ページの先頭です。ページの本文へ

ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS


2018/02/15 09:20:00 続 ブラジルポルトガル語学科誕生の1967年のころ

  • Categoryイベント
  • Posted by住田 育法
 ブラジルポルトガル語学科、この学科の名前の2つの国、ブラジルとポルトガル。大西洋を挟んで1967年には、ブラジルが親米の軍部の独裁、ポルトガルが植民地支配の伝統的独裁の国でした。
 ブラジルが軍政になった1964年は、アジアはベトナム戦争突入前夜、南北アメリカではキューバ危機から1年半後の東西冷戦の真っ只中のときでした。一方ポルトガルは、1960年に「アフリカ」の旧イギリス領・旧フランス領植民地が相次いで独立する中、自らの植民地は「海外州」と呼び換え、その解放を認めなかったのです。

 当時の動きを年表で確認しましょう。それは、「キューバ革命」から「リスボンの春」に至る、世界の人民が、豊かさと自由、そして民主主義を求める、流血をともなう革命と戦争に満ちた、苦難の15年間だったのです。当時を想い今「勝利を我等に」をちょっと歌ってみましょう。

1959年
ブラジル 世界北東部開発庁創設決定。
ポルトガル サラザール (写真) 独裁が第2次経済振興計画。
世界 キューバ革命
1960年
ブラジル 世界左派のクアドロス大統領に当選。ブラジリア遷都。
ポルトガル EFTA (欧州自由貿易連合) に加盟。
世界 「アフリカの年」。
1961年
ブラジル クアドロス大統領に就任。辞任により議院内閣制に移行ひ、タンクレード・ネヴェス首相に就任、ゴラールが大統領に就任。
ポルトガル アンゴラで植民地戦争開始。ポルトガル領インドを喪失。
世界 米州「進歩のための同盟」発足。
1962年
ブラジル タンクレード・ネヴェス首相辞任。
ポルトガル 大学紛争激化。アレンテージョで農民暴動。
世界 キューバ・ミサイル危機。
1963年
ブラジル 経済社会3ヵ年計画、いわゆる「フルタード計画」発表。国民投票により大統領制に復帰。
ポルトガル PAIGC (ギネ・ビサウ=カボ・ヴェルデ独立アフリカ人党) 、ギネ・ビサウ反乱開始。
世界 ケネディー暗殺。
1964年
ブラジル クーデターにより軍政開始。
ポルトガル FRELIMO (モザンビーク解放戦線)、モザンビークで解放戦争開始。
世界 米国で公民権法成立。ソ連でブレジネフ体制、成立。
1965年
政党をARENAとMDBに再編。
ポルトガル 野党、総選挙をボイコット。
世界 カリブ海のドミニカ共和国内戦に米国が軍事介入。ブラジル軍派遣。
1966年
ブラジル 多くの連邦議会議員の議員資格剥奪。
ポルトガル 「サラザール橋 (4月25日橋)」開通。
世界 中国で文化大革命激化。
1967年
ブラジル コスタ・イ・シルヴァ大統領就任。
ポルトガル LUAR (統一連盟・革命行動)ポルトガルで最初の活動。
世界 米国、ニクソン政権成立。ゲバラ、ボリビアで戦死。
1968年
ブラジル 軍政令第5号。
ポルトガル サラザール首相、引退。カエタノ首相、就任。
世界 メキシコ、オリンピック。
1969年
ブラジル コスタ・イ・シルヴァ急病。新大統領にメディシ(写真)。
ポルトガル サラザール死去。
世界 日本、東大紛争安田講堂の攻防。
1970年
ブラジル アマゾン横断道路など大規模開発を進める。反軍政ゲリラ活動が活発になる。
ポルトガル 国勢調査、人口8,663,252人。国外の移民急増、1970年に最高17万3,267人。
世界 南米チリでアジェンデ社会主義政権成立。
1971年
ブラジル ゲリラ活動の鎮圧。
ポルトガル アルマンド・マルティンス・ジャネイラ駐日ポルトガル大使離任。
世界 米国ニクソン大統領の経済政策によりドル=ショック起こる。
1972年
ブラジル アマゾン横断道路開通。
ポルトガル 国連、FRELIMOとPAIGCを承認。
世界 田中首相訪中、日中国交正常化の共同声明。
1973年
ブラジル パラグアイ、イタイプーのダム建設に合意。
ポルトガル 大尉運動の結成。
世界 南米チリでピノチェの軍事クーデター。
1974年
ブラジル ドイツ移民の子孫ガイゼル大統領 (写真) に就任。
ポルトガル 「リスボンの春」もしくは「カーネーション革命」として知られる4月革命。
世界 南米アルゼンチンのペロン死去。
  • ポルトガル独裁者サラザール António de Oliveira Salazar (Vimieiro, Santa Comba Dão, 28 de abril de 1889 — Lisboa, 27 de julho de 1970)
  • メディシ大統領 Emílio Garrastazu Médici (Bagé, 4 de dezembro de 1905 — Rio de Janeiro, 9 de outubro de 1985)
  • ガイゼル大統領 Ernesto Beckmann Geisel (Bento Gonçalves, 3 de agosto de 1907 — Rio de Janeiro, 12 de setembro d

