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ブラジルポルトガル語学科ブログ RSS


2018/03/09 23:30:00 『菜の花の沖』のことば (3)

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田 育法
 高田屋嘉兵衛のことばである日本語によって発せられる号令が、ロシア人の乗組員に通じたそうです。
 この不思議な現象は、暴風雨のもとで、しかも座礁の危険のある状況のなかで起こりました。『菜の花の沖 (六)』の「北へ」の箇所です。

 しかしその号令を発している男が、艦長でも当直将校でもなく、捕虜にしたばかりの日本人であるということに、ロシアの水兵たちは違和感を抱かなかったのであろうか。
 抱かなかったらしいことは、何人もが勇敢にマストに登りはじめたことでも察せられる。おそらくかれらは、前日から嘉兵衛を見て、ごく自然に「隊長」とよんでいたことでもわかるように、海を棲処 (すみか) としてすぐれた指揮能力をもつ男ということが、かんで理解できていたのかとおもえる。
 

 嘉兵衛の相手のリコルドもすごい。

 リコルドは、異国の人名、地名、あるいは物の名をきけば、すぐ憶えられるという異能をもっていた。
 嘉兵衛と部屋を同じくしていて、嘉兵衛が持っている日本語が、単語のかたちでリコルドの脳にしみついてゆく。
 嘉兵衛も、リコルドが喋るロシア語を憶えようとしていた。両人は、日本語やロシア語というそれぞれ何千万人が使っている普遍的な言語世界があるとは考えず、嘉兵衛はリコルド・コトバとしてロシア語を、一方、リコルドは嘉兵衛 (かこ)・コトバとして日本語をおぼえようとした。
 互いに、単語だけで十分だった。単語をいくつかならべれば、相手は勝手に頭の中で文脈をつくってつなぎあわせるように努力するのである。それには、日常起居をともにしているということが、有利だった。


 ことばは平和のシンボルですが、南蛮人と呼ばれたポルトガル人が伝えた鉄砲は、国内統一という「パックス」をもたらしました。しかしその火縄銃は、当時すでに時代遅れであったと、『菜の花の沖』で司馬遼太郎が記述しています。
 
 嘉兵衛はロシアのコザック兵が持つ小銃を観察していたようです。
 
 火縄は用ひず、火燧 (ひうちいし) の由に候。

 この嘉兵衛の観察に続けて、日本に鉄砲が伝来した1543年の前の1515年に歯車式激発法が発明され、この原理に火打石が用いられ、全ヨーロッパにまたたくうちに広まったと、小説は綴っています。この武力差でもし闘えば、日本は一瞬にして敗北したでしょう。

 日本の火縄銃は、その伝来のときから、形式が古くなっていたのである。
 
 武器ではなく平和の「ことば」で繋がった二人に、やがて函館において別離が訪れます。

 函館好日
「函館、函館」
 嘉兵衛は船尾 (とも) に立って、何度もつぶやき、涙が流れてとまらなかった。
 嘉蔵や金兵衛たちが小舟で迎えにきた。
(略)
 前艦長ゴローニン少佐は、艦長室にもどった。嘉兵衛がながい期間、そこに横たわっていたベッドに腰をおろし、リカルドが注いだ帰還最初のウオッカを少しずつ飲んだ。
 逆風がしずまった日本暦9月29日、リコルドは出港用意の信号をあげた。
(略)
 やがてディアナ号は湾口に出たとき、風の中で鳴るようにして帆を展 (ひら) いた。そのとき、リコルド以下すべての乗組員が甲板に整列し、曳綱を解いて離れてゆく嘉兵衛にむかい、
 
 ウラァ、タイショウ

 と、三度叫んだ。嘉兵衛は不覚にも顔中が涙でくしゃくしゃになった。一閑張(いっかんばり) の遠めがねを高くあげ、足もとをよろめかせながら、

 ウラァ、ぢあな

 と、何度もわめいた。やがてディアナ号は、水平線のかなたに没した
 
  • 海上自衛隊の護衛艦や掃海艇の浮かぶ現在の函館港。筆者撮影
  • 函館ハリスト正教会。筆者撮影
  • ロシア人墓地から望む津軽海峡の日没。筆者撮影

2018/03/09 11:40:00 『菜の花の沖』のことば (2)

