2017/12/17 16:00:00 アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く (4)
ブラジル紹介
住田 育法
江田島で生まれ、呉で育った私は海が大好きです。学生のとき、神戸港を出て 3度、当時の琉球に向けて客船で黒潮を下っています。3 度のうち 2 回は台湾に近い八重山諸島の石垣島まで行きました。
さて、アフロ・ラテンアメリカのことです。アフリカ大陸に張り出したヨーロッパ最西端のポルトガルは、その地理的条件から、1415年に始まった大航海時代をリードしました。実は、その1415年以前の1317年にはすでに、ポルトガル海軍が創設されています。今年700周年を迎えます。コインブラ大学を創設したディニス王の治世 (1279 – 1325年)でした (写真)。ヨーロッパにとって大西洋のかなたにある古都リオが栄えることができたのは、そうしたポルトガルの海軍力のお陰です。大型帆船による航海術や大砲を駆使して、大海原を航行するポルトガルの貿易船を守ったのです。これには黒人奴隷貿易船も含まれていました。16世紀に始まる植民地時代にリオは、要塞都市として栄えます。内陸部のミナスジェライスで1693年に金が発見され、ブームとなった18世紀以降、この地に、アフリカから大量の黒人たちが奴隷として到来しました。黒人がアフリカからブラジルへ、金がブラジルからヨーロッパへ、ヨーロッパからブラジルへ工業製品が運ばれるという、三角貿易による大西洋 (写真) システムの完成です。
大西洋に向かってリオの海岸に立つ (写真)と、海のかなたのアフリカ大陸を想像できます。この気持ちは黒い肌の人たちも同じだったのでしょう。海岸にはよく黒人宗教の祈りの品が置かれています。
さてこのブログ「アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く」の(1)でも述べたオーストリアの文豪シュテファン・ツヴァイク (Stefan Zweig) は、リオの散策が大好きだと書いていますが、南米との出会いを以下のようにその著『マゼラン』で説明しています。海の好きな私が気に入っている説明です。大航海時代からの時の流れを思いながら、21世紀の今、そのマゼランの海の空間を感じてみましょう。
私は昨年 (1936年) はじめて、長い間望んでいた南アメリカ旅行の機会を得た。ブラジルでは地上でもっとも美しい風景のいくつかが私の待ち受け、アルゼンチンでは精神の友人たちとの比類ない会合が私を待っていることを知っていた。この予感がすでに、航海をすばらしいものとしてくれた。そして、考えうるすべての快適なものが旅行中ついてまわった。靜かな海、広々とした快速船の上での完全なくつろぎ、すべての束縛や日々の煩労からの解放、私はこの航海の、天国のような日々を、測り知れぬほどに享受した。しかし、七日目か、八日目のことだったが、私は不意に腹立たしい焦慮にとらえられた。いつも繰返し青い空、青い靜かな海!このにわかな興奮の渦中にあって、航海の時間はあまりにおそく過ぎてゆくように思えた。私は心中、一刻も早く目的地に着くことを願った。実際、時計の針が毎日倦まず進んでくれることが何よりの楽しみとなり、不意にこの無為の、生ぬるい、投げやりの享受が私の心を悩ましはじめた。同じ人間の同じ顔が私を退屈させ、甲板作業の単調さは、その規則的に繰返される静穏さのために、かえって神経をいらだたせた。ひたすら先へ先へ!もっと速く、もっと速く!突然私は、この美しい、心地よい、楽しい快速船が、十分速いとは思えなくなった。
私がいらだたしい状態を意識したのは、おそらく一瞬にすぎなかったろうが、それでもう私は自分がすっかり恥ずかしくなった。私は腹立たしくなって自分にこう言った。今、君はすべての船のうちでもっとも安全な船に乗って、この上ない美しい航海の旅に出ているのだ。(略)
私は大自然に対して最初に戦いをいどんだ、あの (大航海時代の) 人々のことをもっとくわしく知り、少年時代に私を感動させた、未知の大洋へ乗り出した最初のころの航海に関する叙述を読んでみたい思いに駆られた。(略) ただ一つだけがこの上なく私を感動させた。それは、世界探検史上、もっとも大規模な事業を果たしたと思われる男、すなわちフェルディナント・マゼランの偉業であった。彼は五隻のとるに足らぬ小帆船でセビーリャから出航し、全地球を一周した――おそらく人類史上もっともすばらしいオデュッセイアと言えるであろうが、堅い決意を抱いて出帆した265名の男たちのうち、わずか18名のみが朽ちはてた船に乗って故郷へ帰りついたが (そこに彼の姿はなかった)、その船のマストには偉大な勝利の旗が高くかかげられていた。これらの書物には、彼についてあまり多くのことが伝えられてはいなかった。