2018/02/13 17:30:00 学科創設50周年記念誌発行のための編集同窓会

  • Categoryイベント
  • Posted by記念誌発行編集主幹
 1967年度入学1970年度卒業の第1期生から2016年度卒業の第47期生までのブラジルポルトガル語学科卒業の校友80名あまりが想い出のキャンパスに集います。
 学科創設50周年記念誌発行編集のための第2回目の同窓会です。
 数年ぶり、数十年ぶりという再会の魅力は、互いが持つ共通の記憶の共有でしょう。特にそれは、音楽や映画において鮮烈によみがえってきます。
 第1期生の場合、ボブ・ディラン市川雷蔵でしょうか。あるいは高倉 健かも。『ドクトルジバゴ』のオマル・シャリーフも加えましょう。そしてララのテーマのジュリー・クリスティも。それから、ちょっと不良っぽくアニマルズも。

 2月18日は京都マラソンの走者が四条通りの外大前を走ります。しかし、本学の前は、8時20分ごろから9時55分ごろまでの交通規制となります。したがって、交通に問題ありません。
 
 12時開始の編集会議と12時30分開始の懇親会は、どちらも会場は新4号館です。
 入るのは建物1階の南側と西側の入口からです。

 第Ⅰ部・編集会議:
 4号館3階432教室で行います。 
 時間:12時~12時25分 
 内容:編集の説明と過去を振り返るスライドショーなど。
 会場の入口で校友会会員のネームプレートを渡します。

 2階から6階への移動は、建物北側の階段とエレベーターを使います。

 第Ⅱ部・懇親同窓会
 ※ 校友会会員以外は大学教職員のみの参加を認めます。一般の方は入れません。 
 4号館6階のスカイラウンジ南側で開催します。
 時間:12時30分~14時30分 飲食付き 
 BGM = ボサノヴァ Baden Powell CDを使います。

 変わるブラジルへの想い:
「世界の経済地図がふたたび塗り替わりつつある。世界経済を牽引してきた米国が財政赤字と莫大な債務にあえぎ、平和共存の理想を追求したEU (欧州連合) はギリシャに端を発した信用不安の連鎖で身動きが取れなくなりつつある。(略) 塗り替えの役割を託されているのが「振興国」やBRICsといった用語で表象される、二〇世紀末から成長のペースを上げてきた発展途上国である。」(堀坂浩太郎著『ブラジル―跳躍の軌跡―』岩波新書より) 
 弾けるポルトガルへの想い:
「もしも」という仮定が許されるならば、中世王国という「ジグソー・パズルのピース」の組み合わせ次第で、ポルトガルがカスティーリャと一緒になってひとつの国家を形成していたかもしれないと考えることもできるし、ポルトガルとカスティリャとカタルーニャという三つの国家の鼎立 (ていりつ) も可能だったかもしれない。あるいはまた、イベリア半島統一国家という状況も生まれていたかもしれない。」(金七紀男著『ポルトガル史』彩流社より)

