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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS

お知らせ

2019/02/24 11:10:00 グローバルな街路を歩く(2)

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  • Posted by住田 育法
 2月23日土曜日の午後、梅かおる春の陽気に誘われて京都御苑を散策しました。そして広場が敷石ではなく砂利 (じゃり) で覆われている (写真) ことに、改めて欧米文化圏の都市との違いを意識しました。古都リオやイベリア半島のリスボン、また中国のマカオ (写真) でも、広場は石畳や敷石がふつうです。
 もっとも前回の「グローバルな街路を歩く(1)」でも述べたように、古都京都でも、神社や仏閣の門前や坂道は石畳で整備されています (写真)。

 砂利のことで思い出されるのは、国歌の以下の部分です。

 さざれ石の巌 (いわお) となりて

 砂利の地面は、歩くとき小石が靴の中に入ります。自転車だとうまく前に進めません。車だとタイヤとすれて騒音がします。しかし、「こまかな石から始まって岩となる」という国歌のような「進歩」の意味で理解すると、なるほどとも思えます。
 
 石と土の関係では、本学でも教壇に立っていた東京外国語大学名誉教授の金七先生が『ポルトガル史』の中で次のように説明しています。

 ヨーロッパ文化は石の文化だと言われる。教会・城・家屋から道路・橋・水道・水車に至るまで 広く石材が利用され、石の持つ耐久性ゆえにヨーロッパには古代、中世以来の建物が今も数多く残されている。ポルトガルもその例外ではない。石材として主に花崗岩と片岩が利用されているが、しかし同じポルトガルでも南部ではアラブの影響もあって建物には粘土が多く使われている。オルランド・リベイロは、建材としての石と粘土に着目して、北を石の文化圏、南を粘土の文化圏と規定した。
 
(金七紀男『ポルトガル史』彩流社、1996。18頁)

 龍安寺の石庭や御苑の砂利を思うと、古都京都は、「石と砂」の文化圏でしょう。建物を考えると「木と紙」の文化圏と言えます。
 
 ところで、アラブの粘土は、太陽光線を反射させるタイルに一致します。大航海時代、南蛮人と呼ばれたポルトガル人が、そのタイルの文化であるアラブ文化、つまりペルシャの陶器のスタイルを日本に伝えて「織部」が生まれた、という意見があります。陸のシルクロードではなく、大洋を渡ってヨーロッパ人であるポルトガル人が持ち込んだとのです。
  • 京都市民から「京都御所」と親しみを込めて呼ばれる京都御所を囲む御苑の広場の砂利 (じゃり) 。
  • マカオの大堂 (カテドラル) 前広場は敷石が美しい。1622年頃建築された大堂は、当時は土とワラでできたレンガ造り。1780年に再建。
  • ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督夫妻と歩いた京都知恩院の石畳の坂道。

2019/02/20 11:10:00 グローバルな街路を歩く(1)

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  • Posted by住田 育法
 古都京都のあちこちで梅が満開を迎え、季節の変化を感じながら街路を歩く楽しさが増してきました。梅は中国から渡ってきた植物です。中国語で次のように紹介されています。梅 (学名:Prunus mume)、是蔷薇科杏属的落叶乔木、有时也指其果实或花。原产于中国、后来發展到韩国与日本等地。そしてこの2月、旧正月の春節の連休でたくさんの中国からの観光客の皆さんが入洛していました。

 過去、中国のマカオ滞在中にポルトガル人研究者と中国の都市について話題にしたことがありました。そのときポルトガル人が、「上海には街路 (rua) があるが、北京には大通り (avenida) しかない」と語っていたことが思い出されます。ポルトガルの友人は西洋化した中国を好んだようです。中国の西安をモデルにしたのが平安京ですから、京都にも街路 (rua)はありませんでした。しかし今は、車道と平行に歩道 (calçada) が造られています。外国からの観光客が京都を楽しむ空間にこの街路 (rua) があります。大通りではない、錦小路通や清水寺参拝道の二年坂・三年坂などが人気ですね。

 ポルトガル人のアジアの拠点として大航海時代からの歴史を紡ぐマカオも、その魅力は旧市街の散策です。東洋と西洋の出会いの街としてユネスコ世界遺産に登録されてのち、街並の整備が進み、歩く楽しみが増しています。写真はモンテ砲台への坂道 (Calçada da Monte) です。

