2019/04/13 22:10:00 ポルトガル語圏研究のすすめ (7)
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ポルトガル語圏研究のすすめ(7)
はるか400余年の時空の「旅」を、フロイス著『日本史』と共に、もう少し楽しんでみましょう。27年前の1992年に、NHKの大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』の監修を松田毅一先生がつとめて、第45回「地球は丸い」ではフロイスと信長の対話が描かれています。
今回のブログで扱うのは信長の時代の後です。具体的な「時」は1587年です。学生の皆さんに伝えたいのは歴史家の豊かな想像力です。
本学付属図書館所蔵のフロイス自筆署名の古文書に記されている年が1587年です (写真)。そしてこの1587年には、豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が発せられ、バテレンたるpadre (カトリックの司祭の意) フロイスにとっては、生死にかかわる一大事となっていたのです。
本学付属図書館は、1975年4月10日に日本関係イエズス会古文書を4点購入しています。この古文書を、故松田毅一先生の指導のもと、川崎桃太先生、故ろじゃ・めいちん先生、そして、筆者の住田が共同して、解題・翻訳などを行いました。筆者の担当は、文献学の専門家である英国人のめいちん先生と協力して、ルイス・フロイスの文書の写本文字を読み、活字に表記する (写真) ことでした。虫喰いの箇所は、[ ] 内に入れて示しました。内容は『研究論叢』第19号 (1979年)、第20号 (1980年)、第21号 (1981年) 、第22号 (1982年) に「京都外国語大学付属図書館所蔵日本関係イエズス会文書」と題して掲載されています。
川崎名誉教授は、『フロイスの見た戦国日本』で文書について次のように書いています。
パードレと呼ばれたこの一団は、ヨーロッパの大学で学んだ当時の知識人たちから編成されていた。(略) 現在日本の一部の大学図書館に、稀覯(きこう)本として架蔵されている『エボラ書簡集』や『コインブラ書簡集』は、往時の代表的刊行物の名残である。
(略)
巡察師ヴァリニャーノが初めて来日したのは、1579年(天正7) のことであった。(略)
1582年(天正10) 、巡察師に伴われてヨーロッパに旅立つことになる、四人の少年使節がいた。
ヴァリニャーノが二度目に来日したのは、8年後の1590年(天正18) のことであった。ポルトガル、スペイン、イタリアを歴訪し、それらの国の国王、諸侯から熱烈な歓迎を受けた使節たちは、すでに逞しい青年に成長していた。(略)
伴天連追放令が発布されている最中での巡察師の訪日である。(略)
その二年後の1592年(文禄元)、ヴァリニャーノはマカオに帰還した。フロイスは彼の秘書となって同行した。そのときフロイスの手には、彼が心血を注いでそれまでに書き上げた『日本史』の原稿が握られていた。一刻も早くそれらが印刷されて、ヨーロッパで読まれることを彼は念願していたからである。しかし、巡察師の彼への態度は冷たかった。(略) ヴァリニャーノは1598年(慶長3) 、三度目の来日を果たした。到着した一月後、太閤が世を去り、長い付き合い相手であったフロイスもその前年長崎に葬られていた。偉才ヴァリニャーノは1606年(慶長11) マカオで病没した。
このように400年余り前の経緯を遡ると、本学付属図書館所蔵の文書の存在が、奇跡に近い幸運に思えてきます。『研究論叢』第19号 (1979年)の内容の一部を紹介しましょう。
第一文書は、その内容、およびローマ・イエズス会文書館に現存する別の写本から、ルイス・フロイスによる1587年度第二日本年報であると断定できる (略)
文書は、1587年8月5日付で、平戸(諸島) から、ルイス・フロイスがローマのイエズス会総長クラウディア・アクアヴィーヴァに宛てて執筆した1587年度の第二日本年報の第二、もしくは第三便とみなされるもので、本文は同僚が清書し、フロイスが署名を付したOliginalia である、と言うことができる。(略)
1592年10月に日本を離れ、1595年まで約三ヵ月間、南シナのマカオに住んだ。(略) 長崎に戻り、(略) 1597年3月15日付で「二十六聖人殉教事件」に関する長文の特別報告書を書きあげた後、同年7月8日(慶長2年5月27日)、六十五歳をもって病いのため長崎で息をひきとった。