 さて、やく100名の校友が集う18日の日曜日、いかなる想い出が噴出するでしょうか。
 
  • 素敵な新4号館からの眺めも素敵!
  • ボサノヴァを聴きます。
  • ブラジル、ロシア、中国、インド、南アフリカが21世紀の世界経済を牽引します。

2018/01/29 00:40:00 ブラジルポルトガル語学科誕生の1967年のころ

  • Categoryイベント
  • Posted by住田 育法
 西暦の1967年は、昭和42年でした。そしてもし、明治の年号が続いていれば、1868年が明治元年で1907年が明治40年だったので、架空ですが1967年が明治100年でした。また神武天皇即位から数える皇紀だと、2627年となります。真珠湾攻撃から26年目でした。

 それから50年経って、過去の卒業生が集って、2017年10月7日 (土) に、学園創立70周年とともに、学科創設50周年を京都外国語大学のキャンパスで祝いました。さらに2018年2月18日 (日)に、新四号館で50周年記念誌編集のための懇親会を開催する予定です。

 1967年は東西冷戦の真っ只中でした。ブラジルは1964年にクーデターで始まった軍政が続いていました。1967年3月に国名が「ブラジル合衆国 (República dos Estados Unidos do Brasi)」から現在と同じ「ブラジル連邦共和国 (República Federativa do Brasil)」になります。

 アジアではベトナム戦争が激しくなり、ラテンアメリカではキューバ革命が進行して、これに協力したチェ・ゲバラが南米のボリビアで1967年10月に殺害されます。世界中の若者が平和を求めて愛する心を歌いました

 ブラジル軍政の就任直前の大統領コスタ・イ・シルヴァ閣下が来日し、京都外国語大学を訪問しています。軍政はアマゾン開発に力を入れ、1967年に国立先住民保護財団 (Fundação Nacional do Índio) のFUNAIが創設されます。やがてアマゾン開発を目的として、「土地なき民を、民なき土地へ」の標語のもと、積極的なアマゾン開発に乗り出します。米国の企業が密かにブラジルのアマゾン川流域で貴金属の発掘をおこなっていた行為を軍政は国家の危機とみなし、国土防衛の観点から、国の北部地域の開発を急ぎました。軍隊の支援で、緑の熱帯雨林に大規模な横断道路 (Transamazônica) が建設されます。

 中近東では、この1967年に第三次中東戦争が勃発しイスラエルが圧勝しました。二年後の1969年9月4日 (木) から7日 (日) までの4日間(クアトロ・ディアス)を描いた、実話に基づく原作『 O que é isso, companheiro 』の映画作品があります。監督はブルノ・バヘット(Bruno Barreto)。1969年の 7月には米国人が歴史上初めて月面に降り立っています。このように世界で米国の存在が強大であったころの出来事を映画は描いています。互いを同志と呼び合っている若者の部屋の壁にはチェ・ゲバラの写真や映画『太陽の地の神と悪魔 (Deus e o Diabo na Terra do Sol)』のポスターが貼ってあり、サンパウロから来た練達の同志の機関銃の入ったバッグには、経済学者セルソ・フルタード著『ブラジル経済の形成と発展』が入っていました。チェ・ゲバラやセスソ・フルタード、グラウベル・ロッシャの考えが信奉されていたようです。

 2018年1月28日の雪の日曜日、DVDで映画『クアトロ・ディアス』をゆっくり鑑賞しました。日本でも1967年の当時、誰もが口ずさんだ「朝日のあたる家 (House of the Rising Sun)」のメロディーが映画の中で2度流れています。「安保の60年代」と言われる20世紀60年代の学生運動の記憶が蘇ってきます。

 「校友」たちの再会の準備をしながら、当時の歌声を懐かしんでいます。
  • 本学を訪問したコスタ・イ・シルヴァ大統領の公式写真。
  • 先住民保護財団の公式ロゴマーク。
  • キューバのハバナ市革命広場のチェ・ゲバラ像。

2018/01/23 01:30:00 『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (6)

