ページの先頭です。ページの本文へ

ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS


2013/05/24 10:30:00 祇園に学ぶサントス監督とコスタ教授

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田育法
ブラジルを代表する映画監督ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスご夫妻と3年まえの2010年5月、祇園の茶屋で懐石料理を楽しみました。サントス監督はブラジルの軍事政権期に映画制作に平行してフルミネンセ連邦大学で映画講座を開設、現在は同大学の名誉教授として後身の指導にあたっています。葵祭の5月にブラジル政府と本学の招聘で来日し、本学でブラジル映画について講演をしました。京都文化博物館開催の同監督映画上映会などの行事を終えて、監督は祇園を知る機会を得ました。

上七軒、祇園、先斗町など京都の花街が見せる京都文化の魅力は、京都の自然や工芸に繋がる繊細な美の世界でしょう。四季の変化の曖昧な国の人がこれを理解できるのは、その価値の普遍性ゆえかと思います。ホスピタリティーの観点からも、最高級の感性を味わえます。サントス監督をもてなす、茶屋の女将は、京ことばだけで、すなおに花街の価値観を伝え、なごやかな雰囲気を作りました。映像の世界で女性の美を描いてきた監督をさりげないおしゃべりでもてなす、京都の花街文化が見せる人間力です。

サンパウロ大学招聘教授フェリズベルト・コスタ先生は、仮面劇がご専門で、本年2013年3月末日の入洛以来、頻繁に能や狂言を鑑賞しています。舞妓の姿は、その化粧が「仮面」に通じると、歌舞伎同様、たいへん興味深いそうです。4月に祇園の都をどり、5月に先斗町の鴨川をどりを鑑賞しました。演劇の専門家のまなざして、物語の展開や舞台装置、お囃子などを熱心に分析しています。北野天満宮の近くに住んでいますが、3月の北野をどりのときはサンパウロでした。鞍馬のハイキングときの赤い服は4月の「天神さん」で買ったものです。紫式部の供養塔のあるゑんま堂も近所なので、さっそく念佛狂言を鑑賞したそうです。

サントス監督とは2010年から毎年リオでお会いしています。コスタ教授とは来年3月まで、ともに京都の四季の移ろいを楽しむことになります。2人の専門家のまなざしで、国際観光都市のリオと京都の魅力をそれぞれ楽しめることは望外の幸せです。
  • サントス監督ご夫妻と祇園の茶屋にて 2010年5月撮影 サントス監督ご夫妻と祇園の茶屋にて 2010年5月撮影
  • サントス監督映画「第三の岸辺」(1993年)の女優 (写真、監督提供) サントス監督映画「第三の岸辺」(1993年)の女優 (写真、監督提供)
  • 祇園歌舞練場前のコスタ教授 2013年4月19日 祇園歌舞練場前のコスタ教授 2013年4月19日

2013/05/22 10:50:00 西洋と東洋が出会うマカオ大学との交流

  • Categoryマカオのニュース
  • Posted by住田育法
過去、アジアにおける西洋の窓口として、また西洋にとって、アジア進出の拠点として重要な役割を演じてきたマカオは、現在、アジアにおけるポルトガル文化・言語普及の中心地として、1999年12月の中国返還後もなお、重要な役割を演じています。しかし特別行政区となって13年が経ち、中国の影響が、ヒト、モノ、カノの全てにわたって進展しています。欧米、とくに米国の影響も強まり、文化面では英語の普及が顕著です。1981年創立の東亞大学は1991年に国立マカオ大学となり、2011年創立30周年を迎えました。

歴史を学ぶ日本人にとって、過去、切支丹(キリシタン)が日本を追われてマカオに住みついたという事実に心を揺さぶられます。カトリック教会ではよく、聖職者や信徒らの遺骨を目に触れる箇所に安置していますが、日本人切支丹の遺骨の前に立つと異様な感慨に襲われます。遠藤周作の『沈黙』のテーマでもありますが、なぜ、当時の日本人は命を賭けてまでキリスト教を信じようとしたのか、また、ポルトガルの若い聖職者もなぜ、はるか東アジアの地に命を賭けてやって来たのか、との問いかけです。まだ答えに至っていません。

マカオ大学との交流は1987年7月、同大学の前身東亞大学開催のポルトガル語夏期講座に本学の学生20名が参加したことに始まります。翌1988年の第6回全日本学生ポルトガル語弁論大会から東洋ポルトガル院の前身マカオ文化院の奨学金が入賞者に贈られることになります。昨年14年に及ぶ成果としてマカオ大学創立30周記念『DITEMA(マカオ事典)』が完成し、本学理事長・総長森田嘉一先生に贈呈されました。そして2013年5月15日、創立32年目を迎えたマカオ大学副学長一行が本学を訪問しました。