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田 育法
 日本人の嘉兵衛がロシア人のディアナ号艦長リコルドに捕まりました。
 そして、二人の互いのことばによる交流が始まります。
 たいへん面白い内容です。

 小説は以下のように描写します。

 両者のあいだに、通訳はいない。
 ただ艦長リコルド少佐は、さきに艦にもどらなかった通訳良左衛門 (五郎次) から、この島までの航海中、日本語の手ほどきを受けた。


 リコルドをロシア語 (Рикорд)で紹介すると以下のようになります。

 Пётр Иванович Рикорд (29 января [9 февраля] 1776, Торопец — 16 [28] февраля 1855, Санкт-Петербург) — российский адмирал, путешественник, учёный, дипломат, писатель, кораблестроитель, государственный и общественный деятель.

 母語が異なる二人のコミュニケーション開始は、相手をどのように呼ぶかでした。

 リコルドの日本語:
 高田屋嘉兵衛 = タカダイ・カヒ
 船頭・船持 = シンド・フナモチ
 
 リコルドが理解していた、日本社会の身分制
 百姓人 = フャクショ・シト
 商人や職人などの町人 = マヂノ・シト
 嘉兵衛を尊んで呼ぶ = コマンディル
  指揮官、司令官、隊長、艦長

 司馬遼太郎が綴る次のやりとりが面白い。

「隊長」
 と、リコルドは嘉兵衛を称 (よ) んだ。
 リコルドは、手持ちのごくわずなかな日本の単語を、懸命にならべた。
「オロスヤ、オロスヤ」
 と言い、自分を指さし、さらに嘉兵衛を指さして、
「行く」
 ということばを繰りかえした。
「海。冬」
 リコルドがいった。やがてこの海に冬がくる。来るまでにカムチャッカまで逃げのびてそこで冬営せねばならない、とリコルドはいう。
 嘉兵衛はリコルドの表情を見つめている。表情もまた言語である。リコルドはよく心得ていて、舞台俳優のように表情の変化を大げさにした。
「ガロヴニン」
 と、ゴローニンその人の名を、この部屋で何十回くりかえしたろう。
(略)
嘉兵衛は、リコルドの喋ることばを、ききつづけた。このロシア人の唇からころがり出るふしぎな日本語の単語は、うかうかすると、シャボン玉のように空 (くう) に消えてしまう。嘉兵衛にすれば、その一つ一つをつかんで、数珠 (じゅず) のように緒 (お) を通して文章にしなければならない。(略) われわれと一緒にロシアへ行こう。
 嘉兵衛は一息置き、うなずいた。
「ようがす」


 ロシア側の嘉兵衛たち日本人拉致の目的は、そのゴローニンの救済であると嘉兵衛は気がつきます。
 ところでグローバルな展開を見ると、ブラジル研究者の筆者、住田にとって実に興味深いのは、このゴローニンが世界一周の航海を始めて、南米の最南端からアフリカの最南端の喜望峰へ移動した1808年に、ナポレオン軍に追われたポルトガルの王室がブラジルへ逃れたのです。掲載の地図を参照してください。
 
 さて、ロシアへ連行される決定の後、嘉兵衛が弟たちへ書いた手紙の冒頭が残っています。

 拙者(せっしゃ) 儀、此度 (このたび)、天運つき候や、異国へ参り候。

 楽しい出来事もあります。異文化交流の瞬間です。

「観世丸の水夫に、私の艦を見学させたいというのか」
 かれ (リコルド) も手まねをまじえていうと、嘉兵衛は、そうだ、と答えた。
(略)
 リコルドは、嘉兵衛の申し入れを言下に承知した。かれは当直将校を呼び、
「日本の水夫全員に、本艦を見学させる。みなで歓迎するように」
 と、命じた。
(略)
 リコルドは、係に命じ、艦長室の椅子にすわった日本人たちに、銀の酒器でロシアのウォッカを飲ませた。この強い酒のおかげで、かれらはいっそう打ちとけた。艦長室で振舞いをうけたかれらは、甲板上にもどると、ロシアの水兵をつかまえては、手ぶりで話しかけた。
 