少し内容を紹介しましょう。この付属図書館所蔵のルイス・フロイス執筆日本関係イエズス会文書 (1587年8月5日付、平戸発信) は、『フロイス 日本史 8』訳者 松田毅一 川崎桃太 1978年12月20日発行 中央公論社の158~167ページの一部に一致します。
第一文書訳文
地上の教会がつねに対立する道を辿ることになりましたのは、デウスの御命令によることであり、初代教会の始めから、その永遠の御知恵の揺がぬ決定に負うものであります。(略)
昨年、副管区長 (ガスパル・コエリョ) 師は都から帰ってこられ、豊後に着くと、立派な贈物を携えて、(豊後国主の) 嫡子義統 (ヨシムネ) を訪れ、さらにその母堂および妻子、弟たちにも逢いましたが、義統は (これにつき) 司祭に対しては深い満足の意を表しました。その後司祭は多くの伝言を通じて義統に、自分の主君である関白殿の特許上 (に書かれていること) を実行に移すようにと交渉しましたが、(その関白殿の特許は、) デウスの教えが何人にも妨害されることなく、当 (日本) 地方のあらゆる国々において宣教されることを許可する (との内容でした)。司祭は、(イエスズ) 会としては何びとをも (キリシタン宗門に改宗するよう) 強制する考えはなく、その特許状の写しを教会の戸口に掲げておく(に留める) ので、嫡子は、自発的にキリシタンになりたいという者が出た場合、それを妨げないようにと (嫡子) に申されました。(略)
NHKの大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』第45回「地球は丸い」では既述のとおりフロイスと信長の対話が描かれていますね。そして、フロイス死後の17世紀のバテレンの姿に想像力を発揮した日本文学の傑作が遠藤周作の『沈黙』でした。この作品に基づいた米国映画『沈黙―サイレンス―』が2017年に日本で公開されました。1587年から430年経っています。
最後に、本学ラテンアメリカ研究所において日本関係イエズス会古文書研究会 (仮)をスタートさせ、第1回「フロイスを読む」を2019年3月13日(水)に筆者、住田が発表したことをお知らせします。
はるか400余年の時空の「旅」を、フロイス著『日本史』と共に、もう少し楽しんでみましょう。27年前の1992年に、NHKの大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』の監修を松田毅一先生がつとめて、第45回「地球は丸い」ではフロイスと信長の対話が描かれています。
今回のブログで扱うのは信長の時代の後です。具体的な「時」は1587年です。学生の皆さんに伝えたいのは歴史家の豊かな想像力です。
本学付属図書館所蔵のフロイス自筆署名の古文書に記されている年が1587年です (写真)。そしてこの1587年には、豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が発せられ、バテレンたるpadre (カトリックの司祭の意) フロイスにとっては、生死にかかわる一大事となっていたのです。
本学付属図書館は、1975年4月10日に日本関係イエズス会古文書を4点購入しています。この古文書を、故松田毅一先生の指導のもと、川崎桃太先生、故ろじゃ・めいちん先生、そして、筆者の住田が共同して、解題・翻訳などを行いました。筆者の担当は、文献学の専門家である英国人のめいちん先生と協力して、ルイス・フロイスの文書の写本文字を読み、活字に表記する (写真) ことでした。虫喰いの箇所は、[ ] 内に入れて示しました。内容は『研究論叢』第19号 (1979年)、第20号 (1980年)、第21号 (1981年) 、第22号 (1982年) に「京都外国語大学付属図書館所蔵日本関係イエズス会文書」と題して掲載されています。
川崎名誉教授は、『フロイスの見た戦国日本』で文書について次のように書いています。
パードレと呼ばれたこの一団は、ヨーロッパの大学で学んだ当時の知識人たちから編成されていた。(略) 現在日本の一部の大学図書館に、稀覯(きこう)本として架蔵されている『エボラ書簡集』や『コインブラ書簡集』は、往時の代表的刊行物の名残である。
(略)
