2018/01/20 18:10:00 『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (5)
- マカオのニュース
- 住田 育法
京都外国語大学にブラジルポルトガル語学科が創設された1967年に、『阿片戦争 (上) 滄海篇』と『阿片戦争 (中) 風雷篇』が11月に、『阿片戦争 (下) 天涯篇』が12月に刊行されました。私は過去、学生のころ、これを近所の貸本屋さんで借りて読みました。ベトナム戦争のころでした。その後、1973年に同じく3分冊で文庫本が発行され、私の本棚の隅に、上巻のみがありました。そして、今回、2015年に4分冊で新装版『阿片戦争 (一)』、『阿片戦争 (二)』、『阿片戦争 (三)』、『阿片戦争 (四)』が発行されていますので、これを購入して、読んでいます。
『阿片戦争』では残酷な戦場の場面が詳細に描かれています。死を恐れない、勇敢な猛将、関天培の最期は壮絶です。『阿片戦争 (三)』第五部の「戦旗墜つ」の場面です。
上陸した英軍は、むやみに小銃を撃ちながら、砲台をかけめぐっている。
関天培は軍刀の柄に唾をかけて、肩を怒らせた。
(略)
「よし!」
彼は大きくうなずいて、司令官の建物まで行き、その壁に自分の背をあずけた。
「死ぬにもつっかい棒が要る」
彼は笑った。
英兵の赤い帽子や金モールつきの軍服が、石垣や階段のまがり角にちらつきはじめた。
司令部の壁に、パシッパシッと、銃弾のはじける音がした。それにまじって鈍い音もきこえるが、おそらく泥塗りの脆 (もろ)いところに、弾ががめりこむのであろう。
(略)
関提督らしい高級将校の死体が指令部のまえで発見されたというしらせは、たちまち上陸英軍ぜんたいに伝わった。
関天培が闘って死ぬ場面は中国映画の締めくくりの場面でも見せています。音声スペイン語版です。しかし私は、以下のような平和な場面が好きです。もう一度、蓮維材の愛人、西玲 (シーリン)を陳舜臣の語りで味わってみましょう。
『阿片戦争 (四)』第五部
「小康」
西玲 (シーリン)は自分がなにをしているかわからなかった。
頬に血のひびきをかんじた。逞しい男の胸の鼓動である。それは、なじみぶかいリズムだった。
(連維材の胸だわ......)
蓮維材に抱かれているのだ。どうして?それがわからない。
三元里の夜が明けたことは、かすかにおぼえている。じっとしていたのか、それとも歩きまわったのか?からだの疲れ工合からすると、一と晩じゅう歩いたのかもしれない。
(略)
― そして、乾いたからだに、なにもつけていないのである。
「気がついたね?」
と、蓮維材がきいた。
西玲は男の胸から顔をはなし、まぶしそうに見上げた。
彼女はこくりとうなずいた。
今回とくに、マカオについての記述を興味深くながめています。新装版『阿片戦争 (三)』から『阿片戦争 (四)』に続く第五部では、マカオということばの登場は少なく、わずかに 16 でした。マカオが阿片戦争の戦場にはならなかったためでしょうが、陳舜臣の世界に浸りながら、平和な異種族混淆のマカオ空間の知的散策を楽しんでいます。
第五部
「奇襲の夜」
西玲のからだには、二つの民族の血が流れている。中国人として育ったが、貿易港の広州や外国人の多いマカオで暮らしてきた。彼女はつねに、どっちつかずの位置にいた。
マカオは、中国への復帰後の2005年に、東洋と西洋の文化が融合・共存してきた歴史地区が、ユネスコの世界遺産に登録されます。この東西文化の出会いが、19世紀の阿片戦争のときにも、マカオで起こっていました。さらに香港はイギリスの植民地となりますが、マカオはポルトガルの植民地としてではなく、居住と交易の許可を与えられた永久居留地として、阿片戦争以後も歴史を紡ぎました。その食文化のひとつが混ざり合いの文化の果実「アフリカンチキン (写真)」です。
