチ
橘 耕斎  編
『和魯通言比考』
サンクトぺテルブルク、1857

 世界で初めて作られたこの日露事典がロシアで刊行された1857年という年は、日本ではまだ鎖国令が厳しい江戸時代末期の安政4年にあたる。
 これより先の安政元年、日露修好条約の締結を求めて来航していたプチャーチン艦隊の中国語通訳官 O. A. ゴシケヴィッチが、掛川藩を脱藩して身を持ち崩していた橘米蔵という浪人の密出国を手助けし、イギリスを経てロシアの首都サンクトぺテルブルクへと導き入れていた。
 ゴシケヴィッチは来航の際、日本沿岸で津波を受けて大破した乗艦の代替船建造中に、橘から日本語を学んでおり、ロシア国内での日本語研究を推進する必要性を痛感する中で、橘の才能を活かした日露事典の編纂に着手した。
 本書の編纂については、それまでにイエズス会などによって刊行されていた幾つかの日本語の研究書や辞書類を参考にしたといわれ、約1万5800語を収録してロシア外務省のアジア局から出版されたものである。
 また橘は、自らを標題紙上で「橘耕斎」と称し、生活する中ではヤマトフ(大和夫)と名のって外務省の通訳官やぺテルスブルグ大学の東洋学部の教員を勤めた。明治時代になって訪露した日本政府要人の計らいで同7年に帰国し、仏門に帰依した。一方、ゴシケヴィッチは安政5年に、初代ロシア領事として函館へ赴任し、日露関係史にその名を留めることとなった。

『GAIDAI BIBLIOTHECA』 137号より

   資料ID:211000(書誌詳細画面へ接続)


        
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