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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS


2017/10/20 21:00:00 ドイツ人画家が19世紀に描いた埠頭がいま世界遺産に

  • Categoryブラジルのニュース
  • Posted by住田 育法
 大西洋システムにおけるアフロ・ラテンアメリカ研究を行うため、2017年8月に日本を出発しました。
 2016年と同じく、過去の大西洋圏黒人奴隷貿易に深く関わったポルトガル語圏のブラジルと、その本国ポルトガル、さらに大西洋上の黒人奴隷貿易の拠点であったアフリカのポルトガル語圏やカリブ海諸国のキューバにも視野を広げました。
 過去の5年間において私は、ポルトガル語圏諸国共同体CPLP所属の大国ブラジルの民主主義と社会「正義」実現の政策の研究を、中道左派のルーラとディルマの労働者党政権に注目して行ってきました。その結果、黒人低所得者層の初等・中等教育充実の必要性を考えるに至ったのです。
 そうした経緯から「黒人」に注目した今回の現地調査で、予期せぬ「遭遇」でしたが、アフロ・ラテンアメリカ文化のアイデンティティについて大きな成果を得ることができました。
 それは、ブラジルのリオデジャネイロにおいて、大西洋奴隷貿易末期に黒人奴隷を受け入れる場所として1811年に建設された港湾施設のヴァロンゴ埠頭の考古遺跡 (写真) が、ユネスコの文化遺産に2017年7月登録されたというアフロ研究の新しい展開に出会ったことです。私の大西洋システム研究の枠組みに「被支配者」たるアフロ・ラテンアメリカ人のまなざしを加えることになったのです。
 特に今回、この文化遺産登録の関係者のモニカ・ソウザ、ヴァルガス財団研究員 (写真) とのこれからの研究協力の約束を取り交わすことができました。ブラジルは2017年7月のユネスコ登録という快挙によって、「奴隷貿易」という過去の「負」の遺産を、21世紀において、アフロの立場から「プラス」の文化遺産に変えることができたのです。ちなみに、この地区は、サンパ発祥の「北地区」に位置しています。
 遺跡の隅に掲げられている埠頭を描いた絵(写真)は、ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス(Johann Moritz Rugendas、生 1802年3月29日 - 没 1858年5月29日)というドイツ人画家の作品です。1821年にブラジルに到着して、ブラジルの各地を描き、1825年から1828年にかけてヨーロッパに帰りました。1827年から1835年にかけて記録となる書籍、Voyage Pittoresque dans le Brésil(趣深いブラジル旅行)を出版しました。
  • 多くの観察者を集めるヴァロンゴの遺跡
  • リオのFGVの研究者と共同研究を開始
  • ドイツ人画家が描いた19世紀の黒人奴隷の埠頭

2017/10/09 12:30:00 校友との懐かしい再会に感動!次回は戌年2月18日に集合!

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田 育法
 2017年10月7日(土)に本学のキャンパスで懐かしい多くの「再会」がありました。ブラジルポルトガル語学科創設50周年記念の懇親会・記念誌編集委員会が開催されたのです。

 出席予定の卒業生の皆さんには、次のような案内を送りました。

 10月7日の予定を確認します。
 まず、京都外国語大学校友会の卒業生の集いに参加しましょう。
 校友会ホームページより
 いよいよ「卒業生の集い」が開催されます!
 10月7日(土)11:00~
(受付10:30~)
 森田記念ホールにて
 校友会総会・懇親会「卒業生の集い」を開催致します。
 当日参加申し込みも受け付けています。
 受   付 10:30~ 森田記念講堂ロビー
 第 一 部 総会 11:00~ 森田記念講堂
 第 二 部 懇親会 12号館リブレ


 続いて、ブラジルポルトガル語学科の同窓会の参加について
 ブラジルポルトガル語学科創設50周年記念懇親会・記念誌発行編集委員会
 日時
 2017年(平成29年)10月7日(土)
 校友会「卒業生の集い」後、17:00頃から上記の懇親会・委員会を開催。
 場所 
 新4号館432教室
 参加者の皆さんへのお願いです。
 1 会場となる教室は、一切の飲食が禁止されています。ご理解ください。
 2 参加者はほぼ、30名です。当日の突然の参加決定も歓迎します。
 3 記念誌発行のための編集会議は2018年2月に2度目を開催する予定。
 皆様にお会いできるのが楽しみです。
 ご不明なことは、どうか自由にご連絡ください。
 記念誌編集委員会幹事