  • Categoryマカオのニュース
  • Posted by住田 育法
『阿片戦争』の新装版 4 冊のすべてを読み終えました。

 第六部の「生と死」の場面に、マカオで暮らしてきた連維材の愛人の西玲 (シーリン) が登場します。異種族混淆文化のマカオ (写真) の延長線上の世界です。
 
 めまいがしたので、連維材は次の部屋にさがって、椅子に腰をおろした。
 黙琴が彼のあとについてきて、すべるように部屋を出た。そして、椅子の肘かけにすがるようにして坐っている連維材のそばへ寄って、彼女はかがみこんだ。
「このようなときに、こんなことをおしらせしていいかどうかわかりませんが......さきほど、西玲さんに女の子が生まれましたの」
 黙琴は連維材の耳に、そう囁いた。
「生まれた?」
(略)
「どんな赤ん坊が生まれたのか、お知りになりたくありませんの?」
「知りたい」
 連維材は、すなおに答えた。
「髪は栗色です。色の白い、瞳は青みがかった赤ん坊。お星さまみたいに光る瞳です」
「西玲は?」
「お元気です。」
(略)
「......そうか、あの子は天からさずかったようなものだ。星の如し......如星 (ルーシン) 、これがいいではないか?」
「如星......きれいな名前です」
(略)
「姓は連ですね?」
 連維材はうなずいて、
「そうだ、如星は私の子だ」
 と答えた。


 小説は第一部「望潮山房主人」の亜熱帯の福建省厦門 (アモイ) の町からはじまりましたが、おわりは、遙か北の中原 (ちゅうげん) でした。阿片戦争 (歴史地図) が終わるとき、連維材、王挙志、林則徐の三人のおしゃべりが盛りあがり、陳舜臣の小説は「完」となります。

 第六部
「訣別」
 道中の風景は、連維材たち南方人の眼にはまるで別世界だった。
「これが中原ですね」
 王挙志は黄河流域の黄色っぽい風景を指さして、しみじめと言った。
(略)
9月6日(旧8月2日)の夜、蘭州道の林則徐の宿舎で、三人
(連維材、王挙志、林則徐)はテーブルを囲んだ。
(略)
 連維材は気を取り直したように言った。―
「しかし、わが国はひろいですね。こんどの旅行でつくづくそう思いました。ここにいると、広州のことなど、まるで夢のようです」
 台湾に統文、香港に承文、上海に理文。―それぞれ遠く離れている。怒濤の時代に立ち向かう若い人たちのことを思い、連維材は老いをかんじた。
 話し合っているあいだに、三人はだいぶ酒をのんだ。三人とも酒が好きであった。
「時代がかわります」
と、王挙志が言った。
(略)
 三人ともわかっていた。―
 この三人がそれぞれちがった道にはいって、新しい時代を迎える。―いや、新しい時代をつくろうとするだろうことを。

 21世紀の2018年。中国発の「新しい時代」が続きます。

 一帯一路で東西を結ぶ21世紀のシルクロード。
 ブラジルを加えた新興国BRICSの21世紀の跳躍。
 南蛮の足跡マカオ世界文化遺産 (2005年登録)。

  • 異種族混淆の民との中国茶の交流。マカエンセ (マカオ人) であるマカオの友人たちと。
  • 中国の一帯一路の空間。南北アメリカとカリブ海が見えない!
  • 中国語の阿片戦争図。

2018/01/20 18:10:00 『阿片戦争』を読みパクス・ブリタニカのマカオを想う (5)

  • Categoryマカオのニュース
  • Posted by住田 育法
 京都外国語大学にブラジルポルトガル語学科が創設された1967年に、『阿片戦争 (上) 滄海篇』と『阿片戦争 (中) 風雷篇』が11月に、『阿片戦争 (下) 天涯篇』が12月に刊行されました。私は過去、学生のころ、これを近所の貸本屋さんで借りて読みました。ベトナム戦争のころでした。その後、1973年に同じく3分冊で文庫本が発行され、私の本棚の隅に、上巻のみがありました。そして、今回、2015年に4分冊で新装版『阿片戦争 (一)』、『阿片戦争 (二)』、『阿片戦争 (三)』、『阿片戦争 (四)』が発行されていますので、これを購入して、読んでいます。
 