現在、マカオ大学の留学生2名が本学で日本語を学んでいます。9月から本学のブラジルポルトガル語学科の学生2名がポルトガル語を学ぶために留学します。今回のマカオ大学副学長は永く米国と英国で学んだ香港生まれの中国人です。国際交流担当の2人の女性はマカオ人でした。マカオ大学は今年の8月から広大なキャンパスに移転して、日本との協定校も現在、18校に上っているそうです。まさに、西洋と東洋が出会うグローバルな大学の姿です。
  • 日本人切支丹の遺骨安置のマカオ聖パウロ天主堂跡 2012年11月 日本人切支丹の遺骨安置のマカオ聖パウロ天主堂跡 2012年11月
  • マカオ大学ルイ・マルティンス副学長を訪ねて 2012年11月 マカオ大学ルイ・マルティンス副学長を訪ねて 2012年11月
  • マカオ大学ホー副学長一行本学訪問 2013年5月 マカオ大学ホー副学長一行本学訪問 2013年5月

2013/05/19 18:40:00 進むブラジリア大学との交流

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田育法
1960年4月の新首都誕生を祝う式典開催の翌1961年12月に、人類学者ダルシー・リベイロを理事長とするブラジリア大学基金が創設され、遷都2年目の1962年4月に大学が開かれました。いま、首都53歳、ブラジリア大学51歳です。経済の中心地サンパウロやリオから遠く離れた内陸部の首都建設に、当初、多くの人が不安を覚えたそうです。しかし21世紀となり、エリートだけのプラーノピロットではなく、周辺の衛星都市を加えた都市機能を基盤に、着実な発達を遂げつつあるようです。

本学とブラジリア大学との交流は、25年まえの1988年2月、当時、京都大学に招聘されていたブラジリア大学のテツロウ・ホリ教授が挨拶に来学し、翌1989年11月に本学理事長・総長森田嘉一先生が会長を務める京都ブラジル文化協会の例会において同教授が「ブラジリアの都市問題と建築について」講演したことでスタートしました。1990年11月、ブラジリア大学イバニェス学長一行の来学によって、本学との学術交流協定の調印が実現。1992年4月、第1回ブラジリア大学交換留学生が本学留学生別科に入学、同時に本学科の4回生が第1回派遣生としてブラジリア大学へ出発し、学生による交流が始まったのです。

その後2005年2月、私が研究代表を務めた文部科学省補助金研究会にブラジリア大学からグスターボ・リベイロ教授が参加、「ブラジリアの都市問題」について発表しました。2007年10月にはデボラ・ディニス教授が来日し、ブラジルの「人種民主主義」について講演。さらに、ブラジルは新興諸国BRICsの一員としてグローバルな展開を見せていますが、2011年11月には国際政治を専門とする同大学エドゥアルド・ヴィオラ教授を招き、「ディルマ・ルセフ政権下のブラジル外交政策について」英語で研究報告をしていただきました。

本年2013年には、京都の国際日本文化センター(日文研)で、ブラジリア大学根川幸男准教授根が研究代表となって「日本的教育文化の複数地域展開に関する比較研究」が行われています。ブラジル研究者として末席を汚していますが、地球を挟んでアジアと南米の交流を考える時間は、結構、楽しいです。
  • ブラジリアの大聖堂と国立博物館 2010年8月撮影 ブラジリアの大聖堂と国立博物館 2010年8月撮影
  • ヴィオラ教授ご夫妻とブラジリアのレストランで 2012年8月 ヴィオラ教授ご夫妻とブラジリアのレストランで 2012年8月
  • 日文研の共同研究会 2013年4月 日文研の共同研究会 2013年4月

2013/05/19 17:30:00 Alter do Chão

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted byMoisés Kirk de Carvalho Filho
  Na grande maioria das vezes que converso com pessoas que já visitaram o Brasil, eu ouço seus relatos e suas impressões de diversos lugares famosos como por exemplo a beleza das praias do Rio de Janeiro, a grandeza das cataratas de Foz do Iguaçu, os encantos metropolitanos de São Paulo, etc. De fato, as maiores e mais conhecidas cidades são fascinantes por várias razões: pela sua diversidade cultural, pela sua beleza natural ou por sua herança histórica e por isso mesmo elas se tornaram tão famosas e procuradas pelos que visitam o Brasil. No entanto, ao mesmo tempo que, com gosto, ouço suas entusiasmadas histórias sobre meus país, me dou conta da imensidão de lugares maravilhosos que são simplesmente ignorados, que não são tão frequentemente visitados e que tampouco recebem a devida divulgação turística, mas que possuem igual ou maior beleza do que os tradicionais destinos turísticos brasileiros.