 10年前の40周年記念同窓会には160名ほどが参加しましたが、今回の50周年記念は約40名ですから、規模が小さくなりました。しかし10年前に欠席した複数の皆さんが今回、出席しました。北は北海道、南は沖縄からと、飛行機を使った泊まりがけの参加の方もいました。
 数十年ぶりの再会でいつも感じるのは、互いに白髪やしわが増えているものの、つい数日前に会ったかのような気分になれることの不思議さです。私の同級生は10年ぶり、北海道からの後輩は21年ぶりでした。そのほか、41年・42年ぶりの人たちも。
 2018年戌年2月18日に、記念誌編集のための2度目の懇親会を行います。次回は飲食のための場所を作ります。多数の皆様の参加をお待ち申しあげます。
  • 10年前の2007年の40周年記念同窓会参加の皆さん 160名ほどの校友が集合!
  • 今回の2017年校友会懇親会参加の学科卒業生の皆さん
  • 新4号館432教室で開催した記念誌編集懇親会参加の皆さん

2017/06/29 11:50:00 南蛮空間、京都を歩く (6)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 歴史の真実は、文献からではなく、実際に歩いてはじめて理解できることがよくあります。今回、御所東の史跡御土居址を歩いて、それを実感しました。夏至を過ぎた梅雨曇りの午後、雨傘を片手に、鴨川沿いを下がって目的地の廬山 (ろざん) 寺へ向かいました。
 
 御所東の寺の墓所に、くだんの御土居址があります。気が付いたのは、その御土居は京都の洛中、特に御所を守るためには、その場所があまりに西に位置しているということでした。そして、さらに現在は広くなった堀川通りを越えて西へ歩くと、そこには聚楽第跡地があるのです。

 要するに、外敵の襲来に備える防塁と川の氾濫から都を守る堤防として豊臣秀吉が築かせたといわれる御土居は、御所東の場合、その役目を果たすものではなかったと想像できるのです。敵が東から攻めてくるとき、すぐに御所に達することができるでしょう。また、鴨川の水があふれた場合、御土居を越えて濁流は御所に流れ込むでしょう。

 防塁や堤防のためではなく、豊臣秀吉が指導者としての威光を入洛者に見せつけるための、聚楽第を囲う「城壁」であったと理解できます。今の南北の堀川通りが、聚楽第と御所の間に位置する当時の「大路」であったのでしょう。北の御土居を越えたその先には、平安京の「神山 (こうやま)」が今もそびえています。

 改めて、京都における「南蛮」の軌跡を、略年表で確認してみましょう。

 1550年 ザビエル入洛。ザビエル離京。ビレラ、将軍に謁見。
 1559年 京都でのキリスト教布教本格化。
 1561年 京都最初の礼拝堂建設。
 1576年 礼拝堂再建。
 1582年 本能寺の変、信長自害。
 1586年 秀吉、豊臣の氏を賜る。聚楽第造営、開始。 
 1587年 聚楽第完成。豊臣秀吉、宣教師追放令。 
 1590年 秀吉、大規模な京都改造事業に着手。
 1591年 秀吉、御土居を築く。
 1596年 宣教師・信者への大規模な迫害始まる。
 1598年 秀吉、死去。

 「南蛮」と呼ばれるポルトガル人が京都に住んだ短い期間、御所西の聚楽第を囲うように御土居が造られ、さらにキリシタンの南蛮寺も、御所の北西や南に建てられて信者を集めていたのでしょう。
 現在の河原町に御土居が築かれていたため、その東の今の先斗 (ぽんと) 町は、ちょうど川に中に位置していたことになります。南蛮との関係は、「南蛮空間、京都を歩く(2)」で書いたように、言葉のみの関わりだったといえます。

 東山の「大文字」をながめながら、鴨川、御土居址、御所、聚楽第跡と、まっすぐ西へ歩いてみましょう。豊臣秀吉の「夢のまた夢」を想いながら。
  • 御所東の廬山 (ろざん) 寺墓所東の御土居址
  • 河原町通りに面した御所東の御土居址
  • 都を囲った史跡御土居址を示した地図 京都府立医科大学創立125周年記念事業実行委員会設置 河原町通り

