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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS

2019/04/08 16:30:00 ポルトガル語圏研究のすすめ (6)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 21世紀の今から400年余り前の時空を、フロイス著『日本史』と共に、グローバルに振り返ってみましょう。

 京都外国語大学名誉教授川崎先生に勧められた以下の文献を参考にしました。

 川崎桃太著『フロイスの見た戦国日本』2003年2月25日発行、中央公論社。

 1563年にフロイスは日本の西九州に上陸し、1665年に京都に到着し、足利義輝将軍の死に出会っています。ポルトガルはマノエル・オリヴェイラの名画『NON』が描くアフリカで不運な戦死を遂げたドン・セバスティアン王 (1557 – 78年) の時代でした。この国王の死によって、王位継承者を欠くポルトガルは、1580年にスペインに併合されることになります。南米の植民地のブラジルでは、このとき、スペインの敵のオランダがブラジルを攻撃し、1630年から1654年まで北東部地方の一部が占領されました。

 16世紀末の空間は、東アジアの日本やヨーロッパのポルトガル、北アフリカのアルカセル・キビール、新世界ブラジルなどにつながっています。

 それでは、応仁の乱以後の永い戦乱を経て、平和が訪れていた都 (みやこ) と呼ばれた京都をフロイスの目で覗いてみましょう。

 『フロイス 日本史 3』訳者 松田毅一 川崎桃太 1978年2月20日発行 中央公論社。
 第18章 = 原文 第一部57章 (1565年)、227 - 235ページ~。

 (本年 = 1565年) 正月 (しょうがつ) 、すなわち、第一月を意味する日本の新年の祭りは、(我らの暦の) 2月1日にあたった。(略) この正月祭にあたって、(公方様) は来訪者に対して一言も話さない。もっとも高貴な人たちには、彼は盃 (さかずき) を与え、他の者は彼の前で頭を地面まで下げて彼にお辞儀をし、ただちに転じて退出する。そしてより下級の者に対しては、(公方様) は姿を見せない。彼らはたとえ良き高価な贈物を携えても、決して彼の部屋に通されはしない。そして上述の方法によって、奥方 (ライーニャ) (すなわち) 彼の夫人も、彼の母堂も一つの離れた宮殿において (人々から) 訪問を受けた。
 (中略)
 人々は彼らにそれを断ることができず、そこへ入って来た異教徒の婦人たちのほとんどの人は跪き、祭壇の方に向かって両手を挙げ、我らの主なるキリストの聖像に礼拝した。その夜、また翌日になり、キリシタンの兵士や貴人たちは、祭壇に別れを告げて家路についた。
 ガスパル・ヴィレラ師は、上京 (かみぎょう) において、公方様、または日本の最高の君主である内裏 (だいり) の宮殿の近くで、数ヵ月、デウスの教えを説くために一屋を借りることができぬものかと考えた。しかし、彼はこれを3年來、成就せんものと試みたが、この計画に反対する種々の障害があったために、ついに成功するに至らなかったのである。


  『フロイス 日本史 3』 中央公論社。
 第23章 = 原文 第一部65章 (1565年)、308 - 316ページ~。

 復活祭が過ぎると、ガスパル・ヴィレラ師は、新たな熱意をもって、上京 (かみぎょう) に一軒の家を借りようと努めた。(略)
 都には、内裏 (だいり) に次ぐ日本での最高の順位である公方様 (足利義輝) が住んで居た。(略)
 「それゆえ、私は殿下のお供を仕り、あの世へ先立ちます」と言った。そしてただちに突如、腹を十字に断ち切ったので、臓腑が流出し、彼は(公方様) の面前で死に果てた。
 公方様は自らの生涯が終わったことを認め、折から昼食をとろうとしていたところなので、食事を持参するようにと命じ、自分の前にいた殿たち全員の掌に、箸 (はし) をもって一日の米飯と肴 (さかな) を与え、さらにおのおのに対し、大いなる愛情の言葉とともに盃 (さかずき) をとらせたので、一同は大声をあげて泣き、かつ涙を流した。(略)

 公方様は元来、はなはだ勇猛果敢な武士であったので、長刀 (なぎなた) を手にし、まずそれで戦い始めたが、その際彼は数名を傷つけ、他の者たちを殺戮したので、一同はきわめて驚嘆した。(略)

 近世の京都に展開するこのあとの続きは、ぜひ書物『フロイス 日本史』(中央公論社) で!
  • スペインからの1640年再独立の記念碑、リスボン中心部リベルダーデ通りにて、筆者撮影。
  • 全12巻の『フロイス 日本史』 中央公論社の第1巻と第12巻
  • 足利義輝の木像が祀られている京都の等持院霊光殿、筆者撮影。

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