  Tenho consciência de que pelo próprio fato do Brasil ser tão imenso, é natural que a grande maioria dos estrangeiros e mesmo muitos dos brasileiros não conheçam muitos dos encantos de seu próprio país. Por esta razão, eu resolvi criar esta seção no blog de nosso departamento e apresentar de forma simples e objetiva algumas das maravilhas brasileiras que ainda são pouco conhecidas tanto por estrangeiros como pelos próprios brasileiros.

  Para começar esta jornada, quero lhes apresentar um paraíso natural da região de onde venho, isto é, do norte do Brasil. Este lugar que se encontra no meio da floresta Amazônica se chama Alter do Chão e está localizado na margem direita do Rio Tapajós no estado do Pará. A vila de Alter do chão está localizada no município de Santarém que fica a uma hora de voo desde a capital, Belém. Sua beleza já foi reconhecida internacionalmente ao ser eleita pelo jornal britânico The Guardian como a praia de água doce mais bonita do mundo. Durante o verão amazônico (de julho a dezembro), quando chove menos na região, o volume de água do rio Tapajós diminui, revelando praias de areias brancas cercadas de águas cristalinas para um banho de rio sem igual. No mês de setembro, é realizada uma das mais antigas e tradicionais manifestações da cultura popular da Amazônia, o Sairé, cuja origem remete ao período colonial e ao sincretismo entre rituais indígenas e a religião católica.

  Então fica a dica para quem está viajando pelo Brasil e também para os que pretendem ir para lá no futuro. Que tal conhecer as maravilhas pouco conhecidas do norte do país? Espero que gostem.
  • Alter do Chão
  • Alter do Chão
  • Festa do Sairé

2013/05/14 11:50:00 フルミネンセ連邦大学の恩師との絆

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田育法
留学のためブラジルのリオに降り立って、39年5か月が経ちました。ブラジル国フルミネンセ連邦大学(以下、UFFと略す)との交流協定が結ばれ、日本国際教育協会の派遣留学生として1973年12月26日に羽田を出発、アンカレッジ、ロス、リマ経由で、翌27日午前8時過ぎにリオのガレオン空港に到着したのです。このリオで、来年はサッカーのW杯、3年後には夏季オリンピックが開催されます。

UFF大学院文学部のマクシミアーノ・カルヴァーリョ・イ・シルヴァ教授の指導により「ブラジル語法」の面からポルトガル語の弱勢人称代名詞の位置の問題について研究し、言語に表われたブラジルのナショナリズムを裏付けました。帰国後、このテーマについて修士論文(1975年)を提出し、ブラジルの文化的ナショナリズム台頭いちじるしい19世紀を強く意識した視座を持つことになります。

留学のとき、シルヴァ先生が48歳、私が25歳でした。ちょうど39年まえの留学中の4月25日(1974年)、ポルトガルで「カーネーション革命」または「リスボンの春」と呼ばれる軍事クーデターが起こり、カモンイス研究で知られるシルヴァ先生のポルトガルへの研究旅行が中止となりました。先生は私に、「住田、ポルトガルへ行かなくなったので、ブラジルで日本人のきみを指導する」とおっしゃって、通常の授業に加えて、本格的な論文指導を受ける機会を得たのです。

シルヴァ先生は1984年10月に本学で集中講義を行うため来日しました。その後、私がリオを訪問する際に出会いを重ね、UFF文学部名誉教授(1998年)になられた今も、交流は続いています。この7月5日、先生は87歳の誕生日を迎えます。
  • ニテロイ現代美術館(MAC)からリオを望んで  2012年8月撮影 ニテロイ現代美術館(MAC)からリオを望んで  2012年8月撮影
  • 85歳の誕生日(2011年)に奥様と MAC前にて 85歳の誕生日(2011年)に奥様と MAC前にて
  • 1974年UFF留学中の下宿前のニテロイ・ポルトガル・クラブ 2010年撮影 1974年UFF留学中の下宿前のニテロイ・ポルトガル・クラブ 2010年撮影

Page top