さて、アフロ・ラテンアメリカのことです。アフリカ大陸に張り出したヨーロッパ最西端のポルトガルは、その地理的条件から、1415年に始まった大航海時代をリードしました。実は、その1415年以前の1317年にはすでに、ポルトガル海軍が創設されています。今年700周年を迎えます。コインブラ大学を創設したディニス王の治世 (1279 – 1325年)でした (写真)。ヨーロッパにとって大西洋のかなたにある古都リオが栄えることができたのは、そうしたポルトガルの海軍力のお陰です。大型帆船による航海術や大砲を駆使して、大海原を航行するポルトガルの貿易船を守ったのです。これには黒人奴隷貿易船も含まれていました。16世紀に始まる植民地時代にリオは、要塞都市として栄えます。内陸部のミナスジェライスで1693年に金が発見され、ブームとなった18世紀以降、この地に、アフリカから大量の黒人たちが奴隷として到来しました。黒人がアフリカからブラジルへ、金がブラジルからヨーロッパへ、ヨーロッパからブラジルへ工業製品が運ばれるという、三角貿易による大西洋 (写真) システムの完成です。
大西洋に向かってリオの海岸に立つ (写真)と、海のかなたのアフリカ大陸を想像できます。この気持ちは黒い肌の人たちも同じだったのでしょう。海岸にはよく黒人宗教の祈りの品が置かれています。
さてこのブログ「アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く」の(1)でも述べたオーストリアの文豪シュテファン・ツヴァイク (Stefan Zweig) は、リオの散策が大好きだと書いていますが、南米との出会いを以下のようにその著『マゼラン』で説明しています。海の好きな私が気に入っている説明です。大航海時代からの時の流れを思いながら、21世紀の今、そのマゼランの海の空間を感じてみましょう。
私は昨年 (1936年) はじめて、長い間望んでいた南アメリカ旅行の機会を得た。ブラジルでは地上でもっとも美しい風景のいくつかが私の待ち受け、アルゼンチンでは精神の友人たちとの比類ない会合が私を待っていることを知っていた。この予感がすでに、航海をすばらしいものとしてくれた。そして、考えうるすべての快適なものが旅行中ついてまわった。靜かな海、広々とした快速船の上での完全なくつろぎ、すべての束縛や日々の煩労からの解放、私はこの航海の、天国のような日々を、測り知れぬほどに享受した。しかし、七日目か、八日目のことだったが、私は不意に腹立たしい焦慮にとらえられた。いつも繰返し青い空、青い靜かな海!このにわかな興奮の渦中にあって、航海の時間はあまりにおそく過ぎてゆくように思えた。私は心中、一刻も早く目的地に着くことを願った。実際、時計の針が毎日倦まず進んでくれることが何よりの楽しみとなり、不意にこの無為の、生ぬるい、投げやりの享受が私の心を悩ましはじめた。同じ人間の同じ顔が私を退屈させ、甲板作業の単調さは、その規則的に繰返される静穏さのために、かえって神経をいらだたせた。ひたすら先へ先へ!もっと速く、もっと速く!突然私は、この美しい、心地よい、楽しい快速船が、十分速いとは思えなくなった。
私がいらだたしい状態を意識したのは、おそらく一瞬にすぎなかったろうが、それでもう私は自分がすっかり恥ずかしくなった。私は腹立たしくなって自分にこう言った。今、君はすべての船のうちでもっとも安全な船に乗って、この上ない美しい航海の旅に出ているのだ。(略)
私は大自然に対して最初に戦いをいどんだ、あの (大航海時代の) 人々のことをもっとくわしく知り、少年時代に私を感動させた、未知の大洋へ乗り出した最初のころの航海に関する叙述を読んでみたい思いに駆られた。(略) ただ一つだけがこの上なく私を感動させた。それは、世界探検史上、もっとも大規模な事業を果たしたと思われる男、すなわちフェルディナント・マゼランの偉業であった。彼は五隻のとるに足らぬ小帆船でセビーリャから出航し、全地球を一周した――おそらく人類史上もっともすばらしいオデュッセイアと言えるであろうが、堅い決意を抱いて出帆した265名の男たちのうち、わずか18名のみが朽ちはてた船に乗って故郷へ帰りついたが (そこに彼の姿はなかった)、その船のマストには偉大な勝利の旗が高くかかげられていた。これらの書物には、彼についてあまり多くのことが伝えられてはいなかった。
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ジェノヴァ人マヌエル・ペサーニャがポルトガル海軍提督に就任して700周年。コインブラ大学を創設したディニス王の治世 (1279 – 1325年)。
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ブラジルをまっすぐ東に進むとアフリカ大陸が広がっています。
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要塞で挟まれた「海峡」の左手のグアナバラ湾と右に広がる大西洋。