――第4回開催記録――
 「日本におけるイタリア2001年」を記念して
  フォーラム「イタリアに魅せられた理由」
 日  時: 平成13(2001)年10月29日(月)午後3:00〜午後5:30
 場  所: 国際交流会館 6階ユニバーシティ・ギャラリー
 
 発  表1: 「イタリア映画発見の旅へ」 (レジュメより)

        鴇  明 浩 氏

 イタリア映画は研究される対象である前に、快楽の対象であることを認識しよう。

 イタリア映画を映画館で体験しないということは、映画のめくるめく快楽の多くを知らないことである。とりわけ40年代から70年代初期、イタリア映画は世界を席巻し、世界中の観客は、映画の至福をイタリア映画にこそ見いだした。イタリア映画では、自由や人間の尊厳が真剣に映像の中で問われ、男が男であって、女が女であって、貴族は毅然と貴族であった。

 現在のビデオ世代はその状況をリアルタイムで体験することはできない。イタリア映画は映画史の必然であるかのように日本映画同様、その黄金期を終えたのだ。しかし、往年のイタリア映画は今なお語り継がれ、事実今年も東京のフィルムセンターでは約50作品ものイタリア映画大回顧上映が行われようとしている。P.P.パゾリーニも、20年遅かったにせよ、ようやく正当な評価が観客にもたらせる機会がめぐってきた。

 ロッセリーニの『ストロンボリ』、ヴィスコンティの『山猫』、フェリーニの『道』、パゾリーニの『カンタベリー物語』、アントニオーニの『さすらい』、ベルトルッチの『暗殺の森』、レオーネの『荒野の用心棒』、そしてベロッキオの『肉体の悪魔』・・・贅沢この上ない映画体験に、ビデオ・コンピュータグラフィックス世代がどう関わるか、イタリア映画の封切体験最後の世代として、糸口を示す。イタリア映画初心者も大歓迎の楽しいイタリア映画案内である。

 
 発  表2: 「イタリアとの出会い」 (レジュメより)

        清 瀬   卓 氏 

 光陰矢の如しと申します。1971年、今から30年前に私はイタリア語の勉強を始めました。19世紀イタリアの犯罪学者チェ−ザレ・ロンブローゾ著『天才と狂気』が原語で読みたいばかりに。その頃、京都大学文学部哲学科2回生で、心理学を専攻するつもりでした。特に精神分析学のフロイトが師事したシャルコーなどのフランス臨床心理学派に関心がありましたので、先ずフランス語を勉強して、リボーやアンリー・エーの著作を手にとって勉強を始めていました。

 しかし学部3年目を終わる頃に文学科に転科してイタリア文学を専攻しました。そのきっかけは大阪外国語大学教授だった故宮本幸三郎先生との出会いでした。宮本先生からイタリア語の手ほどきを受けました。宇治の先生宅を私は遠慮もせず訪れて、お話をおうかがいしました。先生との2年に亙るお付き合いには思い出が沢山あります。

 その1年後に同じく大阪外国語大学教授だった故アレハンデル・ベンチヴェンニ先生に出会いました。ベンチヴェンニ先生にはイタリアへ留学するまでの5年間ずっと師事しました。この二人のよき師に巡り遭うことがなければ、私は他の道を歩んでいたと思います。

 私は両先生からもちろんイタリア語イタリア文学一般の手ほどきを受けましたが、そのようなことよりも、これこそがホンモノの教養人だというのが、私にとって両先生の第一印象でした。両先生なら世界中どこへ行かれても、別に肩書きなど意識しないでも通用するなと私は思いました。事実、両先生はその頃60歳過ぎの年齢で、私はきっと人間としての風格に魅せられたのだと思います。

 「清瀬君−−と宮本先生はいつもおっしゃいました−−僕は大阪外大で先ず蒙古語を勉強して、それから後にフランス語を勉強した。」宇治のお住まいで私は初めて蒙古語の書物に接しました。「ラテン語は勉強している?」「僕の持っているルーマニア語の辞書をあげよう。」後年イタリア留学中にルーマニアの夏期語学研修に赴いたのは先生の影響です。

 ドミニコ会のお坊さんだったベンチヴェンニ先生の専門は仏教学でした。お母さんがスペイン人だったこと、お爺さんがフランス革命に心酔していたこと、戒律の厳しいローマの神学校での勉強や当時ヨーロッパ仏教学のメッカだったボンでの留学生活、来日して東北大学大学院を修了されたことなど、一介の学生だった私に先生はいろいろ話して下さいました。お洒落で銀髪の美しい美貌の先生は、日本の女子学生の憧れの的でしたが、生涯独身を通されました。ある時、ふと日本語で「でも、失敗したね、結婚しなかったのは」と、寂しそうな表情でおっしゃったことがありました。停年退官してすぐイタリアへ帰国されましたが、毎年のように懐かしい京都を訪ねて戻ってこられていた先生に私が最後に逢ったのは、たしか1984年で、相国寺塔頭の林光院に金木犀の花が咲いている頃でした。ベンチヴェンニ先生は、ポリグロットでコスモポリットでした。黄金のように世界どこへいっても地金で通用する人柄でした。私にとって先生は唯一のヨーロッパへの窓であり、先生のような人材を輩出したイタリアとはどのような国なのだろうかと思って、たまたまイタリア政府給費留学の機会を得て、憧れの国イタリアへ赴き二年間滞在しました。では、いよいよ本題に入って、滞在中のエピソードなどを中心にお話したいと思います。一口に言って、イタリアでの2年間も、私にとってまた新しい出会いの連続でした・・・。

 
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