さらに21世紀の今、中国返還後の香港とマカオをつなぐ巨大な港珠澳大橋 (Hong Kong–Zhuhai–Macau Bridge) (写真) が完成します。これもまさに、平和な交流の姿の反映でしょう。
第五部の最後の「小康」に、中国の林則徐 (写真) が敗戦の責任をとって新疆 (シンキョウ) へ流され、イギリスのチャールズ・エリオットも、国家よりも商人の利益を優先したと判断されてロンドンのポーマストン外相によって罷免されます。
『阿片戦争』では残酷な戦場の場面が詳細に描かれています。死を恐れない、勇敢な猛将、関天培の最期は壮絶です。『阿片戦争 (三)』第五部の「戦旗墜つ」の場面です。
上陸した英軍は、むやみに小銃を撃ちながら、砲台をかけめぐっている。
関天培は軍刀の柄に唾をかけて、肩を怒らせた。
(略)
「よし!」
彼は大きくうなずいて、司令官の建物まで行き、その壁に自分の背をあずけた。
「死ぬにもつっかい棒が要る」
彼は笑った。
英兵の赤い帽子や金モールつきの軍服が、石垣や階段のまがり角にちらつきはじめた。
司令部の壁に、パシッパシッと、銃弾のはじける音がした。それにまじって鈍い音もきこえるが、おそらく泥塗りの脆 (もろ)いところに、弾ががめりこむのであろう。
(略)
関提督らしい高級将校の死体が指令部のまえで発見されたというしらせは、たちまち上陸英軍ぜんたいに伝わった。
関天培が闘って死ぬ場面は中国映画の締めくくりの場面でも見せています。音声スペイン語版です。しかし私は、以下のような平和な場面が好きです。もう一度、蓮維材の愛人、西玲 (シーリン)を陳舜臣の語りで味わってみましょう。
『阿片戦争 (四)』第五部
「小康」
西玲 (シーリン)は自分がなにをしているかわからなかった。
頬に血のひびきをかんじた。逞しい男の胸の鼓動である。それは、なじみぶかいリズムだった。
(連維材の胸だわ......)
蓮維材に抱かれているのだ。どうして?それがわからない。
三元里の夜が明けたことは、かすかにおぼえている。じっとしていたのか、それとも歩きまわったのか?からだの疲れ工合からすると、一と晩じゅう歩いたのかもしれない。
(略)
― そして、乾いたからだに、なにもつけていないのである。
「気がついたね?」
と、蓮維材がきいた。
西玲は男の胸から顔をはなし、まぶしそうに見上げた。
彼女はこくりとうなずいた。
今回とくに、マカオについての記述を興味深くながめています。新装版『阿片戦争 (三)』から『阿片戦争 (四)』に続く第五部では、マカオということばの登場は少なく、わずかに 16 でした。マカオが阿片戦争の戦場にはならなかったためでしょうが、陳舜臣の世界に浸りながら、平和な異種族混淆のマカオ空間の知的散策を楽しんでいます。
第五部
「奇襲の夜」
西玲のからだには、二つの民族の血が流れている。中国人として育ったが、貿易港の広州や外国人の多いマカオで暮らしてきた。彼女はつねに、どっちつかずの位置にいた。
マカオは、中国への復帰後の2005年に、東洋と西洋の文化が融合・共存してきた歴史地区が、ユネスコの世界遺産に登録されます。この東西文化の出会いが、19世紀の阿片戦争のときにも、マカオで起こっていました。さらに香港はイギリスの植民地となりますが、マカオはポルトガルの植民地としてではなく、居住と交易の許可を与えられた永久居留地として、阿片戦争以後も歴史を紡ぎました。その食文化のひとつが混ざり合いの文化の果実「アフリカンチキン (写真)」です。
さらに21世紀の今、中国返還後の香港とマカオをつなぐ巨大な港珠澳大橋 (Hong Kong–Zhuhai–Macau Bridge) (写真) が完成します。これもまさに、平和な交流の姿の反映でしょう。
第五部の最後の「小康」に、中国の林則徐 (写真) が敗戦の責任をとって新疆 (シンキョウ) へ流され、イギリスのチャールズ・エリオットも、国家よりも商人の利益を優先したと判断されてロンドンのポーマストン外相によって罷免されます。