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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS

2017/10/28 01:20:00 アフロ・ラテンアメリカの古都リオを歩く (2)

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted by住田 育法
 リオ中心街のルイス・デ・カモンイス通りを歩いていると、週末午後のブラジル民衆音楽の路上演奏会準備の人たちに遭遇 (写真)。夜が更けると、セントラルステーションに近いこの界隈は、ちょっとあぶない地区になるそうですが、まだ大丈夫でした。
 ブラジルの国民音楽の地位を獲得することになるサンバは、19世紀末の準備期間を経て20世紀初頭にリオの中心街で生まれました。ちょうど100年まえの1917年でした。いまだリオの街が、金持ちの舘の地区と貧しい黒人の住居を区別し終える前のことでした。中心街のプラッサ・オンゼ(第11広場)の近くにある北東部地方のバイーアから移ってきた黒人女性たちの店に、黒人の作曲家のピシンギーニャ(1898 - 1973年)やドンガ(1891 - 1974年)らが集まり、楽器を演奏したり、曲を作ったりしていたそうです。そのとき生まれた「ペロ・テレフォーネ(電話で)」が最初の正統サンバだと言われています。やがてそのサンバが、貧しい人が住む丘の低所得者層の地区や郊外へと広がったのです。
 中心街のリオ・ブランコ通りからプラッサ・キンゼ(第15広場)に向かう途中に、黒人の演奏家ピシンギーニャの像 (写真) があります。古くから買い物に便利なオウヴィドール通りを入ったところです。この辺りに彼はよく現われていたそうです。
 ちょうど今から170年まえにリオで生まれたブラジル民衆音楽の母シキーニャ (写真) について述べておきましょう。
 シキーニャは、ブラジル独立から四半世紀後の1847年10月17日にリオに生まれ、ヴァルガス革命5年目の1935年2月28日に、リオで一生を終えたカリオカです。その87年の生涯は、政治的独立を果たした直後のブラジルが、ヨーロッパとは違う固有の文化を求めて苦悩し、やがて誇りを獲得することになるブラジルの近代国家形成期に重なっています。
彼女は、ヨーロッパの洗練された音楽の伝統と、ブラジル黒人のダイナミックな民族音楽を融合させた、ブラジルの民衆音楽の創始者の一人として、首都リオを舞台に、華々しく活躍したのです。
  母親は黒人の血の入った貧しい混血女性でした。しかし、エリート階層の父親が正式に子としての認知を行い、母親とともに幸せな幼年期を送りました。
  リオの中心街の舘に住み、妹や弟とともによく学びよく遊び、日曜日には、ミサの後、舘のそばのパセーイオ・プブリコ庭園で吹奏楽団の演奏をよく聴いていたそうです。やがてカトリックの神父が家庭教師として、国語であるポルトガル語や外国語のフランス語、ラテン語、歴史地理などを教え始め、父親はそのとき、オーケストラの指揮者と契約して、彼女にピアノを正式に学ばせたそうです。若きピアニストのシキーニャは、11歳になった1858年のクリスマスのパーティーのとき、伯父エリゼウの指導で、生涯を通じて発表した2,000を超える音楽作品の最初の一曲を披露します。
 小さな音楽家シキーニャの誕生でした。
  • リオ中心街路上民衆音楽演奏会の準備風景
  • 中心街トラヴェッサ・ド・オウヴィドールのピシンギーニャ像と
  • ブラジル民衆音楽の母と呼ばれるアフロ・カリオカのシキーニャ

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