 とかく治安のことが話題となる南米ブラジルの古都リオの旧市街も、18世紀のゴールドラッシュ以降、おしゃれな街路が造られてきました。とくに19世紀末から20世紀にかけての近代化によって、その美しい雰囲気が定着してきました。写真は外国人観光客で賑わう古都リオの中心街オウヴィドール通 (Rua do Ouvidor) です。歴史のにおいが漂う石畳の街路がすてきです。

 歩く街路の魅力は、人々の飾らない普段のコミュニケーションでしょう。

 京都外国語大学で学ぶことになった皆さん、今、本学で学生生活を送っている皆さん。ぜひ、古都京都の街路を歩いて、そのグローバルな魅力を味わってください。
  • アジアの南蛮空間マカオ旧市街の坂道 (Calçada da Monte)
  • 南米ブラジルの古都リオのグローバルな街路
  • 世界中から観光客を集める祇園祭りの街路

2018/03/09 23:30:00 『菜の花の沖』のことば (3)

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  • Posted by住田 育法
 高田屋嘉兵衛のことばである日本語によって発せられる号令が、ロシア人の乗組員に通じたそうです。
 この不思議な現象は、暴風雨のもとで、しかも座礁の危険のある状況のなかで起こりました。『菜の花の沖 (六)』の「北へ」の箇所です。

 しかしその号令を発している男が、艦長でも当直将校でもなく、捕虜にしたばかりの日本人であるということに、ロシアの水兵たちは違和感を抱かなかったのであろうか。
 抱かなかったらしいことは、何人もが勇敢にマストに登りはじめたことでも察せられる。おそらくかれらは、前日から嘉兵衛を見て、ごく自然に「隊長」とよんでいたことでもわかるように、海を棲処 (すみか) としてすぐれた指揮能力をもつ男ということが、かんで理解できていたのかとおもえる。
 

 嘉兵衛の相手のリコルドもすごい。

 リコルドは、異国の人名、地名、あるいは物の名をきけば、すぐ憶えられるという異能をもっていた。
 嘉兵衛と部屋を同じくしていて、嘉兵衛が持っている日本語が、単語のかたちでリコルドの脳にしみついてゆく。
 嘉兵衛も、リコルドが喋るロシア語を憶えようとしていた。両人は、日本語やロシア語というそれぞれ何千万人が使っている普遍的な言語世界があるとは考えず、嘉兵衛はリコルド・コトバとしてロシア語を、一方、リコルドは嘉兵衛 (かこ)・コトバとして日本語をおぼえようとした。
 互いに、単語だけで十分だった。単語をいくつかならべれば、相手は勝手に頭の中で文脈をつくってつなぎあわせるように努力するのである。それには、日常起居をともにしているということが、有利だった。


 ことばは平和のシンボルですが、南蛮人と呼ばれたポルトガル人が伝えた鉄砲は、国内統一という「パックス」をもたらしました。しかしその火縄銃は、当時すでに時代遅れであったと、『菜の花の沖』で司馬遼太郎が記述しています。
 
 嘉兵衛はロシアのコザック兵が持つ小銃を観察していたようです。
 
 火縄は用ひず、火燧 (ひうちいし) の由に候。

 この嘉兵衛の観察に続けて、日本に鉄砲が伝来した1543年の前の1515年に歯車式激発法が発明され、この原理に火打石が用いられ、全ヨーロッパにまたたくうちに広まったと、小説は綴っています。この武力差でもし闘えば、日本は一瞬にして敗北したでしょう。

 日本の火縄銃は、その伝来のときから、形式が古くなっていたのである。
 
 武器ではなく平和の「ことば」で繋がった二人に、やがて函館において別離が訪れます。

 函館好日
「函館、函館」
 嘉兵衛は船尾 (とも) に立って、何度もつぶやき、涙が流れてとまらなかった。
 嘉蔵や金兵衛たちが小舟で迎えにきた。
(略)
 前艦長ゴローニン少佐は、艦長室にもどった。嘉兵衛がながい期間、そこに横たわっていたベッドに腰をおろし、リカルドが注いだ帰還最初のウオッカを少しずつ飲んだ。
 逆風がしずまった日本暦9月29日、リコルドは出港用意の信号をあげた。
(略)
 やがてディアナ号は湾口に出たとき、風の中で鳴るようにして帆を展 (ひら) いた。そのとき、リコルド以下すべての乗組員が甲板に整列し、曳綱を解いて離れてゆく嘉兵衛にむかい、
 