  • 日本人が描いたディアナ号 ウィキペディアより。
  • 老年のリコルド (Ricord = Рикорд: 1776 – 1855) ウィキペディアより。
  • ディアナ号によるゴローニンの世界一周航海。1808年から1811年 (青色)

2018/03/08 17:30:00 『菜の花の沖』のことば (1)

  • Categoryお知らせ
  • Posted by住田 育法
 学生のころ繰返し読んだ『坂の上の雲』(文藝春秋) も『菜の花の沖』と同じく全六巻でした。

 『坂の上の雲 一』1969年

 懐かしい、司馬遼太郎の「語り」です。

 春や昔
 まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。
 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐 (さぬき)、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑 (ゆう) は松山。
 城は松山城という。

 『坂の上の雲 二』1969年
 『坂の上の雲 三』1970年
 『坂の上の雲 四』1971年
 『坂の上の雲 五』1972年
 『坂の上の雲 六』1972年

 ちょうど『坂の上の雲 六』最終巻刊行10年後の1982年に『菜の花の沖 (六)』が出版され、今、当時読んだものが手元にあります。

 さて、主人公の高田屋嘉兵衛が函館に拠点を置く商人だったので、小説のことばは日本語と北の国のロシア語です。そして『菜の花の沖 (六)』はナポレオン軍がモスクワへ兵を進めて敗北したロシア戦役の1812年から始まっています。

 遭遇
 リコルド少佐は、不期の戦いも覚悟していた。毎日の緊張が、目の下の肉を削 (そ) ぎとってしまった。かれがひきいる軍艦ディアナ号と護送艦ゾーチック号が、ともすれば霧が出て視界を乳色にしてしまう南千島の海域をうろつきはじめたのは、ロシア暦の八月中旬 (1812年・文化九年) のことである。
 霧のほか、風も潮流もすべて操船に都合 (つごう) が悪かった。
(略)
 霧の中の軍艦ディアナ号の「目」のほうが早く、嘉兵衛がディアナ号を見るよりさきに観世丸みつけた。
「大型日本船が」
と、艦長リコルド少佐は書いている。
「外海からまともな湾内に入って来るのを認めた」
 といって、べつに戦時ではないのである。観世丸が、なにごともないはずの自分の海域を帆走していて、油断していたのに対し、ディアナ号のほうは日本船をとらえるべく鵜 (う) の目鷹 (たか) の目になっていた。そういう姿勢のちがいはあるが、ほかに日本船が高いマストに見張りを置いていないということもある。さらに決定的なのは、日本船の伝統では、ほとんど訓練がほどこされていないということにあったろう。
(略)
 イギリスで発達した商船、私掠船 (しりゃくせん 戦時の通商破壊の私的な船)、さらには海軍の伝統にあっては、乗組員というものは、陸 (おか) の世間に住む人間とはずいぶんちがっていた。かれらは合理化されぬいた役割を個々に自覚し、それにともなう激しい訓練をうけ、かつ各員の役割についてはきびしい倫理観で裏打ちされていた。
 そういうシステムによって訓練されたロシア海軍にあっては、見張りの者の能力一つとっても日本船とはけたはずれにすぐれていた。

 司馬遼太郎の目線から、19世紀瀬戸内生まれの商人、高田屋嘉兵衛の北の国のリコルドとのことばの交流を小説を読みながら取り上げてみましょう。 
  • 1812年ロシア戦役 (ナポレオン戦争) における戦闘の1つボロジノの戦い。絵はウィキペディアより。
  • 函館の高田屋嘉兵衛の銅像。筆者撮影。
  • 函館の高田屋嘉兵衛の住居跡と筆者。

2018/02/27 23:50:00 『菜の花の沖』の船と南蛮の船 (Ⅰ)

  • Categoryポルトガルのニュース
  • Posted by住田 育法
 学部のゼミ生や院生たちの論文指導を終えて、研究室の書棚を整理していると、積まれた書物の下から過去に読んだ小説が出てきました。司馬遼太郎の『菜の花の沖 (三)』です。
 年末の大掃除のとき、畳の下から出てきた過去の新聞の記事を読むような気持ちでぺージをめくりました。小説のタイトルは春の「菜の花」ですが、第三巻は夏の海から始まっています。
 
