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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS

2018/02/27 23:50:00 『菜の花の沖』の船と南蛮の船 (Ⅰ)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 学部のゼミ生や院生たちの論文指導を終えて、研究室の書棚を整理していると、積まれた書物の下から過去に読んだ小説が出てきました。司馬遼太郎の『菜の花の沖 (三)』です。
 年末の大掃除のとき、畳の下から出てきた過去の新聞の記事を読むような気持ちでぺージをめくりました。小説のタイトルは春の「菜の花」ですが、第三巻は夏の海から始まっています。
 
 嘉兵衛の海
 夏がすぎた。
 海は、季節とともに生きている。夏がおわるころ、さほどに風もないのにはるかな沖からながいうねり波が押しよせてきて、たらいの中のような瀬戸内 (せとうち)の海でも大いにさわぐ。土用波である。
「土用波の日にも、嘉兵衛の船が走っていた」
 と、兵庫の西出町あたりでは、評判になった。次弟嘉蔵が指揮する長慶丸が、玄海灘で土用波に遭っても寄港せず、馬関 (ばかん) 海峡の早瀬に乗って矢のように突っきってゆくのを、壇ノ浦 (だんのうら) あたりで寄港していた兵庫船がみておどろいたという。
「ああいうことをしていると、いずれひどい目にあうぞ」
 と、ひとびとが陰口をたたいたが、嘉兵衛もそのとおりだと思っている。


 軽妙な筆運びの作家のおもわくにはまって、そのまま読み続けました。
 約30年前に読んでいた作品だったので、私の癖ですが、あちこちに鉛筆で線が引いてありました。とくに和船と南蛮船の違いに、当時の読者、住田は興味を持ったようです。それは、大海を移動するとき、複数の帆をあやつって大型帆船を利用した南蛮人たちのようなヨーロッパ人とは異なり、鎖国時代の日本人は、ただ1つの帆をかかげる船で大海を航行したことです。

 司馬遼太郎の説明を借りてみましょう。
 
 辰悦丸
 帆柱というのは、本来、一本の自然木でできているものであったが、船が大型化するにつれて、そういう木を求めることが困難になった。
 このため、
「松明柱 (たいまつばしら)」
 とよばれるものが、一般化している。
(中略)
 幕府が、船の力が増すことをおそれ、すべて帆柱は一本ということに制限していることはすでに述べた。
 柱一本・帆一枚で遠くへゆくには、帆の風当たり面積を大きくせざるをえず、このため柱も長大にならざるをえない。ついに柱の長さは船の長さの九割ほどという、べらぼうなものになっていた。
 船体からみて、たかだかと天空に立っているこの柱は (中略) 非常の場合は斧 (おの) をふるって柱を伐 (き) りたおすというのが心得になっていた。とにかくこの柱のために和船の漂流というのが多かった。

 南蛮の船に比べて合理的でない、というのは残念に思いますが、その不利な条件を克服して大海原に乗り出した日本の瀬戸内の船乗りの勇気に惹かれます。 
 ともかく、瀬戸内海とは異なる荒波の日本海を江戸時代の船乗りは、帆柱一本の船で航海していたという現実を『菜の花の沖』で知り、その男たちに感情移入をしながら、古都の春の訪れを楽しんでいます。

 第三巻の「あとがき」は春で終わっています。灘の酒についておもしろいので紹介します。

 あとがき
 (略) 毎春二、三月のころに、灘五郷や池田、伊丹、大坂などの新酒をのせた船が西宮の湊に勢ぞろいするさまが書かれている。
 五六艘若(もし)くは七八艘申合せて、一時に西宮港を出船し、各(おのおの) 品川に先着を競争する、其(その) 出船(でふね) の式を行ふのである。
 (略)
 ついでながら、嘉兵衛の時代、主としてこの西宮湊から船積みされて江戸に送られる「下(くだ)り酒」は年間、じつに七十万樽といわれた。こんにちでもなお気が遠くなるほどの量といっていい。      
 昭和五十七年六月


 『菜の花の沖 (四)』以後も続けて紹介します。
  • 春の訪れを告げる黄色い菜の花。京都府立植物園の早春の草花展にて。
  • 大航海時代のポルトガルの帆船のレプリカ。リスボンの海軍博物館にて。
  • 江戸時代の北前船復元の写真。ウィキペディアより。

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