 ウラァ、タイショウ

 と、三度叫んだ。嘉兵衛は不覚にも顔中が涙でくしゃくしゃになった。一閑張(いっかんばり) の遠めがねを高くあげ、足もとをよろめかせながら、

 ウラァ、ぢあな

 と、何度もわめいた。やがてディアナ号は、水平線のかなたに没した
 
  • 海上自衛隊の護衛艦や掃海艇の浮かぶ現在の函館港。筆者撮影
  • 函館ハリスト正教会。筆者撮影
  • ロシア人墓地から望む津軽海峡の日没。筆者撮影

2018/03/09 11:40:00 『菜の花の沖』のことば (2)

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  • Posted by住田 育法
 日本人の嘉兵衛がロシア人のディアナ号艦長リコルドに捕まりました。
 そして、二人の互いのことばによる交流が始まります。
 たいへん面白い内容です。

 小説は以下のように描写します。

 両者のあいだに、通訳はいない。
 ただ艦長リコルド少佐は、さきに艦にもどらなかった通訳良左衛門 (五郎次) から、この島までの航海中、日本語の手ほどきを受けた。


 リコルドをロシア語 (Рикорд)で紹介すると以下のようになります。

 Пётр Иванович Рикорд (29 января [9 февраля] 1776, Торопец — 16 [28] февраля 1855, Санкт-Петербург) — российский адмирал, путешественник, учёный, дипломат, писатель, кораблестроитель, государственный и общественный деятель.

 母語が異なる二人のコミュニケーション開始は、相手をどのように呼ぶかでした。

 リコルドの日本語:
 高田屋嘉兵衛 = タカダイ・カヒ
 船頭・船持 = シンド・フナモチ
 
 リコルドが理解していた、日本社会の身分制
 百姓人 = フャクショ・シト
 商人や職人などの町人 = マヂノ・シト
 嘉兵衛を尊んで呼ぶ = コマンディル
  指揮官、司令官、隊長、艦長

 司馬遼太郎が綴る次のやりとりが面白い。

「隊長」
 と、リコルドは嘉兵衛を称 (よ) んだ。
 リコルドは、手持ちのごくわずなかな日本の単語を、懸命にならべた。
「オロスヤ、オロスヤ」
 と言い、自分を指さし、さらに嘉兵衛を指さして、
「行く」
 ということばを繰りかえした。
「海。冬」
 リコルドがいった。やがてこの海に冬がくる。来るまでにカムチャッカまで逃げのびてそこで冬営せねばならない、とリコルドはいう。
 嘉兵衛はリコルドの表情を見つめている。表情もまた言語である。リコルドはよく心得ていて、舞台俳優のように表情の変化を大げさにした。
「ガロヴニン」
 と、ゴローニンその人の名を、この部屋で何十回くりかえしたろう。
(略)
嘉兵衛は、リコルドの喋ることばを、ききつづけた。このロシア人の唇からころがり出るふしぎな日本語の単語は、うかうかすると、シャボン玉のように空 (くう) に消えてしまう。嘉兵衛にすれば、その一つ一つをつかんで、数珠 (じゅず) のように緒 (お) を通して文章にしなければならない。(略) われわれと一緒にロシアへ行こう。
 嘉兵衛は一息置き、うなずいた。
「ようがす」


 ロシア側の嘉兵衛たち日本人拉致の目的は、そのゴローニンの救済であると嘉兵衛は気がつきます。
 ところでグローバルな展開を見ると、ブラジル研究者の筆者、住田にとって実に興味深いのは、このゴローニンが世界一周の航海を始めて、南米の最南端からアフリカの最南端の喜望峰へ移動した1808年に、ナポレオン軍に追われたポルトガルの王室がブラジルへ逃れたのです。掲載の地図を参照してください。
 