巡察師ヴァリニャーノが初めて来日したのは、1579年(天正7) のことであった。(略)
1582年(天正10) 、巡察師に伴われてヨーロッパに旅立つことになる、四人の少年使節がいた。
ヴァリニャーノが二度目に来日したのは、8年後の1590年(天正18) のことであった。ポルトガル、スペイン、イタリアを歴訪し、それらの国の国王、諸侯から熱烈な歓迎を受けた使節たちは、すでに逞しい青年に成長していた。(略)
伴天連追放令が発布されている最中での巡察師の訪日である。(略)
その二年後の1592年(文禄元)、ヴァリニャーノはマカオに帰還した。フロイスは彼の秘書となって同行した。そのときフロイスの手には、彼が心血を注いでそれまでに書き上げた『日本史』の原稿が握られていた。一刻も早くそれらが印刷されて、ヨーロッパで読まれることを彼は念願していたからである。しかし、巡察師の彼への態度は冷たかった。(略) ヴァリニャーノは1598年(慶長3) 、三度目の来日を果たした。到着した一月後、太閤が世を去り、長い付き合い相手であったフロイスもその前年長崎に葬られていた。偉才ヴァリニャーノは1606年(慶長11) マカオで病没した。
このように400年余り前の経緯を遡ると、本学付属図書館所蔵の文書の存在が、奇跡に近い幸運に思えてきます。『研究論叢』第19号 (1979年)の内容の一部を紹介しましょう。
第一文書は、その内容、およびローマ・イエズス会文書館に現存する別の写本から、ルイス・フロイスによる1587年度第二日本年報であると断定できる (略)
文書は、1587年8月5日付で、平戸(諸島) から、ルイス・フロイスがローマのイエズス会総長クラウディア・アクアヴィーヴァに宛てて執筆した1587年度の第二日本年報の第二、もしくは第三便とみなされるもので、本文は同僚が清書し、フロイスが署名を付したOliginalia である、と言うことができる。(略)
1592年10月に日本を離れ、1595年まで約三ヵ月間、南シナのマカオに住んだ。(略) 長崎に戻り、(略) 1597年3月15日付で「二十六聖人殉教事件」に関する長文の特別報告書を書きあげた後、同年7月8日(慶長2年5月27日)、六十五歳をもって病いのため長崎で息をひきとった。
少し内容を紹介しましょう。この付属図書館所蔵のルイス・フロイス執筆日本関係イエズス会文書 (1587年8月5日付、平戸発信) は、『フロイス 日本史 8』訳者 松田毅一 川崎桃太 1978年12月20日発行 中央公論社の158~167ページの一部に一致します。
第一文書訳文
地上の教会がつねに対立する道を辿ることになりましたのは、デウスの御命令によることであり、初代教会の始めから、その永遠の御知恵の揺がぬ決定に負うものであります。(略)
昨年、副管区長 (ガスパル・コエリョ) 師は都から帰ってこられ、豊後に着くと、立派な贈物を携えて、(豊後国主の) 嫡子義統 (ヨシムネ) を訪れ、さらにその母堂および妻子、弟たちにも逢いましたが、義統は (これにつき) 司祭に対しては深い満足の意を表しました。その後司祭は多くの伝言を通じて義統に、自分の主君である関白殿の特許上 (に書かれていること) を実行に移すようにと交渉しましたが、(その関白殿の特許は、) デウスの教えが何人にも妨害されることなく、当 (日本) 地方のあらゆる国々において宣教されることを許可する (との内容でした)。司祭は、(イエスズ) 会としては何びとをも (キリシタン宗門に改宗するよう) 強制する考えはなく、その特許状の写しを教会の戸口に掲げておく(に留める) ので、嫡子は、自発的にキリシタンになりたいという者が出た場合、それを妨げないようにと (嫡子) に申されました。(略)
NHKの大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』第45回「地球は丸い」では既述のとおりフロイスと信長の対話が描かれていますね。そして、フロイス死後の17世紀のバテレンの姿に想像力を発揮した日本文学の傑作が遠藤周作の『沈黙』でした。この作品に基づいた米国映画『沈黙―サイレンス―』が2017年に日本で公開されました。1587年から430年経っています。
最後に、本学ラテンアメリカ研究所において日本関係イエズス会古文書研究会 (仮)をスタートさせ、第1回「フロイスを読む」を2019年3月13日(水)に筆者、住田が発表したことをお知らせします。