 『阿片戦争』では残酷な戦場の場面が詳細に描かれています。死を恐れない、勇敢な猛将、関天培の最期は壮絶です。『阿片戦争 (三)』第五部の「戦旗墜つ」の場面です。
 
 上陸した英軍は、むやみに小銃を撃ちながら、砲台をかけめぐっている。
 関天培は軍刀の柄に唾をかけて、肩を怒らせた。
 (略)
「よし!」
 彼は大きくうなずいて、司令官の建物まで行き、その壁に自分の背をあずけた。
「死ぬにもつっかい棒が要る」
 彼は笑った。
 英兵の赤い帽子や金モールつきの軍服が、石垣や階段のまがり角にちらつきはじめた。
 司令部の壁に、パシッパシッと、銃弾のはじける音がした。それにまじって鈍い音もきこえるが、おそらく泥塗りの脆 (もろ)いところに、弾ががめりこむのであろう。
 (略)
 関提督らしい高級将校の死体が指令部のまえで発見されたというしらせは、たちまち上陸英軍ぜんたいに伝わった。
 
 
 関天培が闘って死ぬ場面は中国映画の締めくくりの場面でも見せています。音声スペイン語版です。しかし私は、以下のような平和な場面が好きです。もう一度、蓮維材の愛人、西玲 (シーリン)を陳舜臣の語りで味わってみましょう。

 『阿片戦争 (四)』第五部
「小康」
 西玲 (シーリン)は自分がなにをしているかわからなかった。
 頬に血のひびきをかんじた。逞しい男の胸の鼓動である。それは、なじみぶかいリズムだった。
(連維材の胸だわ......)
 蓮維材に抱かれているのだ。どうして?それがわからない。
 三元里の夜が明けたことは、かすかにおぼえている。じっとしていたのか、それとも歩きまわったのか?からだの疲れ工合からすると、一と晩じゅう歩いたのかもしれない。
 (略)
 ― そして、乾いたからだに、なにもつけていないのである。
「気がついたね?」
 と、蓮維材がきいた。
 西玲は男の胸から顔をはなし、まぶしそうに見上げた。
 彼女はこくりとうなずいた。

 
 今回とくに、マカオについての記述を興味深くながめています。新装版『阿片戦争 (三)』から『阿片戦争 (四)』に続く第五部では、マカオということばの登場は少なく、わずかに 16 でした。マカオが阿片戦争の戦場にはならなかったためでしょうが、陳舜臣の世界に浸りながら、平和な異種族混淆のマカオ空間の知的散策を楽しんでいます。

 第五部
「奇襲の夜」
 西玲のからだには、二つの民族の血が流れている。中国人として育ったが、貿易港の広州や外国人の多いマカオで暮らしてきた。彼女はつねに、どっちつかずの位置にいた。


 マカオは、中国への復帰後の2005年に、東洋と西洋の文化が融合・共存してきた歴史地区が、ユネスコの世界遺産に登録されます。この東西文化の出会いが、19世紀の阿片戦争のときにも、マカオで起こっていました。さらに香港はイギリスの植民地となりますが、マカオはポルトガルの植民地としてではなく、居住と交易の許可を与えられた永久居留地として、阿片戦争以後も歴史を紡ぎました。その食文化のひとつが混ざり合いの文化の果実「アフリカンチキン (写真)」です。

 さらに21世紀の今、中国返還後の香港とマカオをつなぐ巨大な港珠澳大橋 (Hong Kong–Zhuhai–Macau Bridge) (写真) が完成します。これもまさに、平和な交流の姿の反映でしょう。

 第五部の最後の「小康」に、中国の林則徐 (写真) が敗戦の責任をとって新疆 (シンキョウ) へ流され、イギリスのチャールズ・エリオットも、国家よりも商人の利益を優先したと判断されてロンドンのポーマストン外相によって罷免されます。
  • アフリカ、インド、東アジア文化混淆の賜:アフリカンチキン。赤ワインを飲みながら食べると特に美味しい代表的なマカオ料理。
  • ダイナミックな中国人パワーの産物、香港マカオ大橋 (Hong Kong–Zhuhai–Macau Bridge) の完成へ。
  • 当初、戦争を指導し、絶大な人気を得ていた林則徐 (Lin Zexu 林则徐)の絵。

Page top