 さて、ロシアへ連行される決定の後、嘉兵衛が弟たちへ書いた手紙の冒頭が残っています。

 拙者(せっしゃ) 儀、此度 (このたび)、天運つき候や、異国へ参り候。

 楽しい出来事もあります。異文化交流の瞬間です。

「観世丸の水夫に、私の艦を見学させたいというのか」
 かれ (リコルド) も手まねをまじえていうと、嘉兵衛は、そうだ、と答えた。
(略)
 リコルドは、嘉兵衛の申し入れを言下に承知した。かれは当直将校を呼び、
「日本の水夫全員に、本艦を見学させる。みなで歓迎するように」
 と、命じた。
(略)
 リコルドは、係に命じ、艦長室の椅子にすわった日本人たちに、銀の酒器でロシアのウォッカを飲ませた。この強い酒のおかげで、かれらはいっそう打ちとけた。艦長室で振舞いをうけたかれらは、甲板上にもどると、ロシアの水兵をつかまえては、手ぶりで話しかけた。
 
  • 日本人が描いたディアナ号 ウィキペディアより。
  • 老年のリコルド (Ricord = Рикорд: 1776 – 1855) ウィキペディアより。
  • ディアナ号によるゴローニンの世界一周航海。1808年から1811年 (青色)

2018/03/08 17:30:00 『菜の花の沖』のことば (1)

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  • Posted by住田 育法
 学生のころ繰返し読んだ『坂の上の雲』(文藝春秋) も『菜の花の沖』と同じく全六巻でした。

 『坂の上の雲 一』1969年

 懐かしい、司馬遼太郎の「語り」です。

 春や昔
 まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。
 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐 (さぬき)、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑 (ゆう) は松山。
 城は松山城という。

 『坂の上の雲 二』1969年
 『坂の上の雲 三』1970年
 『坂の上の雲 四』1971年
 『坂の上の雲 五』1972年
 『坂の上の雲 六』1972年

 ちょうど『坂の上の雲 六』最終巻刊行10年後の1982年に『菜の花の沖 (六)』が出版され、今、当時読んだものが手元にあります。

 さて、主人公の高田屋嘉兵衛が函館に拠点を置く商人だったので、小説のことばは日本語と北の国のロシア語です。そして『菜の花の沖 (六)』はナポレオン軍がモスクワへ兵を進めて敗北したロシア戦役の1812年から始まっています。

 遭遇
 リコルド少佐は、不期の戦いも覚悟していた。毎日の緊張が、目の下の肉を削 (そ) ぎとってしまった。かれがひきいる軍艦ディアナ号と護送艦ゾーチック号が、ともすれば霧が出て視界を乳色にしてしまう南千島の海域をうろつきはじめたのは、ロシア暦の八月中旬 (1812年・文化九年) のことである。
 霧のほか、風も潮流もすべて操船に都合 (つごう) が悪かった。
(略)
 霧の中の軍艦ディアナ号の「目」のほうが早く、嘉兵衛がディアナ号を見るよりさきに観世丸みつけた。
「大型日本船が」
と、艦長リコルド少佐は書いている。
「外海からまともな湾内に入って来るのを認めた」
 といって、べつに戦時ではないのである。観世丸が、なにごともないはずの自分の海域を帆走していて、油断していたのに対し、ディアナ号のほうは日本船をとらえるべく鵜 (う) の目鷹 (たか) の目になっていた。そういう姿勢のちがいはあるが、ほかに日本船が高いマストに見張りを置いていないということもある。さらに決定的なのは、日本船の伝統では、ほとんど訓練がほどこされていないということにあったろう。
(略)
 イギリスで発達した商船、私掠船 (しりゃくせん 戦時の通商破壊の私的な船)、さらには海軍の伝統にあっては、乗組員というものは、陸 (おか) の世間に住む人間とはずいぶんちがっていた。かれらは合理化されぬいた役割を個々に自覚し、それにともなう激しい訓練をうけ、かつ各員の役割についてはきびしい倫理観で裏打ちされていた。
 そういうシステムによって訓練されたロシア海軍にあっては、見張りの者の能力一つとっても日本船とはけたはずれにすぐれていた。

 司馬遼太郎の目線から、19世紀瀬戸内生まれの商人、高田屋嘉兵衛の北の国のリコルドとのことばの交流を小説を読みながら取り上げてみましょう。 
  • 1812年ロシア戦役 (ナポレオン戦争) における戦闘の1つボロジノの戦い。絵はウィキペディアより。
  • 函館の高田屋嘉兵衛の銅像。筆者撮影。
  • 函館の高田屋嘉兵衛の住居跡と筆者。

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