2017/06/18 22:20:00 1808年から二百九年、1908年から百九年

  • Categoryブラジル紹介
  • Posted by住田 育法
 1908年6月18日に, 移住者781名を乗せた日本からの移民船「笠戸丸」がブラジルのサントス港に到着したことを記念して, 日本では「海外移住の日」, ブラジルでは「日本人移民の日」と呼んでいます。
 来年の2018年にはブラジルでは大統領選挙が予定されていますが, 日本人移民到着110周年にあたります。そこで改めて歴史を振り返ってみると, 8で終わる年に, ブラジルでは大きな変革を経験していることに気が付きます。
 
 植民地時代
 1578年 アルカセル・キビールの戦いで宗主国ポルトガルの国王, 戦死。
 1808年 ナポレオン軍から逃避したポルトガルの王室, ブラジル到着, 開港。

 独立以後
 1888年 ブラジルの黒人奴隷制廃止令に皇女イザベル署名。
 1908年 日本人のブラジル移住開始。
 1938年 ブラジルで移民同化政策が始まり, 日本語学校閉鎖。
 1958年 ボサノヴァ誕生
 1968年 軍政令第5号布告。軍政による暗い時代です。
 1988年 民主的な新憲法公布。民政移管後の明るい時代です。

 未来
 2018年 1988年憲法による民主的な大統領直接選挙の予定

 植民地のブラジルの運命を変えることになった本国ポルトガルの転換期を招いたのが, 1578年と1808年の出来事でした。
 前者の国王戦死の悲劇によって, ポルトガルは支配者を失い, スペインに併合されます。ところが, 新世界のスペイン領とポルトガル領の境界線が曖昧となり, ポルトガルの入植者は内陸部深くに開発を進め, 1750年のマドリッド条約で, ポルトガル領ブラジルは, 今日に近い領土を確保します。世界における展開では, アジアの支配を失ったポルトガルが, 植民地ブラジルに力を入れるようになり, ブラジル開発に拍車がかけられました。
 後者のポルトガル王室のブラジル逃避によって, 独立運動の地であるミナスジェライスに関係無く, ブラジルが帝国として独立を果たす, というきっかけを与えたのです。
 帝政時代の1888年は, 黒人奴隷社会のブラジルが, まったく新しい近代的な自由労働の社会に生まれ変わった年です。この変化の重要性を強調したブラジルの歴史家のセルジオ・B・デ・オランダは, ブラジル人の国民性には, ポルトガルから受け継いだ「真心」の姿勢があると述べています。民族的にも地域的にも多様な異種族混淆の国民から成るブラジル社会において, この寛容な姿勢こそが, 国民の間の悲惨な争いを避け, 平和な国民の統合と調和を保つための背景となっていると理解できるのです。
 1908年の日本移民の始まりの歴史を見ると、この寛容な姿勢が, ブラジルのその後の独裁政権においても示されていることが分かります。つまり, 北米のような「排日」ではない対応だったのです。
 2018年はどのような変革の年になるか分かりませんが, 2002年に貧困階層から登場したルーラ元大統領が, 次期大統領選に出馬を表明しています。社会的格差の是正が求められるブラジル社会において, 貧者の味方として再選される可能性もあるでしょう。
 1908年から110年目の来年の移民の日を思い, 「真心」の民, ブラジル人とのさらなる友好を祈ります。
  • 1808年から200年目に出版された歴史書の表紙
  • ボサノヴァ50周年記念のCD
  • 日本人移民100周年のブラジルの記念切手

2017/04/29 08:00:00 南蛮空間、京都を歩く(5)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 南蛮空間を実感するため、はるか426年前に、外敵の襲来に備える防塁と川の氾濫から都を守る堤防として豊臣秀吉が築かせた、御土居を歩きました。

 京都の北区に居住する筆者は、天神川と呼ばれる紙屋川 (かみやがわ) 沿いの小道を、日常の散策に利用しています。今回は、堀川通りを上賀茂まで歩いて北上し、そこから「御土居」巡りを始め、金閣寺のそばの鷹峯 (たかがみね) を越えて、新緑の美しい北野天満宮境内の馬喰町の御土居までたっぷり歩きました。新緑の季節のウォーキングは実に快適です。
 ところで、京都の東を流れる鴨川は上流に遡 (さかのぼ) ると、現在、賀茂川と書きますが、天神川は、平安京のときには西堀河、もしくは柏 (かえ)川と呼ばれ、朝廷が用いた紙を漉 (す) いた紙座があったことから、紙屋川と称されるように。やがて、「天神さん」、つまり菅原道真を祀る北野天満宮の西を流れるので、天神川と。今では、上流から下流まで「天神川」と総称されています。

