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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS

2018/03/09 11:40:00 『菜の花の沖』のことば (2)

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田 育法
 日本人の嘉兵衛がロシア人のディアナ号艦長リコルドに捕まりました。
 そして、二人の互いのことばによる交流が始まります。
 たいへん面白い内容です。

 小説は以下のように描写します。

 両者のあいだに、通訳はいない。
 ただ艦長リコルド少佐は、さきに艦にもどらなかった通訳良左衛門 (五郎次) から、この島までの航海中、日本語の手ほどきを受けた。


 リコルドをロシア語 (Рикорд)で紹介すると以下のようになります。

 Пётр Иванович Рикорд (29 января [9 февраля] 1776, Торопец — 16 [28] февраля 1855, Санкт-Петербург) — российский адмирал, путешественник, учёный, дипломат, писатель, кораблестроитель, государственный и общественный деятель.

 母語が異なる二人のコミュニケーション開始は、相手をどのように呼ぶかでした。

 リコルドの日本語:
 高田屋嘉兵衛 = タカダイ・カヒ
 船頭・船持 = シンド・フナモチ
 
 リコルドが理解していた、日本社会の身分制
 百姓人 = フャクショ・シト
 商人や職人などの町人 = マヂノ・シト
 嘉兵衛を尊んで呼ぶ = コマンディル
  指揮官、司令官、隊長、艦長

 司馬遼太郎が綴る次のやりとりが面白い。

「隊長」
 と、リコルドは嘉兵衛を称 (よ) んだ。
 リコルドは、手持ちのごくわずなかな日本の単語を、懸命にならべた。
「オロスヤ、オロスヤ」
 と言い、自分を指さし、さらに嘉兵衛を指さして、
「行く」
 ということばを繰りかえした。
「海。冬」
 リコルドがいった。やがてこの海に冬がくる。来るまでにカムチャッカまで逃げのびてそこで冬営せねばならない、とリコルドはいう。
 嘉兵衛はリコルドの表情を見つめている。表情もまた言語である。リコルドはよく心得ていて、舞台俳優のように表情の変化を大げさにした。
「ガロヴニン」
 と、ゴローニンその人の名を、この部屋で何十回くりかえしたろう。
(略)
嘉兵衛は、リコルドの喋ることばを、ききつづけた。このロシア人の唇からころがり出るふしぎな日本語の単語は、うかうかすると、シャボン玉のように空 (くう) に消えてしまう。嘉兵衛にすれば、その一つ一つをつかんで、数珠 (じゅず) のように緒 (お) を通して文章にしなければならない。(略) われわれと一緒にロシアへ行こう。
 嘉兵衛は一息置き、うなずいた。
「ようがす」


 ロシア側の嘉兵衛たち日本人拉致の目的は、そのゴローニンの救済であると嘉兵衛は気がつきます。
 ところでグローバルな展開を見ると、ブラジル研究者の筆者、住田にとって実に興味深いのは、このゴローニンが世界一周の航海を始めて、南米の最南端からアフリカの最南端の喜望峰へ移動した1808年に、ナポレオン軍に追われたポルトガルの王室がブラジルへ逃れたのです。掲載の地図を参照してください。
 
 さて、ロシアへ連行される決定の後、嘉兵衛が弟たちへ書いた手紙の冒頭が残っています。

 拙者(せっしゃ) 儀、此度 (このたび)、天運つき候や、異国へ参り候。

 楽しい出来事もあります。異文化交流の瞬間です。

「観世丸の水夫に、私の艦を見学させたいというのか」
 かれ (リコルド) も手まねをまじえていうと、嘉兵衛は、そうだ、と答えた。
(略)
 リコルドは、嘉兵衛の申し入れを言下に承知した。かれは当直将校を呼び、
「日本の水夫全員に、本艦を見学させる。みなで歓迎するように」
 と、命じた。
(略)
 リコルドは、係に命じ、艦長室の椅子にすわった日本人たちに、銀の酒器でロシアのウォッカを飲ませた。この強い酒のおかげで、かれらはいっそう打ちとけた。艦長室で振舞いをうけたかれらは、甲板上にもどると、ロシアの水兵をつかまえては、手ぶりで話しかけた。
 
  • 日本人が描いたディアナ号 ウィキペディアより。
  • 老年のリコルド (Ricord = Рикорд: 1776 – 1855) ウィキペディアより。
  • ディアナ号によるゴローニンの世界一周航海。1808年から1811年 (青色)

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