 嘉兵衛の海
 夏がすぎた。
 海は、季節とともに生きている。夏がおわるころ、さほどに風もないのにはるかな沖からながいうねり波が押しよせてきて、たらいの中のような瀬戸内 (せとうち)の海でも大いにさわぐ。土用波である。
「土用波の日にも、嘉兵衛の船が走っていた」
 と、兵庫の西出町あたりでは、評判になった。次弟嘉蔵が指揮する長慶丸が、玄海灘で土用波に遭っても寄港せず、馬関 (ばかん) 海峡の早瀬に乗って矢のように突っきってゆくのを、壇ノ浦 (だんのうら) あたりで寄港していた兵庫船がみておどろいたという。
「ああいうことをしていると、いずれひどい目にあうぞ」
 と、ひとびとが陰口をたたいたが、嘉兵衛もそのとおりだと思っている。


 軽妙な筆運びの作家のおもわくにはまって、そのまま読み続けました。
 約30年前に読んでいた作品だったので、私の癖ですが、あちこちに鉛筆で線が引いてありました。とくに和船と南蛮船の違いに、当時の読者、住田は興味を持ったようです。それは、大海を移動するとき、複数の帆をあやつって大型帆船を利用した南蛮人たちのようなヨーロッパ人とは異なり、鎖国時代の日本人は、ただ1つの帆をかかげる船で大海を航行したことです。

 司馬遼太郎の説明を借りてみましょう。
 
 辰悦丸
 帆柱というのは、本来、一本の自然木でできているものであったが、船が大型化するにつれて、そういう木を求めることが困難になった。
 このため、
「松明柱 (たいまつばしら)」
 とよばれるものが、一般化している。
(中略)
 幕府が、船の力が増すことをおそれ、すべて帆柱は一本ということに制限していることはすでに述べた。
 柱一本・帆一枚で遠くへゆくには、帆の風当たり面積を大きくせざるをえず、このため柱も長大にならざるをえない。ついに柱の長さは船の長さの九割ほどという、べらぼうなものになっていた。
 船体からみて、たかだかと天空に立っているこの柱は (中略) 非常の場合は斧 (おの) をふるって柱を伐 (き) りたおすというのが心得になっていた。とにかくこの柱のために和船の漂流というのが多かった。

 南蛮の船に比べて合理的でない、というのは残念に思いますが、その不利な条件を克服して大海原に乗り出した日本の瀬戸内の船乗りの勇気に惹かれます。 
 ともかく、瀬戸内海とは異なる荒波の日本海を江戸時代の船乗りは、帆柱一本の船で航海していたという現実を『菜の花の沖』で知り、その男たちに感情移入をしながら、古都の春の訪れを楽しんでいます。

 第三巻の「あとがき」は春で終わっています。灘の酒についておもしろいので紹介します。

 あとがき
 (略) 毎春二、三月のころに、灘五郷や池田、伊丹、大坂などの新酒をのせた船が西宮の湊に勢ぞろいするさまが書かれている。
 五六艘若(もし)くは七八艘申合せて、一時に西宮港を出船し、各(おのおの) 品川に先着を競争する、其(その) 出船(でふね) の式を行ふのである。
 (略)
 ついでながら、嘉兵衛の時代、主としてこの西宮湊から船積みされて江戸に送られる「下(くだ)り酒」は年間、じつに七十万樽といわれた。こんにちでもなお気が遠くなるほどの量といっていい。      
 昭和五十七年六月


 『菜の花の沖 (四)』以後も続けて紹介します。
  • 春の訪れを告げる黄色い菜の花。京都府立植物園の早春の草花展にて。
  • 大航海時代のポルトガルの帆船のレプリカ。リスボンの海軍博物館にて。
  • 江戸時代の北前船復元の写真。ウィキペディアより。

2018/02/19 02:30:00 学科創設50周年記念誌発行のための編集同窓会終わる

  • Categoryイベント
  • Posted by記念誌発行編集主幹
 日本の各地で春を呼ぶ早春の風物詩がおこなわれる2月18日の日曜日、京都では第7回京都マラソンの走者が四条通りの外大前を走りました。
 京都新聞によると「ペア駅伝と車いす競技を含めて約1万6千人が早春の古都を駆けた。スタートの午前9時に西京極陸上競技場 (右京区) の気温が6.7度と前年を4.3度下回る寒さの中、参加者は仁和寺や京都御苑などの歴史豊かな名所沿いや鴨川河川敷などを走り、懸命にゴールの平安神宮前 (左京区) を目指した。完走者は1万5,3431人。沿道には約53万人が詰めかけ、ランナーに熱い声援を送っていた」。
 この「マラソン」の熱気の残る右京区の母校に約90名のブラジルポルトガル語学科の卒業生が集いました。
                