 御土居には、都の洛中と洛外を区別する役割もあったので、御土居を歩くことは、南蛮屏風 (参照:写真) に描かれた古い歴史の「洛中」を21世紀の今、体験することになります。まさに「土塁」が提供してくれる南蛮空間との出会いです。
 ちなみに、僅かに残る「御土居」のうち,以下の9か所は国指定史跡になっています。

(1)北区鷹峯旧土居町
(2)北区大宮土居町
(3)北区紫竹上長目町・上堀川町
(4)上京区寺町広小路上ル北之辺町(廬山寺内)
(5)中京区西ノ京原町
(6)上京区馬喰町(北野天満宮境内)
(7)北区平野鳥居前町
(8)北区紫野西土居町
(9)北区鷹峯旧土居町

 佛教大学の紫野キャンパス西の北区鷹峯旧土居町に立ててある案内板の説明を以下に紹介しましょう。
 
 史跡 御土居 (おどい)
 京都の「御土居(おどい)」は、天正19年 (1591) 豊臣秀吉が多数の人びとを動員して築いたものである。これより先、戦国乱世の時代に、京都では「町の構 (かまえ)」や「ちゃうのかこい」を築いて、町を自衛する態勢がとられた。また、堺や山科、石山をはじめ各地の寺内町などの都市や村落でも環濠城塞 (かんごうじょうさい) 化する動きがみられ、こうした動きをうけて「御土居」は築かれたが、住民が自衛するための施設ではなかった。
 天下一統をとげた秀吉はながい戦乱で荒れはてた京都を復興し、その近世城下町化をはかったのである。まず聚楽第 (じゅらくだい) を設け、これを中心に街区 (がいく) を改め、寺院を寺町と寺の内に集めた。そして、まわりに濠 (ごう) と土塁 (どるい)をめぐらし洛中 (らくちゅう)と洛外 (らくがい)を分ち、「御土居」に七口を設けて洛外との 交通をここに限ろうとした。秀吉は「刀狩り」の政策に示されるように、民衆の自衛権を否定し、都市を支配し、その権力を示すために「御土居」を築いた。
 (中略)
 ここは「御土居」の西辺の北端に近く、その底部は幅十間、南が「御土居」に設けられた切通 (きりどお) し、中野道になり、西の小道に面して藁葺 (わらぶき) の入母屋造 (いりもやずく)りの鷹ヶ峯番小屋がおかれ、西へなだらかな斜面をなして紙屋川の谷へつながっていた。洛外への見張りの小屋の役目を果たしていたのだろう。史跡公園として整備するにあたり、この番小屋の位置に亭をおいた。わが国に数少ない都市をめぐる城塞 (じょうさい) の史跡として、また日本の都市についてかんがえる場としてこの「御土居」の価値はきわめて高い。史跡公園として、また近隣住民の憩いの場として保存され、活用されることを期待する。                 昭和54年10月 京都市


 最後に京都における「南蛮」の軌跡を、略年表で確認しておきます。

1550年 ザビエル入洛。ザビエル離京。ビレラ、将軍に謁見。
1559年 京都でのキリスト教布教本格化。
1561年 京都最初の礼拝堂建設。
1576年 礼拝堂再建。
1582年 本能寺の変、信長自害。。
1586年 秀吉、豊臣の氏を賜る。聚楽第造営、開始。 
1587年 聚楽第完成。豊臣秀吉、宣教師追放令。 
1590年 秀吉、大規模な京都改造事業に着手。
1591年 秀吉、御土居を築く。
1596年 宣教師・信者への大規模な迫害始まる。
1598年 秀吉、死去。
1603年 長崎版『日葡辞書』日本イエズス会刊行。
1604年 復興されたヤソ会の天主堂教会が京都にあった。
1612年 幕府、キリシタン大弾圧開始、天主堂も焼き払われる。

 それでは、皆さん、天神川西の京都外国語大学のキャンパスでお会いしましょう。アテー・ブレーヴィ (Até breve)!
  • リスボン市の国立古美術館展示の南蛮屏風 「南蛮寺」の様子 筆者撮影。
  • 北野天満宮境内の御土居 (写真右側) 天神川は手前 (南) に下って水量を増し、京都外国語大学キャンパス西を流れています。
  • 北野天満宮境内の御土居の案内板 「青もみじ」の季節に訪問。

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