 1967年度入学1970年度卒業の第1期生2名、2期生2名、3期生3名、6期生1名、7期生5名、8期生6名、9期生2名、10期生3名、11期生3名、12期生6名、13期生2名、14期生1名、15期生3名、16期生4名、18期生4名、19期生1名、20期生3名、22期生1名、24期生1名、25期生1名、26期生2名、28期生1名、31期生5名、32期生6名、33期生2名、34期生1名、35期生4名、38期生1名、42期生1名、43期生5名、45期生1名、46期生2名、2016年度卒業の第47期生1名の合計86名でした。

 12時開始の編集会議と12時30分開始の懇親会の会場は新しい4号館です。
 建物1階の南側もしくは西側の入口から入って、エレベータ、あるいは階段で移動しました。

 第Ⅰ部・編集会議:
 4号館3階432教室 12時~12時25分まで 
 編集についてスライドショーを使用。
 教室入口で校友会会員皆さんにネームプレートを渡します。
   
 第Ⅱ部・懇親同窓会
 ※ 校友会会員以外は大学教職員のみが参加。 
 4号館6階スカイラウンジ南 12時30分~14時30分ごろまで
 飲食付き BGM = ボサノヴァのCD

 第1期生の住田育法教授の司会により横山卓哉総長補佐 (写真)が挨拶を始め、欠席の理事長・総長森田先生の祝辞を読みました。
 ブラジルポルトガル語学科創設50周年記念同窓会を祝して
 ブラジルポルトガル語学科創設50周年、誠におめでとうございます。
まずは、皆さま 
 ‘わが母校に、おかえりなさい’。 
 創設以来、半世紀を経て、卒業生の皆様が日本各地からご参集いただいていると伺い、皆様方のいつまでも変わらない友情・絆を頼もしく感じております。
 本来ならば、拝顔の上、ご挨拶をさせていただきたいところでありますが、出張のため、ご無礼いたします。
 本学園も昨年、70周年という節目に、新4号館完成、新学部“国際貢献学部”設置という大きな飛躍の年を迎えることができました。これもひとえに卒業生の皆様の変わらぬご支援・ご協力のお陰と、心より感謝申し上げます。
 これからも、京都外国語大学の伝統を重んじつつ、またそこから革新を生み出し、挑戦し続ける大学として、一歩一歩、歩みを進めてまいりたいと思います。
 どうか、皆様におかれましても、それぞれの人生を健やかに、不撓不屈の精神でご活躍いただきますようお祈り申し上げます。
あらためまして、ブラジルポルトガル語学科創設50周年、心からお慶び申し上げます。
                         学校法人京都外国語大学理事長・総長 森田嘉一
  
 続いて島谷直見校友会会長から暖かいブラジルポルトガル語学科同窓会応援のメッッセージを頂戴しました (写真)。
 彌永史郎学科長の挨拶に続いて、「外大ビール」を製造している「キンシ正宗」の取締役社長をつとめる校友の堀野恭史さんから懇親会に60本の差し入れを賜り、乾杯の音頭もとっていただきました。
「会うのは、40年ぶりかも」と言った会話も聞かれる中、遠くに白き峯の北山連峰(きたやまれんぽう)や雲にかすむ愛宕山をながめながら、リブレの食事で舌鼓を打ち「外大ビール」でのどを潤しつつ、ボサノバのリズムと懐かしいおしゃべりを楽しみました。
 2時間を超える素敵な想い出のコミュニケーションを終えて、最後に記念の集合写真(写真)を撮り、皆で「再会」を誓いました。
  • 開会の挨拶を述べ、続いて、理事長・総長森田嘉一先生の祝辞を読む横山卓哉総長補佐。
  • 「集い」に対して暖かい祝辞を述べる島谷直見校友会会長。
  • やく90名が集ったブラジルポルトガル語学科の校友たち。

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